来週10月16日ですが、軽井沢の脇田美術館のアールト関連シンポジウムに、SADIの益子先生、平山先生らと共に登壇させて頂きます。アールト作品の保存問題、いろんな角度から問題提起ができそうです。
SADIではどんなに告知しても北欧関連講演で50人集めるのは至難の業なのですが、さすが脇田美術館100人集めるというのですからすごいです。遠いですが、いらして頂くと吉村順三氏設計の脇田山荘の見学もできるそうです。
今日はその打合せでしたが、益子先生、平山先生のお話を聞きながら、ゆっくりお酒が飲めるというのも私にとっては最大の役得だったりします。
詳細はこちらより
脇田美術館|軽井沢で学ぶ建築デザイン [近代建築デザイン講義] 2016
http://www.wakita-museum.com/event/event/wood_design_2016/index.html
16. 09 / 30
ディテールの時代
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sekimoto
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> 思うこと
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ここのところ立て続けに映画を見た。ひとつは今話題の「君の名は。」、そして「シンゴジラ」。どちらもとても良い映画だった。
ストーリーやジャンルは違うけれど、私はそこになんとも言えない現代性を感じた。一言でいえば「今どき」な感じがした。
それをあえて別の言葉で表すとすれば”ディテール性”のようなものかもしれない。要は、今や人々はまやかしのふわっとしたイメージではなく、よりリアルなもの、実際にそれが存在することの証明のようなものを求めているのではないかと思うのだ。
例えば「君の名は。」は、ストーリーの大枠としてはありえないSF的要素が入り込みながらも、そこに登場する人物描写や、背景、小物などは実にリアルに描きこまれている。実在の場所もいくつも出てくる。ともすると、これは実際に起こった出来事なのではないかと錯覚するほどに。ある意味、ジブリの”ナウシカ”や”トトロ”とは一線を画す世界観といえるかもしれない。
一方の「シンゴジラ」も、往年のゴジラ作品との大きな違いは、やはりその”リアルさ”にある。ネタバレになるのであまり書けないが、とにかく今この東京に実際にゴジラが現れたらどうなるかという状況を、やりすぎと思えるほどにリアルに描いている。
かつてのウルトラマンシリーズでは、街中でウルトラマンと怪獣が戦い、そしてウルトラマンは3分で勝負をつけて宇宙へと帰って行った。最初からスペシウム光線を使えばいいのにとか、怪獣を倒した際の街の被害総額は?とか、そういう視点は頭の隅にあっても言ってはいけないことになっていた。
ディテールへの言及は野暮であり、無粋だったからだ。「そういうもの」として娯楽を楽しむ。それが暗黙のルールだったのだ。
しかし、現代の共感性はディテールにこそ宿る。みんな気づきはじめてしまったからだ。結局ディテールが大事なんじゃないかということに。ふわっと都合の良いファンタジーだけを語るということに、みんな「もうダマされないぞ」と思い始めている。
建築もそうだ。もう「コンセプトを語る」という建築のあり方は一世代前の建築家のあり方といえる。今どき”コンセプト”なんていう言葉を発すること自体が寒い。大切なのは具体的にどうするかという方法論(ディテール)であり、実際にどうだったかという経験値(フィードバック)。そこを語らずして、クライアントの信頼を得ることは出来ない世の中といえる。
ディテールの時代。詰まるところ、それは地に足着けて地道にコツコツやってる人だけが生き残れる世の中、ということなんじゃないかと思う。
建築の設計をしていて、こういうプランや納まりをすると大変そうだなと思うことが多々ある。けれどもそれをやったらすごく良くなる、ということが分かっているとおのずと難しい方の道を選ぶことになる。
詰まるところ建築というのは二択があれば、困難を選ぶ確率がすこぶる高い分野であると言える。特に独立して設計を生業としているような者は、これまでの人生に於いてもそういう選択肢を選択し続けてきた者とも言えるかもしれない。
そういう意味では、建築には本質的に「マゾヒスト(M)的な気質」がどこかにある。自分をどんどん窮地に追いやり、それを嬉々として受け入れているようなところがあるように思えてならない。
一方で、その受け入れた困難はそこでは終わらない。設計をすれば今度はそれを実現する施工者という立場の者が現れる。するとこの者の立場は一転する。自ら選んだ困難の道を、今度は人を巻き込み、これを強いる立場となるのだ。
その者は出来ないと言う者を説得し、時に上から時に下から、また時には脅し(?)、拒めばどうして出来ないのかと責めたてる。その者の下に付いた部下はもっと悲惨であろう。そういう意味において、建築には本質的に「サディスト(S)的な気質」があると言わざるを得ない。
建築の創作のプロセスにおいては、このSとMとが交互に現れる。
自らの背後には常に批判的な”黒い”人格がいて、自分のやることなすことをコテンパンにこき下ろす。それに対して負けじと必死に反論を試みながら設計は進んでゆく。この場合の背後の人格は、いわば「世間という名の悪意」というべきものであろう。
その血も涙もないようなツッコミの数々には、自分の中にこんなにも底意地の悪い一面があったのかと自分でも引くくらいであるが、一方では「建築はSである」という論証がここでも証明されることになる。
ところが、その状況は他ならぬ自らが作り出したものであり、その批判を甘んじて受け入れている自分を認めるならば、やはり「建築はMである」とも言えよう。
というわけで、もし私が建築に必要な素養とは何ですか?と問われれば、迷わず「SとMです」と答える。重要なのはそのバランスで、Sが強すぎれば人の心は離れ、Mが強ければ状況に流されてしまう。いずれも優れた建築はできない。
ちなみに私の周囲をタイプ分けするならば、Sが8割 Mが2割である。(当社比)
詰まるところ建築というのは二択があれば、困難を選ぶ確率がすこぶる高い分野であると言える。特に独立して設計を生業としているような者は、これまでの人生に於いてもそういう選択肢を選択し続けてきた者とも言えるかもしれない。
そういう意味では、建築には本質的に「マゾヒスト(M)的な気質」がどこかにある。自分をどんどん窮地に追いやり、それを嬉々として受け入れているようなところがあるように思えてならない。
一方で、その受け入れた困難はそこでは終わらない。設計をすれば今度はそれを実現する施工者という立場の者が現れる。するとこの者の立場は一転する。自ら選んだ困難の道を、今度は人を巻き込み、これを強いる立場となるのだ。
その者は出来ないと言う者を説得し、時に上から時に下から、また時には脅し(?)、拒めばどうして出来ないのかと責めたてる。その者の下に付いた部下はもっと悲惨であろう。そういう意味において、建築には本質的に「サディスト(S)的な気質」があると言わざるを得ない。
建築の創作のプロセスにおいては、このSとMとが交互に現れる。
自らの背後には常に批判的な”黒い”人格がいて、自分のやることなすことをコテンパンにこき下ろす。それに対して負けじと必死に反論を試みながら設計は進んでゆく。この場合の背後の人格は、いわば「世間という名の悪意」というべきものであろう。
その血も涙もないようなツッコミの数々には、自分の中にこんなにも底意地の悪い一面があったのかと自分でも引くくらいであるが、一方では「建築はSである」という論証がここでも証明されることになる。
ところが、その状況は他ならぬ自らが作り出したものであり、その批判を甘んじて受け入れている自分を認めるならば、やはり「建築はMである」とも言えよう。
というわけで、もし私が建築に必要な素養とは何ですか?と問われれば、迷わず「SとMです」と答える。重要なのはそのバランスで、Sが強すぎれば人の心は離れ、Mが強ければ状況に流されてしまう。いずれも優れた建築はできない。
ちなみに私の周囲をタイプ分けするならば、Sが8割 Mが2割である。(当社比)
学生時代の設計課題は1年生の時のものから保管してあって、たまに学生が来ると話のタネに見せている。昨日は以前見せた学生がまた見たいといってやって来た。
当時はCADもイラレもないから、当然手描き。写真は3年生前期のセミナーハウスの課題で、フィルムトレペにインキング、着彩は裏からエアブラシを吹いた。フィルムの透過性を利用して、断面図の上に立面を重ねてガラス張りのファサードを表現している。
平面図も含め、今見てもよく描けてるなぁと思う。当時はプレゼンに丸二週間をかけていた。今の学生の手抜き図面(彼らはそう思っていないだろうが)を見ると歯がゆくて仕方がない。
なーんて話をし始めると、今時のワカモノを嘆く老人のようで本当に嫌だ。学生にも、当時はねなんて話をしていると、戦争を知らない子たちに戦時中の話を聞かせている語り部のようで心が折れそうになる。ロットリングって何ですか?と言われる。ついこの間の話のはずなのに!
16. 09 / 19
千畝と私の学生ビザ
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sekimoto
category
> 生活
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休み中に映画「杉原千畝」のDVDを観た。杉原千畝は第二次世界大戦中に日本政府の意に反し、多くのユダヤ難民に独断でビザを発給し命を救ったとされる人物であるが、映画に感銘を受けながらもふと思い出したことがあった。もう10年以上経っているし時効だろうと思うので少し書く。
今から15年も前のこと、フィンランドのヘルシンキ工科大学(現アールト大学)に留学中だった私は、カリキュラムを終え、ビザの有効期限満了を控えたある日、大学の担当者のところにいた。
当時私は大学に籍を置きつつも、留学のもう一つの目的は大学の授業とは別のところにあった。フィンランドの設計事務所で実務を経験すること。ところが、努力もむなしく留学も満了間近になってもそちらの目的はまだ果たせていなかった。
このまま帰国すると後悔すると思った私は、大学の担当者に直談判した。「大学のカリキュラムが終わり、私のビザももうすぐ切れる。大学の在籍を延長する許可はないし理由もない。けれども私はやることがありフィンランドにまだ残りたい。どうすれば良いか?」
どうもこうもないと思う。自分でも何言ってんだろうと思った。大学がアジアから来た名もない学生の不法滞在の片棒を担ぐことなんてありえないことだ。
ところがその担当者は少し考えてからこう言った。「3日後に来てちょうだい」
その3日後に行ったら、学長のサインが入った大学側のレターが用意されていた。そこには私がカリキュラム終了後には研究員として引続き大学に残り、学費も免除される旨の内容が書かれていた。事実上の空手形である。
「これを(ビザを管轄する)警察署に持っていきなさい。あなたは見るところ真面目な学生のようだし、悪いことしちゃだめよ」
警察署の無愛想な窓口の係官は、滞在延長の書類とその大学のレターとを交互に眺めている。映画では千畝の発給したビザが目の前で破られるシーンがあったが、当時の私も同じ心境であった。
ところが実際には目の前で無事ビザ延長のスタンプは押され、あっけなく滞在延長は許可されたのだった。
その後、おかげで当初の目的を果たすことが出来た私は、半年後に遅れて帰国し事務所を設立した。さすがに命を救われたとまでは言わないが、あそこで帰国を余儀なくされていたら少しはその後のストーリーも変わっていたかもしれない。
それはともかくとして、あそこで規則に縛られず、すべて自分の責任と判断で手形を発行してくれた当時の担当者には心から感謝しているし、そのことを思い出すたびにフィンランドという国の素晴らしさを思う。そして、私もそういう判断ができる人間でありたいと思うのだ。
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