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sekimoto

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> muni
> STAFF



リオタデザインの元スタッフ砂庭陽子さんが、地元青森の八戸に戻って独立するというので、リオタデザインのオリジナルスツールmuniをプレゼントすることに。最近元スタッフにポンポンあげちゃうので大赤字です、、笑

彼女の隠れた特技は書道。師範の資格まで持つ彼女の地元での独立戦略は、「習字教室をひらくこと」。すでにオンライン教室も開いていて全国の生徒さんへの指導が始まっているようです。「設計事務所+習字教室」なんてとっても新しい!

ポートプラウ
https://www.instagram.com/port_plough

先のJIA建築家大会では、地方で活躍する若手建築家のセッションにも参加しましたが、もはや「建築家=建築をつくる・図面を描く」という図式から離れて、その定義や職能がより拡張していることをますます実感しました。

地域のコミュニティに市民と同じ目線・立ち位置でフラットに活動することで、はじめて聞ける声が無数にあると思います。建ものをつくるばかりが建築ではありません。地方になんて建築家の需要はないと諦めているより、彼女のように鉛筆ならぬ筆一本から社会とつながれることはきっとあるはず。

彼女は学生の時にうちにオープンデスクでやってきて、その後入所、退社後もずっと連絡を取り合い見守ってきました。建築から離れてしまった時期もありましたが、戻ってきてくれて本当に嬉しい。宮城の設計事務所LPDで実力を蓄えいよいよ独立。

頭で考えるより、手を動かし心で動く。これからも見守っていきたいと思います。


一昨日はうちのOBスタッフとの会でしたが、昨日は我が師である棚橋廣夫さんのご自宅に訪問。事務所の方は数年前に畳まれたので今は稼働していませんが、場所は仕事をしていた当時のまま時間が止まったようになっています。

今思えば生意気なスタッフでした。私は人の一生分この事務所で叱られたと思っていますが、よく口答えしていましたし、納得がいかないと反抗的な態度をとって所長を困らせたこともありました。まさに反抗期の息子そのもの。そんな息子も結婚(独立)して子供(スタッフ)を持つと、かつて所長に言われたことをそのまま諭すようになります。

自分も大人になったと思う一方で、所長にもあの時はごめんなさいという気持ち、そしてこの師を持てて本当に良かったと感謝の思いです。まさに子を持ち、はじめて親になる心境というのでしょうか。私が事務所に入所した時の所長の年齢に今自分がなりました。

今年で85歳になるという棚橋さん。相変わらずしっかりされていて安心しました。かつてスタッフ時代から何度も聞いている話も一字一句変わらず聞けて、あの頃に戻ったような気もしました。一方で私なりに齢を重ねてお聞きする話は、もはや師弟を超えて分かり合える領域もあり感慨深いものがありました。

その昔、棚橋さんには「啐啄(そったく)」という言葉を教えて頂きました。
雛鳥と親鳥が卵の殻を内側と外側から同時に叩いて世に出る、という師弟の呼吸を説いた禅の教えですが、なんだか今日はそんな答え合わせをさせて頂いたような気がしました。自分のスタッフともいつかはそんな時が来るでしょうか。

今日はお忙しい中お時間を取ってくださり、ありがとうございました。近々OB会を招集しましょう!



25. 10 / 07

メッシのように

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sekimoto

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> はまりもの
> 仕事


メッシのプレーばかり見てしまう。そればかり見ているので、リール動画もそればかりおすすめしてくるようになってしまった。といっても私はサッカーが特別好きなわけでも、詳しいわけでも、ましてやプレーしているわけでもない。

予測の斜め上をいくフェイント、虚を突いたようなキラーパス。そこからのゴール。とても人間業とは思えない連係プレーに惚れ惚れしてしまう。それは私の仕事のイメージそのままで、あぁ私もこういうプレーをしたいと常々思う。

下がったポジションからフィールド全体を見渡し、相手の動きを分析し次の展開を予測する。

私は隣を伴走する相手に目配せをする。相手は瞬時に私の意図を察して、ボールとは反対方向に走り出す。私は相手を引き付ける。そこで”ため”を作ってから、おもむろに誰もいないコーナーに向けてパスを放つ。

虚を突かれる敵陣。届くか届かないかのギリギリのパスコース。そこからダイレクトで戻されたパスにワンタッチ!がら空きのゴールが揺れる瞬間だ。

私にとっての伴走者はスタッフであり、現場であり、また建て主さんでもある。キラーパスを放つのは時に建て主さん側でもあるからだ。

私は相手の”目配せ”を見逃さない。相手の意図を瞬時に察し、パスを出す瞬間にはすでに走り出している。時には先読みしてすでにそこにいる。

そうありたいと思ってやってきたし、その連係プレーが出来た瞬間は本当に快感で美しい仕事になったと思える。私は美しい仕事をしたい。そう、メッシのように!
学生に設計指導したり本を書いていたり、いろんなセミナーや設計塾などで講師を務めていたりするので、さも私は設計を教えるのが上手くて体系だった教え方ができるのだろうと誤解されるのだけれど、そんなことはない。つまるところ私は設計を教えるのがとっても苦手だ。

設計はとっても感覚的な領域だといえる。論理的に説明できる部分も多いけれど、論理ですべて説明できる空間なんてつまらない。建築の一番大切な部分は個人のゆらぎの部分にあって、自分でもどうして良いかわからないという迷いがあることがとても大切なのだと思う。

だから私は、人の建築については饒舌に説明できるけれど、自分の設計した建築についてはうまく説明できた試しがない。

もちろんプロなので、建て主さんへのプレゼンには自信がある。でもそれって表向きのエクスキューズみたいなもので、使い勝手で語れるほど建築は底浅くないし、それはけして建築の本質ではないのだとも思う。その深い階層の部分をうまく言語化できずにいつも悶々とする。

音楽の旋律は、指揮者がタクトを振るように全体を繊細にコントロールするものであるとすれば、私の感覚はこれに近いかもしれない。建築家の内藤廣さんは、アルヴァ・アールトの建築空間を評して「音楽を写真で見てもわからない」と言った。さすが上手いことを言うもんだと感心する。

見えない霊が見える人は霊感があると言われる。音感がある人は、日常の音をすべて音階に置き換えられるという。私はそのどちらの能力もないけれど、その空間をどうすれば居心地の良い場所にできるかというのはわかる。

だからそれがわからない人には、私はそれを教えることはできないのだと思う。音感のない人に音感を教えることができないのと同じように。こんなこと書くと身も蓋もないかもしれないけれど、最近つくづくそう思う。

できるとすれば、同じ感覚を持った人同士が共感し合うこと。人が幸せになれる状態って、それしかないんじゃないかと思う。だから教えるって難しい。とっても悩ましい。

その昔、といっても比較的最近まで、購読する建築専門誌などを見るたびに自分の才能のなさに落胆するということが多くあった。自分なりの美意識や考え抜いたつもりの設計であっても、掲載された斬新な建築空間を見るとまるでその足元にも達していないような、ひどくつまらない仕事を自分はしているような感覚にすら陥った。

いつしか私は建築雑誌をあまりひらかなくなった。この世に存在するパラレルワールドのように、自分はきっとその世界に交わることはないのだろうと諦めの境地を抱きながら、自分の腑に落ちる感覚だけを信じてやってきた。それが正解なのかはわからぬまま。

先日、北欧建築・デザイン協会(SADI)において会長に就任したことを書いた。それからしばらくしてSADI会員でもあるタニタハウジングウェアの谷田泰さんより、会長就任の祝辞と共に一冊の本が届いた。

『Beauty for All』

19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて活躍したスウェーデンの哲学者にしてデザイン理論家のエレン・ケイが、今から120年以上も前に著した本を、今年5月に池上貴之氏による翻訳であらたに刊行されたものだそう。

そんな昔に書かれた本が現代とどうシンクロするのだろうか?そんな不安は読み始めてすぐに払拭した。池上氏による翻訳が素晴らしく、つい最近書かれた本であるかのように引き込まれ、その言い回しや内容も含めてすっと胸に入ってきた。

この本では人が日々の生活の中に美しさを見いだし、そして幸せに暮らすにはどうすればよいか、お金がなくても心豊かに暮らすにはどうすれば良いかということについて、終始平易な言葉で綴られている。

中でも私の胸に響いたのは、以下の一文だった。
「いちばん大切なのは、その人のテイストです。(中略)大切なものを捨ててまで、住まいを他人の住まいに似せることほど愚かなものはありません」

冒頭の話につながるけれど、ここ最近切に思うことは、設計だけでなく生活のあらゆる場面において「自分らしく」振る舞うということの大切さについて。他者に振り回されず、自分自身であり続けることがどれほどの強いパワーを放つものかを身をもって感じることが多く、それが最近の自分の自信にもなっている。

建築雑誌をひらかなくなったのは、そういうことが背景にあるような気がする。自分を他者と比べて、自分のほうが劣っているなんて考える必要はないのだ。自分は自分自身でいよう。エレン・ケイが訴える美の価値観とは、ひっくるめて言うときっとそういうことに違いない。

私は北欧社会の考え方で最も尊く共感するのは、個人尊重の考え方だ。私は私、あなたはあなた。それを認める社会はとても生きやすいし、自分が自分らしくいられると思う。

我々が日々向き合っている住宅設計の目的もまたそこにある。何か特定のスタイルに寄せることなく、ノースタイルを貫くということ。時にそれは無国籍であり、ジェンダーレスであり、ニュートラルで、タイムレスですらもある。

『美しさをすべての人に』

よりフラットに、よりひらかれた社会、そして建築。なんだかそんなことがぐるぐると頭の中を巡った。今後何度も読み返す本になるかもしれない。

谷田さん、素晴らしい書をありがとうございました!