21. 11 / 27

皿洗い

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sekimoto

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> 思うこと
> 生活


皿洗いが好きだ。何も考えないで、ただ手を動かしているだけで目の前がどんどん綺麗になってゆく。目の前にお皿が積まれているとつい洗いたくなってしまう。

日々の仕事は戦場そのもの。創作も問題解決も頭は常にフル回転。考える仕事は楽しいけれど、たまにしんどくなる。ルーティーンだけで流れてゆく日はとても平和だ。私も少し優しくなれる。

家では料理はしない。料理は創作だから。
家では戦わない。私は皿洗いがいい。ストレスも一緒に洗い流されてゆく。

21. 11 / 08

分相応

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sekimoto

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> 仕事
> 思うこと


「分相応」という言葉を聞くたびに、いつも考えさせられる。

「分相応」の意味を引くと「その人の能力・地位にちょうどふさわしいこと」とある。しかし、その人の能力や地位にふさわしいものって一体何だろう?

家づくりの際にもこの言葉はよく使われる。たとえば収入の安定しない若い建て主さんにとっては、時に我々のような設計事務所に頼むことは、「分不相応(=贅沢)」であるとも考えられがちだ。

けれど、その人がこの先も出世することも所得も上がることもなく、現状維持のまま一生を終えるのであればその通りかもしれないけれど、多くの場合はそうではないだろう。(と信じたい)

人生は常に希望に向かって進むものだ。私はその人にとって今が「分相応」であるかよりも、この先その人がなりたい自分になったとき、それが自分と釣り合っているものであるかどうかのほうがもっと大事なことだと思う。もう少し言えば、その器を先に作ることで、その人はなりたい自分になってゆくのではないだろうか。

子育てにおいても、子供に贅沢をさせるべきではないという意見がある。それは正論だし、ある意味正しいとも思う。苦労もなく簡単に良いものが手に入ったとしたら、その子はそれを手に入れるための努力やプロセスの尊さを学ぶことができないからだ。

しかしこうも言える。それなりに値が張るものには、相応の機能やしっかりと手間をかけた工程があって、作り手の創意工夫やデザインがそこに込められていたりするものだ。

世の中には、そうした本物に触れることでしか得られない学びというものもあると思う。それを贅沢だからといって与えないよりも、時にはそこに下駄を履かせることも教育なのではないだろうか。

人生とは未来への投資そのものだ。身の丈に合った生き方と言えば聞こえは良いけれど、少し背伸びをして、指の先がぎりぎり触れることが出来る選択肢を選び続けることにもまた意味があるように思う。

「分相応」という言葉のもとに、きっと辿り着けたであろう未来を簡単に放棄して欲しくない。余計なお世話だろうけれど、この言葉を聞くたびにいつもそんなことが頭をよぎる。

21. 11 / 07

すべて正解

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sekimoto

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> 仕事
> 思うこと


少しまえに面談で言われたことがあって、一般のクライアントさんから見るとうちはとてもデザイン性の高い住宅を作る設計事務所で、性能(断熱など)のことはあまり聞いてはいけない印象があったという。

へぇそうなんだ。とても意外。

うちは断熱のこともちゃんと考えているし、そしてもちろん耐震のことも。進行中のクライアントさんなら皆さんお分かりのことでしょう。

もちろん、我々もデザイン性の高い美しい空間にしたいと思っているけれど、雑誌の表紙を飾るような突き抜けたデザインはあまりやらないので、自分の中ではうちはデザイン的には「ちょっと弱い」とすら思っていたりする。

外から見た印象はずいぶん違うのだとあらためて思った。

また私のブログをよく読み込んで、気に入ってご依頼くださる方も多い。もしかしたら、外から見たら自分はずいぶん「いい人」に見られているのだろうか…。

それを言われると、いつもとてもプレッシャーで、いつ自分の「素性」がバレるかとはらはらする。いつも近くにいるスタッフは、優しくない私をたくさん知っている。「いい人」だけではこの仕事はやっていけないのだ。

いい人だと思っている人には、あとでガッカリされるのが怖くて、わざと意地悪なこと言ってしまうことも。自然体でいようと心がけているけれど、どれが自分の素性なのか、正直自分でもよくわからない。

あなたから見えている私の印象、たぶんそれすべて正解です。

今年に入ってからずっとくすぶっているこの問題。

一時は住宅への設置義務化は見送られるという報道が出たものの、夏を過ぎた頃から住宅にも義務化の方向で検討、という記事が出回り始めている。つい昨日の朝日新聞にも出ていた。

CO2排出削減などが背景にあるこの問題だけれど、記事などでよく語られる設置義務化のハードル(イニシャルコストや売電単価の低下)ももっともだけれど、設計者目線で言わせてもらうと「そこじゃない」と思う。

建て主さんからのご要望で、屋根にソーラーの検討をした設計者なら誰でもわかると思うけれど、屋根にソーラーパネルを載せてメリットが出る住宅はおもいのほか少ない。

郊外のゆったりした敷地に南面の平屋でも建てれば話は別だけれど、都内の狭小地で斜線制限を逃げながらいじましい形の屋根を架けた場合、ソーラーパネルなんて何枚も載らない。

しかも、パネルには規格寸法があるので、屋根はそれなりにあるようでも、微妙な寸法足らずで余白だらけの非効率な設置計画になることもしばしばだ。良識ある設計者なら「今回はやめた方が良いですよ」と進言するところである。

また、敷地の南側に隣家の迫るような敷地条件であれば、我々はあえて建物を南面せず、北向きに建ててハイサイドから光を取り込むような住宅の提案をすることもある。そんな場合、北向きの屋根にもパネルは義務化されるのだろうか。

また屋根は傾斜屋根ばかりだと思ってもらっても困る。木造でもフラットルーフの提案をすることも多い。フラットルーフでもソーラーは載せられるけれど、割高だし、パラペットからの離隔を考えるとやはり何枚も載せられない。都市部の住宅に無理に載せる設備ではないことはすぐにわかる。

またフラットルーフを活かして、屋上緑化をしたり、ルーフテラスを設けるというケースもある。そんな住宅でも、パネルは一律に義務化されるのだろうか。

CO2削減はいいことだ。しかし高校の校則じゃあるまいし、住まい手や設計者の考え、敷地の特性などを一切無視して、一律に”義務化”するというのは国民をばかにしている。そして建築なめんな、て思う。

我々の設計する住宅には必ずと言って良いほど、ダイニングなどに北欧照明が下がり、置かれている家具も(建て主さんのチョイスではあるものの)北欧家具が置かれることも多かったりします。

一方では、そういう照明を提案したいのだけれど、金額などから、なかなか建て主さんに受け入れてもらえないという設計者の話も良く聞きます。

これまで半分は意識的に、もう半分は無意識にそのようにしてきた部分もあったのですが、今回あらためて、なぜ私が北欧照明や北欧デザインのものにこだわっているのかということを書いてみたいと思います。


もしかしたら一部の方からは、私が北欧のフィンランドに留学経験があることから「関本=北欧が好き⇒だから北欧照明を使う」と思われているような気がしますが、必ずしもそういうことではありません。それは、それが本物のオリジナルであり、時代を超えて愛されている普遍的なデザインアイコン(timeless design)であるということが、とても大きな意味を持つからなのです。

たとえば、冒頭の写真のダイニングに下がる照明は、アルヴァ・アールトのデザインによるゴールデンベル(A330S/artek)ですが、これがデザインされたのは1936年です。今から85年前。すごいのはそこではなく、そこからほとんどデザインを変えることなく、現在もそのままの姿で売られ続けているということなのです。


この写真に写る黒い座面のスツールもアールトのデザインによるStool60ですが、こちらが生まれたのも1933年です。今から88年前。やはり当時からほとんど形を変えることなく、現在に至るまで全世界で売られ続けています。

1930年代といったら、時代背景としてはこんな感じです。この時代に生まれた椅子が、現代の新築の住宅の中においても、まったく古びることなく存在できるってすごくないですか?


一方で、最近我々北欧関係者の間で物議をかもした椅子に、こんな椅子があります。ひどいものです…。

こういうものを無知や無意識であったとしても、家の片隅に置いた瞬間に、その家はニセモノになってしまいます。家に何千万円もかけて細部にもこだわったとしても、この瞬間にそれは水の泡となってしまうのです。

テレビのバラエティ番組でありますよね、一流芸能人を仕分けるやつが。一方は1億円のバイオリン、もうひとつは数万円の初心者用。音を聞いて、さて1億円の音はどちらでしょう?というやつ。先のような”ニセモノ”に囲まれて育った子供の美意識や感性は、やはりそれが「普通(あたりまえ)」になってしまうのではないでしょうか。

Stool60はけして高い椅子ではありません。でも数千円では買えません。でもどうでしょうか、ただ安いという理由だけで、「ただ座れれば良い」のであれば、家も「ただ食事をして眠れれば良い」のだとも言えますし、「雨漏りしなければ何でも良い」ということにもなります。

本当にそれで良いのでしょうか?
残念ながら、そんな世界には我々のような者は必要ないということになりそうです。


またこうも言えます。

家電製品や自動車は頻繁にモデルチェンジを繰り返しますね。消費者を飽きさせず、特定の周期で買い換えてもらわないと、企業としては都合が悪いわけです。スマホもそうですね。使いもしない機能ばかりがどんどん増えて、新しい機種に買い換えるよう迫られます。

そんな時代のめまぐるしい変化のなかで、80年以上も形を変えずに売られ続けているという事実は、本当にすごいとしか言いようがありません。それはモノとして変えようがない、「本質そのもの」がそこにあるからではないでしょうか。それが北欧のtimeless designなのです。


こちらはアールトの自邸ですが、竣工は1936年です。

アールトは世の中に新しい素材が出てきても、けして飛びつくことはなかったそうです。木や鉄、コンクリート、ガラス、そしてレンガ。これまでずっとあり続けたものだけを使って生涯建築を作り続けました。そんなアールトの建築もまた、その後80年以上経ってもその価値が損なわれることはありません。


だから照明器具も同じなのです。

家の中に一つだけでも良いので、けして価値の変わることのない不朽の名作を下げることは、その空間のあり方を決定づけると私は思っています。「これまでも変わらない、これからも変わらない」それが我々が住宅に込めている思いです。

誤解のないように申し添えると、なにも北欧のものだけが良いと言っているのではありません。国内にも素晴らしい照明や家具はたくさんありますし、北欧以外の国にも同じくらい素晴らしいものがあります。

大切なのは値段ではなく、また有名かどうかでもなく、それが本物であること。機能や素材やデザインにこだわりがあるもの。ひとことで言えば「そこに愛があるもの」ということではないでしょうか。

さもなくば、きっとあなたやその家は”そっくりさん”、もしくは”映す価値なし”として画面から消えてしまうことでしょう。