19. 12 / 27

三人いると

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sekimoto

category
> staff
> 仕事



スタッフは二人いれば仕事は回せる。しかし、二人だけだと各自の仕事で手一杯になる。三人いるとコミュニケーションが生まれる。スタッフ同士で教え合うようになる。

テーブルでは、中堅スタッフが不慣れなスタッフに私に代わって図面指導をしている。口調が私に似ているのはご愛敬。こういうのがとても嬉しい。スタッフが自ら考え、行動する組織は美しい。

19. 12 / 21

地雷センサー

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sekimoto

category
> 仕事
> 思うこと


世の中には地雷がたくさん埋まっていて、小心者の私はいつもビクビクしながら暮らしている。

ところがある人は、そこに地雷があることに気づかずにずんずん進んでゆく。見ていてハラハラする。またある人は、そこには地雷があるよと言っているのに「大丈夫!」と言って、やはりずんずんと進んでゆく。やっぱりハラハラする。

人にはそれぞれの地雷センサーがあって、危ない場所や状況は避けて通るようにできている。でもそのセンサーの感度には個人差があって、センサーが鈍い人もいれば敏感な人もいる。

敏感な人から見たら、鈍い人は許しがたく鈍い。鈍い人から見たら、敏感な人は神経質なほどに敏感だ。

前述の通り、私は小心者なのでいつもビクビクしながら仕事をしている。こんなことを言ったらこう思われるんじゃないか、こういう設計をしたらこういうことが起こるんじゃないか、怒られるんじゃないか、訴えられるんじゃないか…。

住宅は毎日住まう器なので、1の不具合は増幅し10になる。設計者の地雷センサーの感度は常にMAX、針は振り切れるほどに。それでも年に何度か爆竹並みの地雷を踏む。これは避けられない。

大博打を打たない代わりにドカンと大きな賞を取るわけでもなく、いつまで経っても大成しないわけだけれど、その代わり誰かに訴えられることもなく、ちょいちょいミスはあっても大ポカをやらかすことなく、現在に至る。

あながち、私の地雷センサーはそう悪くないんじゃないかと思うことにする。

https://www.huffingtonpost.jp/

フィンランドの次期首相に、34才の女性サンナ・マリンさんが就任するとのニュースが昨日報じられた。やってくれたなフィンランドと思う。とても誇らしく、そして自分のことのように嬉しい。

フィンランドという国が好きなのはこういうところだ。型にはまらない。常識に囚われない。実力主義。差別をしない。本当の意味のクリエイティブとはこういうことではないかと思う。曇りのない目で現実を見つめる。そういう気質がフィンランドという国にはある。

フィンランドという国に強烈に惹かれる根はここにある。自分もかくありたいと思う。


地元の駅前のTSUTAYAが閉店した。時代の節目を感じる。

今や音楽もサブスクリプションの時代だ。APPLE MUSICなどに登録しておけば、定額であらゆる音楽が聴き放題になる。映画だってテレビがネットに繋がっていれば好きなタイトルが見放題だ。何もわざわざ店に足を運び、また返却するという手間をかける必要はない。

私自身、音楽も映画も上記の方法で視聴しているので、駅前にTSUTAYAがなくなっても何も困らない。なんなら、しばらくTSUTAYAがなくなっていることに気づかなかったくらいだ。

けれども、音楽はスマホで聴く人ばかりではないはずだ。テレビをネットに繋げていない人も多いはず。もしかしたら、自分にとっては当たり前のことでも、世間的にはまだまだ少数派である可能性もある。

今どきメールをしない人なんているの?いる、確実に。年賀状なんてもう書かないでしょ。いや書くし。音楽はサブスクリプションでも、私は家には固定電話を置く派でもある。自分は先進的だと思っていても、意外なところで保守的なところも残っている。

それなのに時代はどんどん変わる。人を置いてきぼりにして。

TSUTAYAがなくなっても何も困らない人にはわからないことが、世の中にはあるような気がする。TSUTAYAがなくなって困る人たちのことを、最近考えている。
日本構造デザイン賞を受賞した大学同期の与那嶺を祝う会ということで、同じく同期の友人数名に声をかけ食事をした。それぞれの友人とは私も個別の付き合いがあるものの、このメンバーが勢揃いして集まるというのはどのくらいぶりだろう。本当に楽しく、話と笑いの絶えない時間だった。そして感慨深かった。

我々は「意匠」「構造」と専門は異なれど、大学を卒業して、大手組織事務所ではなくいわゆる「アトリエ」と呼ばれる小さな設計事務所に就職した、いわゆる”アトリエ派”だ。

私の卒業した日大理工学部は、学年に学生が300人もいるというマンモス校だが、その中でいわゆるアトリエに就職しようという者は10人にも満たない。つまり我々は同期の中でも希有な”変わり者”たちだとも言える。

組織で働く人がそうではないとは言わないけれど、アトリエで働くということは個人の自由意志に基づいて仕事をすることだと思う。我々はそう自分たちを鼓舞してきたし、この道に進もうとする人にかける言葉にもなっている。


人は自由を求める。そしてその自由に制約をかけるものに対して強く反発しようとする。ところが、あらためて自由になった者は戸惑い、往々にして再び制約を求めはじめる。自由とは責任そのものだからだ。

校則に不満がある高校生も、制服を着なくて良いと言われたらどんな服で学校に行くだろうか。会社にはスーツを着てこなくて良いと言われたら?人にはこれまでなかった悩みが増えるに違いない。

そもそも、学校や会社には行かなくて良いと言われたらどうだろうか。勉強は自分でやれば良いし、仕事にしてもしかり。そんなに不満があるならやめてしまえばいい。自分で思うように、理想と思える仕事を自分で考え実現すればいいじゃないか。そう言われたら、あなたならどうするだろうか。

我々はそうやって生きてきた。それがアトリエという生き方なのだ。

代わりに我々は安定的な収入や未来を放棄した。予定調和に何の価値がある。自ら切り拓いたもの以上に尊いものなどない。ぐらつきそうになる気持ちを支えるのは、いつもそんな意地のようなものだ。

私は学生に言う。
社会に対する違和感や矛盾があったとき、それを変えるのは誰か?たぶん大人は変えてくれない。それを変えるのは次の時代を生きるあなたたちなのだということ。今世の中にある住宅、図書館、美術館や学校、すべてにあなたは満足していますか?満足しているならそこには未来はない。それを否定することからしか未来は生まれないのだから。

もし、それが不満ならどうすれば良いのか。自分自身が満足できる、幸せになれる社会はどこにあるのか、それを考えなくてはならない。そしてそれを考えることこそが建築であり、個人力なのだ。

国家や組織は一朝一夕には変わらないけれど、個人は今すぐにでも変わることができる。個人なら明日にでも実現できる。そう思いさえすれば良いだけなのだから。

だから住宅は面白い。住宅には社会や世界が詰まっているのだ。一つの住宅からでも世界は変えられる。私は比較的まじめにそんなことを考えながらやってきた。


みんながそんなことを考えてきたかはわからないけれど、皆年齢なりに経験を積みながらも自由に生き、そして独特な世界観と感性からの発言に刺激をもらい、また励まされた。そんな仲間を誇りに思う。

最近、高校生になる息子にどう生きていくのかを尋ねると「たぶん、会社に勤めるような人にだけはならない」と返ってきた。そうか、おまえもか。