オープンデスクの学生と話していて、セミナーや講演会の正しい受講の仕方についての話になりました。年間少なからずのセミナー講師や司会を引受ける身としても、以下の人はとても好印象で、モチベーションがとても上がります。

1. できれば最前列、無理でも2列目くらいまでに陣取る
2. 講師の話をうなずきながら聴く
3. 話を聞きながら質問を3つ以上考える
4. そのうちの一つを最後に手を挙げて質問する
5. 最後に講師のところに行って挨拶する

1は居眠りしたり、スマホをいじったりしないための自分へのプレッシャーとして。2は講師がとても話しやすくなるのと同時に、自身も話に引き込まれてゆきます。

3は話の骨子を頭の中でまとめる訓練になります。4はみんなが一番聞きたがっているものを代表質問するというもので、会場のみんなから(心の中で)感謝されます。

そして5に至っては、講師の方に顔や名前を覚えてもらえることはもちろん、講師にとって一番嬉しい瞬間にもなります。(逆に誰にも来てもらえないと、講師はかなり心をへし折られます)

これを自然体でできる人は、きっと良い出会いを味方にできる人ですね。1〜3くらいまでは、誰でもすぐに実践できると思いますので是非!

今日スタッフと話していて、スタッフを雇うのは何のため?という話になった。設計事務所の主宰者の中には、スタッフは雇わず一人で仕事をしているという人も多い。私の身の回りでも半分くらいはそういう人ではないかと思う。

一般的には、人を動かすより自分一人でやったほうが判断が早いし、人件費もかからず気楽なのではないかという意見がある。これは確かにそうで、私もある意味同意するし、同じ理由で「だから人は雇わない」という方も多いのではないかと思う。


では逆について考えてみよう。実際リオタデザインではスタッフを常時2~3名ほど抱えている。それは何のためだろう?

ひとつは、言うまでもなくたくさんの仕事を同時にこなすためである。一人ではできないことも、複数人集まれば仕事を手分けすることができる。

しかし、私の中でスタッフを雇って仕事をする理由はそれだけではない。最初はそう思っていたけれど、それより大きな効果があることに気づいたのだ。それは「仕事のクオリティを上げたいから」である。

自分のキャパシティを越えない一定数のスタッフは、確実に仕事の質を高めてくれる。これはもう10年以上もスタッフと共に仕事をしてきて、つくづく思うことである。その効果を一言でいうならば、「自らの仕事を客観視できる」ことであろう。


例えば「自分はこう思う」ということをスタッフに投げたとする。優秀なスタッフはそれを忠実にトレースして返してくれる。しかし、その頃には自分の中で「それはちょっと違うな」という具合に変化していることも良くある。

スタッフとしては理不尽だろう。言われた通りにやったのに「違う」と言われてしまうのだから。私もスタッフ時代はいつもそう思っていた。でもそれは仕方がないのだ。所長はそう言いたいがためにスタッフを雇っているとも言えるのだから。

よく人の悩みにはアドバイスできるのに、自分がその渦中に嵌まると抜け出せなくなるということがある。部下の立場であれば、悩みは上司に相談すれば良いだろうが、さて上司は誰に相談すれば良いのだろう?

それを私はスタッフに自己投影し、スタッフを自分と同一化させた上で自分自身を批評するような、そういう状態を作って打破しているような気がする。


またこうも言える。作業が伴わない設計(俗に言う、口で設計するという状態)の場合、良く言えば常識や慣習にとらわれず、あらゆる角度から自由に発言することができる(悪く言えば、単なるわがままとも言える)。だから、図面で違和感を感じると「キッチンの位置おかしくない?」「こんな壁取っちゃえば!」「窓小さすぎじゃない?」など好き勝手に放言できる。

スタッフとしたらたまったものではないだろう。(それ言ったの自分じゃん!)ってきっと心の中で思っているだろうが、私は何も気づかない振りをして、ただひたすらに良い仕事に着地させることだけを考える。

きっと自分で図面を描いていたら、「これやり直すの大変だな」とか「面倒くさいな」という気持ちがどこかにもたげるような気がする。

また、自分で描いた図面の間違いは意外と自分では気がつかないものだ。それが他人の図面だと、間違いがハイライトで点滅しているかのごとくよく見える。これはどうしたことだろう?これによって、九死に一生を得るような危険回避をしたケースは過去枚挙にいとまがない。

こんなことを書くと、いかにも私は事務所内でいつもひどい振る舞いをしているかのようであるが(いわゆるパワハラ?)、私は否定も肯定もしないでおく。詳しくはスタッフに聞いて欲しい。しかしこれだけは言える。もはや私はスタッフなしでは仕事はできない。そのくらい、私は彼らを頼りにしているのだ。


昨日は非常勤講師を務める日大理工学部2年生の住宅課題の全体講評会がありました。各講師受け持ちの20名ほどの学生の中から優秀案を2~3点ほど選び、全体講評会を通じて全学生の中からさらに作品集に掲載する優秀作品数点を選出します。

その中からさらに選ばれたトップ2作品については、スーパージュリーというゲスト建築家を招いての秋の全学年講評会へと選出されます。今回は私のクラスからも1作品が選ばれました。橋本さんおめでとう!他の学生もよく頑張りました。


私は日頃から住宅設計を生業としていますが、学生達に教える住宅設計というものは、我々の日頃の実務設計とはある意味大きく異なるものだと思っています。

我々の住宅との違いは、一言で言えば特定の建て主がいないということになりますが、そうなると面白いことに彼らの設計する住宅は、大きく二つの方向性へと分かれてゆきます。

ひとつは、豊かな想像力(あるいは妄想力)と”ご都合主義”を駆使して、通常ではあり得ないような突飛な設定や解決へと飛躍してゆくという方向性。そしてもうひとつは、住宅をアノニマスな、ある意味どこにでもいそうな(そしてそれはどこにもいないということと同義なのですが)家族像を想定して、大きく突出することのない住宅へと着地してゆこうとする方向性です。

一方の我々の実務設計はどちらでもなく、特定の建て主の思いや許容値から大きく逸脱しないよう、そして一方ではその”のびしろ”を最大に生かしたような個性的な住宅の着地点を探ってゆきます。機能、構造、断熱、そしてディテール。すべてに対して高いレベルの解決を求めてゆきます。


私が学生に求めるのは、どちらかというと前者のやや飛躍したような、ある意味「突飛な」解決です。意外に思われるでしょうか?

普段の設計が”良識的”なだけに、振り幅が大きくなっているのかもしれませんが笑、まだ大学の二年生、建築を学び始めたばかりの子達が、今すぐにでも建ちそうな老成した住宅はやらなくて良いと私は思っています。(もちろん、そういう学生の案も一方では高く評価はしています)

私は学生には、常に常識を疑う目を養って欲しいと思っています。「そういうものだ」と植え付けられた常識は思考停止を招きます。住宅ってなんだろう?建築ってなんだろう?という素朴な視点を見失わないことが、この時期の学生には最も大切なことだと思うのです。

今回も我がクラスからは、そんな”非常識”な住宅がいっぱい生まれました。どれもとっても楽しい住宅です。なぜか女子学生の方が、そんな常識を脱ぎ捨てることに躊躇がないような気がするのは気のせいでしょうか。

住宅を考えることで、これからの世の中のことや、住まいと街との関わり方について考えを深める良い機会となったら、教えた甲斐があったなと思います。


またやられてしまった。一時不停止違反。

言っちゃなんだけれど私は安全運転な方だとは思う。しかも交差点の一時停止は過去何度か切られているので、普段は誰も見ていないようなところでも、神経質なくらいちゃんと停まるようにしているというのに。

今回は標識を見落としていた。迂闊だった。目に入っていればちゃんと停まるのだから、そこがなんといっても悔しい。

どうして見落としたのだろうと思うと、車線が合流するポイントで、これが高速道路ならぐっとアクセルを踏みこんで流れに乗っていくところを、一般道では逆にブレーキを踏ませるというポイントが結構ある。いわゆるひっかけ問題だ。たぶん今回も無意識にアクセルを踏んでしまったのだと思う。

そうやって見落としたり、間違ったりする人が多いからパトカーも待ち伏せしているのだろうが、そこが腹立たしい。そこに立って、間違わないように未然に指導するというのが筋だろうに、間違うのをじっと待っているのだ。

でも仕方ない。見落としたのは私なのだ。だから無駄な抵抗はせずに素直に切符を切られる。反則金は7,000円也。地味に痛い。さて本題はここからである。

この反則金、納付するためには銀行や郵便局に足を運ばなくてはいけない。行けばいいのだろうが、これがまた地味に混んでいる。今どきお金を引き出すのも振り込むのもATMだ。銀行の窓口で整理券取って並ばなくてはいけないというのは余程の時である。

公共料金もコンビニで支払える時代である。どうして反則金をコンビニやATMで払えるようにしてもらえないのかと思う。そしてできれば、ネットでぽちっとできるようにしてもらいたい。今どき納税だってネットでぽちっとする時代なのだから。

これは私の憶測であるが、公共料金や納税は”善良な市民”からの徴収であるからして、手間をおかけしないよう配慮しているのに対して、反則金は交通道徳を守らない不届きな輩だからにして、そんなやつに楽をさせることはない!という考えがあるのではないか。

であるとすれば反論もあるのだが、ついうっかりミスをしてしまった善良な市民を、急いでいるにもかかわらず足止めをさせ、違反点数を計上するというだけで立派なペナルティではないのか。

そしてただでさえ痛い出費(それは甘んじて受けようと思うが)を払うのに、平日の昼間に銀行の長蛇の列に並ばなくてはいけないという極刑。善良な市民(私)が可愛そうである。

ということで以下の提言をしたい。

・全国の一時停止線には漏れなく警察官ないし民間委託の係員を立たせておいて、ちゃんと停まったらスタンプカードにスタンプを押してもらいたい。スタンプが100個たまったら1回の一時不停止違反をチャラにしてもらいたい。

・反則金はネットで。できればTポイントか楽天ポイントでも払えるようにして欲しい。反則金を払ってポイントが付いたらなお嬉しい。

だめですか。そうですか。


昨日のSADIでの総会講演会、齋藤暖生先生による北欧の「万人権」のお話はとっても良かった。まさに我々が北欧に惹かれる根に触れるお話だったと思う。

北欧では国ごとの違いはあるにせよ、自然はみんなのものという意識があり、私有地であっても勝手に分け入って、ベリーやキノコを自由に摘むことができる。そしてそれが法によっても守られている。

日本では土地を買えば、その上にあるものは土地所有者のものだ。それがたとえ風に運ばれてきて咲いた一輪のタンポポであっても。

北欧には土地を持たない人の権利、貧しい人を守る保障がある。スウェーデンでは人口の3%が国土の50%を所有しているという。日本人のような感覚を持てば、国民の97%は自然を享受する権利の過半が奪われることになる。

実は日本も同じ構造の上にある。我々が自由に享受できる自然なんて、ごくわずかにしか存在しないということに気づかなくてはならない。

写真は軽井沢での一コマだ。よく見て欲しい。敷地の境界に沿って植えられた不自然な木の列を。

自然を享受しようと避暑地に足を運びながらも、自ら敷地を囲んで閉ざすというこの構造は、軽井沢にすらもはや自由な自然は存在しないということを意味している。そしてそれは首都圏の住宅地に見る光景そのままだとも思う。

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