小学生の頃の話。当時ごみは校庭の焼却炉に持っていて燃やすことになっていた。掃除当番は最後にごみを集めてここに捨てにいく。その日私は掃除当番ではなかったのだけれど、なぜかごみを焼却炉まで捨てに行き、戻ってきたらすでにホームルームははじまっていて、先生が教壇で何かを話していた。
遅れて教室に入って行った私はバツが悪かったのだけれど、よく聞くとどうも私の話をしているらしい。「関本くんは、誰もごみを捨てに行かないのを見かねて、自らごみを捨てに行った。偉い!」どうもそんな話をしていたようだ。
私はごみを捨てに行っただけで褒められるとは思っていなかったので、急に恥ずかしくなってしまってずっと机で俯いていた気がする。でも今でも覚えているということは、きっと嬉しかったのだと思う。
昔から私は、面倒くさくてもちょっと頑張ればできることをやらないというのが気持ちが悪い。「誰もやらないなら僕がやろうか?」思えば私のこれまでの人生は常にこれだった気がする。
今所属している諸団体でも、私は今幾つもの役職を抱えている。SADIでは理事、企画副委員長、40周年記念実行委員会委員長、事務局アドバイザー。JIAでは支部広報副委員長、住宅部会副部会長、広報誌Bulletin編集委員。来年もすでにいくつかのポストが内定している。いつまで経っても役務が減らない。
前述の役職は、その肩書きとは裏腹にどれも地味に時間や手間を取られることばかりだ。皆それを知っているからやりたがらない。そりゃそうだ、我々の本業は建築設計。面倒くさい雑務なんて誰もやりたくないに決まってる。
でも誰かがやらなくちゃいけない。いつかはやらなくちゃいけない。
「誰かいませんか?」の声に、つい反応してしまう。困っている人がいると助けたくなってしまう。かくして私は皆がうつむく中、つい「じゃあ私がやります」と手を挙げてしまうのだ。
私は人からやらされるのが嫌いだ。だから会社勤めはできない。やる時は常に自分から手を挙げてやる。お願いされる場合でも、誰でも良い仕事ならやらない。私しかできないと相手が思ってくれるなら、私は喜んで奉仕を申し出る。これは自分に課したルールだ。
秋が近づくと、各団体では次年度の人事について水面下の綱引きがはじまる。放っておけない私はいつもそこに巻き込まれる。オンライン会議に聞き耳を立てているスタッフからは、また火中の栗を拾ったと呆れられる。
かくして実務でも、、火中の栗が向こう数年分びっしり埋まりつつある。
遅れて教室に入って行った私はバツが悪かったのだけれど、よく聞くとどうも私の話をしているらしい。「関本くんは、誰もごみを捨てに行かないのを見かねて、自らごみを捨てに行った。偉い!」どうもそんな話をしていたようだ。
私はごみを捨てに行っただけで褒められるとは思っていなかったので、急に恥ずかしくなってしまってずっと机で俯いていた気がする。でも今でも覚えているということは、きっと嬉しかったのだと思う。
昔から私は、面倒くさくてもちょっと頑張ればできることをやらないというのが気持ちが悪い。「誰もやらないなら僕がやろうか?」思えば私のこれまでの人生は常にこれだった気がする。
今所属している諸団体でも、私は今幾つもの役職を抱えている。SADIでは理事、企画副委員長、40周年記念実行委員会委員長、事務局アドバイザー。JIAでは支部広報副委員長、住宅部会副部会長、広報誌Bulletin編集委員。来年もすでにいくつかのポストが内定している。いつまで経っても役務が減らない。
前述の役職は、その肩書きとは裏腹にどれも地味に時間や手間を取られることばかりだ。皆それを知っているからやりたがらない。そりゃそうだ、我々の本業は建築設計。面倒くさい雑務なんて誰もやりたくないに決まってる。
でも誰かがやらなくちゃいけない。いつかはやらなくちゃいけない。
「誰かいませんか?」の声に、つい反応してしまう。困っている人がいると助けたくなってしまう。かくして私は皆がうつむく中、つい「じゃあ私がやります」と手を挙げてしまうのだ。
私は人からやらされるのが嫌いだ。だから会社勤めはできない。やる時は常に自分から手を挙げてやる。お願いされる場合でも、誰でも良い仕事ならやらない。私しかできないと相手が思ってくれるなら、私は喜んで奉仕を申し出る。これは自分に課したルールだ。
秋が近づくと、各団体では次年度の人事について水面下の綱引きがはじまる。放っておけない私はいつもそこに巻き込まれる。オンライン会議に聞き耳を立てているスタッフからは、また火中の栗を拾ったと呆れられる。
かくして実務でも、、火中の栗が向こう数年分びっしり埋まりつつある。
私は「関本さん」と呼ばれるのがあまり好きではない。
もちろん私は「関本さん」なので、そう呼ばれることは間違いではないのだけれど、私は「関本さん」よりも「リオタさん」と言われた方が嬉しい。関本は私のファミリーネームだけれど、リオタ(フィンランド時代のニックネーム。Ryota⇒Riota)は私だけの名前だからだ。
リオタデザインという事務所名にした時はそこまで考えていなかったけれど、独立後、結果的に私は「リオタさん」と呼ばれることが多くなった。呼んでいる方の多くは私のことというより、リオタデザインを短縮してそう呼んでいたりするのだけれど、そう呼ばれると私は少し嬉しくなる。
フィンランドでは、私はずっと「リオタ」だった。あの国で苗字で呼ばれることなどほとんどない。目上の人だろうと、大学の先生だろうと、呼び合うのはファーストネームだ。そのフラットさが好きだった。出自や肩書を離れて、相手のパーソナリティと直接繋がれるような気がするからだ。
そんなことをずっと考えていたのだけれど、この夏スタッフが入れ替わったことを機に、所内でもファーストネーム制を導入することにした。私のことを「関本さん」と呼ぶことを禁止した。スタッフも苗字じゃなくて下の名前で呼ぶことにした。
ある日突然そう宣言したので、最初はスタッフも戸惑いぎこちない空気も流れたけれど、1週間もするとすっかり馴染んだ。
相手を下の名前で呼ぶと、急に親近感が湧くから不思議だ。スタッフも「部下」というより「仲間」という感じになる。そして「リオタさん」と呼んでもらうと、やはり「上司」感がなくなってフラットになるように感じる。スタッフもお互いを下の名前で呼び合うようになった。
これはやってみると劇的ともいえる効果があって、所内の風通しや雰囲気は格段に良くなったように感じる。私も立場上彼らに厳しいことを言うこともあるけれど、下の名前で呼べばフォローもしやすくなる。
この夏休みは、オープンデスクの学生もみんな私のことを「リオタさん」と呼んだ。私も相手の名前は下の名前で。これは最高!お互いすぐに打ち解けるし、緊張していた学生も一気にほぐれてくれる。
私が理事を務めるSADI(北欧建築・デザイン協会)では、理事にも大学の名誉教授のような重鎮の方がたくさんいらっしゃるのだけれど、相手に「先生」をつけるのはやめようと”先生”自らが言い出し、すべての理事が「さん」付けになった。こんな組織って素晴らしい。世の中、地位や肩書にしがみついている人たちばかりだからだ。
結婚すれば苗字も変わるけれど、人としての本質は変わらない。だから職場でも下の名前を標準にすればいいのにと思う。いちいち言い訳しながら旧姓を名乗る必要もないわけだし。苗字も肩書も世間体も外して、もっと人と人とがフラットに、そしてフレンドリーにつながる世の中になれば良いのにと思う。
もちろん私は「関本さん」なので、そう呼ばれることは間違いではないのだけれど、私は「関本さん」よりも「リオタさん」と言われた方が嬉しい。関本は私のファミリーネームだけれど、リオタ(フィンランド時代のニックネーム。Ryota⇒Riota)は私だけの名前だからだ。
リオタデザインという事務所名にした時はそこまで考えていなかったけれど、独立後、結果的に私は「リオタさん」と呼ばれることが多くなった。呼んでいる方の多くは私のことというより、リオタデザインを短縮してそう呼んでいたりするのだけれど、そう呼ばれると私は少し嬉しくなる。
フィンランドでは、私はずっと「リオタ」だった。あの国で苗字で呼ばれることなどほとんどない。目上の人だろうと、大学の先生だろうと、呼び合うのはファーストネームだ。そのフラットさが好きだった。出自や肩書を離れて、相手のパーソナリティと直接繋がれるような気がするからだ。
そんなことをずっと考えていたのだけれど、この夏スタッフが入れ替わったことを機に、所内でもファーストネーム制を導入することにした。私のことを「関本さん」と呼ぶことを禁止した。スタッフも苗字じゃなくて下の名前で呼ぶことにした。
ある日突然そう宣言したので、最初はスタッフも戸惑いぎこちない空気も流れたけれど、1週間もするとすっかり馴染んだ。
相手を下の名前で呼ぶと、急に親近感が湧くから不思議だ。スタッフも「部下」というより「仲間」という感じになる。そして「リオタさん」と呼んでもらうと、やはり「上司」感がなくなってフラットになるように感じる。スタッフもお互いを下の名前で呼び合うようになった。
これはやってみると劇的ともいえる効果があって、所内の風通しや雰囲気は格段に良くなったように感じる。私も立場上彼らに厳しいことを言うこともあるけれど、下の名前で呼べばフォローもしやすくなる。
この夏休みは、オープンデスクの学生もみんな私のことを「リオタさん」と呼んだ。私も相手の名前は下の名前で。これは最高!お互いすぐに打ち解けるし、緊張していた学生も一気にほぐれてくれる。
私が理事を務めるSADI(北欧建築・デザイン協会)では、理事にも大学の名誉教授のような重鎮の方がたくさんいらっしゃるのだけれど、相手に「先生」をつけるのはやめようと”先生”自らが言い出し、すべての理事が「さん」付けになった。こんな組織って素晴らしい。世の中、地位や肩書にしがみついている人たちばかりだからだ。
結婚すれば苗字も変わるけれど、人としての本質は変わらない。だから職場でも下の名前を標準にすればいいのにと思う。いちいち言い訳しながら旧姓を名乗る必要もないわけだし。苗字も肩書も世間体も外して、もっと人と人とがフラットに、そしてフレンドリーにつながる世の中になれば良いのにと思う。

世の中にはさまざまなアワードがあって、それに応募することで受賞が決まる。この秋などはアワードの結果発表の季節でもあって、毎年この時期になるとSNSなどでも受賞報告の投稿などが溢れることになる。
毎年それを見るとすごいなあと感心し、来年は自分も応募してみようかなと思ったりもする。でもやっぱり私は応募しない。いつもこうしたコンテストの募集要項を見ると尻込みしてしまうためだ。
こうしたコンテストやアワードは、普通ではない、突出したアイデアやコンセプトを募るものが多い。いやほとんどそうだ。普通のものでも何でもいいならアワードは成立しない。だって受賞作にはやっぱり社会的インパクトが必要だし、そうした一種トガったコンセプトが社会を未来に導くとも言えるだろうから。建築ってそういうものだ、と言われればたしかにそうかもしれない。
けれど、私は自分の仕事がけして退屈で凡庸なものだとは思っていないけれど、これの一体どこがすごいんですか?と聞かれるといつも答えに窮してしまう。
もちろん、敷地に内在する特性やポテンシャルを読み解き、それを丁寧に掬い上げているという自負はあるし、依頼者の生活像を深く想像し、細部に至るまで考えを巡らした設計にしているという自覚もある。でもそれって普通でしょ、と言われたらその通りだ。それでいいと自分では思っているけれど、でもそれってアワード向きの考えじゃない。
住宅の設計とは、注意深く観察していないと見過ごしてしまうようなデリケートな微差を、どれだけ見つけられるかが勝負だと思っている。そこには誰にでもすぐにわかるような大きな違いは見いだせないに違いない。
そんなことを思い始めると、途端に気持ちが萎えてしまって、結局出せずじまいで終わってしまう。
これからはもっと積極的に社会に出していこうかなあ。
と書いてはみるけど、やっぱり自分の仕事は突出したものがないことが売りなんだろうとも思う。
近著「すごい建築士になる!」の中で、「仕事はある時にはあって、ないときにはない」と書きました。
これは本当にその通りで、うちの事務所の場合は去年から今年の前半辺りまでは、閑古鳥が鳴きまくりの状態。事務所のキャッシュもどんどんなくなるし、この時間があったらどんどんプレゼンをして仕事を取りたいのに、こういう時に限って誰も頼んでくれないんですよね。
そんな時は、この仕事は取りたい!と思ってアプローチしてもことごとくスベったり、建て主さんの土地もなかなか決まらなかったり。本当に仕事というのは思い通りにならないものです。
ところが何かの拍子にそんな周期が底を打つと、今度はお断りしなくてはならないほどの仕事の波がやってきたりします。うちの事務所の場合は、今がそんな時期と言えそうです。もちろん調子に乗ると一寸先は闇ですので、謙虚に謙虚にいかないといけませんが…。
ただこういうことを書くと風評被害も発生したりもします。過去にも何度か痛い経験があって、「リオタデザインは忙しいらしい」「○年待ちらしい」という噂が立ちはじめると、相談にも至らずにスルーされてしまうことも何度かありました。そういうときに限って事務所は閑古鳥が鳴いていたりするんですよね。皮肉なものです。
今現在の状況は、今ご依頼頂くとお引渡しが約2年後くらいになるイメージです。設計の着手までには少しお待ち頂くかもしれません。ただうちの場合、順調に進めても1年半くらいはかかるので、長く住む家ですし、もうちょっとだけでもお待ち頂けたら、、ともおこがましくも思っちゃうのですが。
ここのところご相談の方にも、ご予算のこと以上にこのスケジュール感を確認することが多くなってきているので、この場でもそんなことに触れてみました。
ただうちはどんなに忙しくても一軒あたりにかける設計の時間は変えませんし、図面密度も仕事の流れも変わりません。設計品質は我々の生命線だと思っているからです。(だからお待たせしちゃうのですが、、すみません)
そんな我々の状況にもお付き合い頂ける寛大な方は、どうか引続きご相談下さいませ!よろしくお願いします。
これは本当にその通りで、うちの事務所の場合は去年から今年の前半辺りまでは、閑古鳥が鳴きまくりの状態。事務所のキャッシュもどんどんなくなるし、この時間があったらどんどんプレゼンをして仕事を取りたいのに、こういう時に限って誰も頼んでくれないんですよね。
そんな時は、この仕事は取りたい!と思ってアプローチしてもことごとくスベったり、建て主さんの土地もなかなか決まらなかったり。本当に仕事というのは思い通りにならないものです。
ところが何かの拍子にそんな周期が底を打つと、今度はお断りしなくてはならないほどの仕事の波がやってきたりします。うちの事務所の場合は、今がそんな時期と言えそうです。もちろん調子に乗ると一寸先は闇ですので、謙虚に謙虚にいかないといけませんが…。
ただこういうことを書くと風評被害も発生したりもします。過去にも何度か痛い経験があって、「リオタデザインは忙しいらしい」「○年待ちらしい」という噂が立ちはじめると、相談にも至らずにスルーされてしまうことも何度かありました。そういうときに限って事務所は閑古鳥が鳴いていたりするんですよね。皮肉なものです。
今現在の状況は、今ご依頼頂くとお引渡しが約2年後くらいになるイメージです。設計の着手までには少しお待ち頂くかもしれません。ただうちの場合、順調に進めても1年半くらいはかかるので、長く住む家ですし、もうちょっとだけでもお待ち頂けたら、、ともおこがましくも思っちゃうのですが。
ここのところご相談の方にも、ご予算のこと以上にこのスケジュール感を確認することが多くなってきているので、この場でもそんなことに触れてみました。
ただうちはどんなに忙しくても一軒あたりにかける設計の時間は変えませんし、図面密度も仕事の流れも変わりません。設計品質は我々の生命線だと思っているからです。(だからお待たせしちゃうのですが、、すみません)
そんな我々の状況にもお付き合い頂ける寛大な方は、どうか引続きご相談下さいませ!よろしくお願いします。

一昨日、2005年に竣工した「HAKKO」という住宅が売りに出されたという件についてブログに書きました。
思いのほか反響も大きく驚いていますが、一方では私にとって初期の代表作であるにもかかわらず、サイトにも写真が少なく少し謎めいた住宅のようになっています。
私にとって約20年前の仕事…もうそんなになりますか。そんなことで、この機会に当時のことを振りかえってみたいと思います。
◇
HAKKOの設計依頼を頂いたのは、2004年の頃だったと思います。建て主のIさんは、もともと私が過去に設計したカフェmoi(荻窪にあった時代)の常連さんで、お店で紹介されてお話をしたことがあったという程度でした。
Iさんは北欧にも多くのつながりを持つ方で、美意識やデザインに対する感度が高く、ポストカードの制作や輸入雑貨なども扱ういわゆる”目利き”の方でした。
一方当時の私といえば、仕事は小さなカフェの設計やリフォーム仕事ばかりで、戸建てはようやくはじめての住宅(ILMA)を友人から依頼されて設計していたくらいで、実績を作品としてお見せできるようなものはほとんどないという状況。
そんな”どこの馬の骨かわからないヤツ”によくも設計を依頼してくださったものだと、今思ってもその勇気に敬意を表したくなります。思えばそういう建て主に支えられて今があるわけですが、このことについては、Iさんには今でもとても感謝しています。
ただご予算は厳しかった!
でも若いってすごいことですね。そして怖い。経験がないので、それがどれだけ厳しい予算かというのがわからないんです。やればできるのかな、みたいな。結果として出来ましたが、今思うと奇跡以外のなにものでもありませんでした。工務店さんのご協力や努力にも心から感謝です。
今でもこの住宅を下回るローコストはありません。金額は書きませんが、たぶんこれを読んでいる方が想像する額の、たぶん”半分”くらいじゃないでしょうか笑。今なら絶対できないし、やりません。

敷地は山中湖の管理別荘地の傾斜地。最初にこんな感じのシンプルなボリュームを提案しました。というか、これしか思い浮かびませんでした。
これしかないと思い込んでいたので、建て主に他にも案を出して欲しいと言われても全然浮かばなくて困りました。私は「コレッ」って思うとそれしか考えられないので、良くも悪くもオンリーワンプランなんですよね。これは今にもつながっているスタイルでもあります。
ここからの設計プロセスは、小さな家なのでプランが二転三転することこそありませんでしたが、建て主さん側も色のテイストや金物の選定、ちょっとしたディテールにも強いこだわりを示されたので、トントン拍子というわけでもありませんでした。
たとえば、内部について私は「もっと木質感を見せるべき」、建て主さんは「見せない方が良い」など、そのデザインを巡って意見が食い違って議論になったこともありました。化粧のヒノキの柱をペンキで塗りつぶすと言われたときは、必死に説得して、せめてオイルステイン塗装にさせて頂いたことも笑。
当時は経験不足から完成形がイメージできず不安もありましたが、出来上がってみると大いに納得!私の拙い感覚ではとても到達できなかった領域に、建て主さんに引き上げて頂いた感覚がありました。



この仕事ではじめてだったことがあります。それは「木造」です。
今では『木造住宅のできるまで』なんて本も出していますが、考えられません。独立前の前職ではRCの集合住宅や鉄骨造の医院などの担当がほとんどで、床伏図や軸組図はもちろん、プレカット打合せすらしたことはありませんでした。
そのため、いつも『建築知識』をひっくり返して「今さら聞けない木造」なんていう特集号を取り寄せて、隅々まで眺め回していました。人のディテールも片っ端から盗みまくって、自分らしく構成したりなど、この時期の仕事がのちの私の基礎をつくりあげたようにも思います。
今でも私は、構造は木造でも建築の発想はRCのように考えるクセがあります。最近は出しますけど、過去はあまり軒も出さなかったのはそういうキャリアの原点があったからかもしれません。



完成して、オープンハウスには友人知人など多くの方が駆けつけてくださいました。私も若いですね!当時33才です。
前職の事務所の所長(棚橋廣夫さん)も愛車のモーガンを飛ばしてやって来て下さいました。息子の写真もありました。ちっちゃい!時の流れを感じますね。


憧れの専門誌「新建築住宅特集」にも掲載して頂きました。私にとってはじめての掲載でした。これは嬉しかったですね!
結果的に、これがきっかけで母校の非常勤講師にも呼んで頂くことができました。だからこの仕事は文字通り、私にとっての出世作になったわけです。
にも関わらず、当時のデジカメ性能の問題や、あまり後先のことを考えていなかったので、まともな写真があまり残っていないんですよね。これが残念でなりません。
無理をしてでも、ちゃんとプロに竣工写真を撮って頂くべきだったと思います。でも当時の私は、本当にそれどころじゃないというか、、写真を頼むお金もなかったんですよね。思い出はすべて心の中にという感じです。初代スタッフ、二宮一平と高速を飛ばして通った現場も懐かしいです。
そんなHAKKOが竣工して18年、これが子どもなら大学に入学して独り立ちの時期ということですかね。どうか良い新しいオーナーさんが見つかりますように!そして更に手を入れながら末永く維持して頂けますことを願っております。
Iさま、あらためてこの度の出会いとご縁に心より感謝しております。
ありがとうございました!
