建築家仲間の津野恵美子さんの「林を抱く家」のオープンハウスへ。いわゆる豪邸。それも久しぶりに見る規模でした。これだけの規模をグレード感を落とさず、嫌らしさは出さず、品格を落とさずやり切るというのは、単に技術や経験だけではなく、津野さんの持つしなやかな感性のなせる業なのだろうと思います。まずそこに感服しました。
設計をまとめる作業は、文章を書く作業に似ています。どこで句読点を打つのか、改行をするのか、言い回しから言葉の選び方まで、何度も何度も通読して、引っ掛かりを覚えては書き直し、というのを繰り返すことで文章は肉体化し、難解な文章も難解なりに筋が通ってストンと落ちていきます。
私は建築を見るときは、文章を読むようにその人の文体を楽しむのですが、津野さんの文体はとても平易で、長編小説なのにすらすら読める感覚があります。それでいて、チャプターごとに必ず見せ場を作っていて飽きさせない。ずいぶん変わった言い回しをするんだなとか、似たような表現は自分も使うのに全く世界が違って見えるとか、その発見がとても楽しい。
それは津野さんが人任せにしないで、誠実に部分と向き合っているからなんでしょうね。あたたかな空間って、自然素材を使っているかどうかではなく、細部まで神経が行き届いているかどうか、本人が責任を持ってやり切っているかどうかに掛かってくるのだと思います。
そんなことを思いながら見学しました。執筆に丸3年かかった長編小説を2時間で読んだような贅沢な時間でした。津野さん、ご案内をありがとうございました!
過去事務所のスタッフには新卒もいれば転職組もいる。ただ私の経験上、新卒に比べて転職組の定着率は低いという傾向がある。これは私の偏った考えかもしれないけれど、構わず進める。
新卒に比べて転職組は前職の積み上げた経験が活かせるので、即戦力としてカウントできるのは採用者にとっては大きなメリットだ。一方の新卒は右も左もわからないところから地道に仕事を教えていかないといけないので、バリバリ仕事をこなしてくれるまでには1~2年の育成期間が必要になる。根気も必要だ。
ところがそのあと実力が伸びて、長く事務所に貢献してくれるのは圧倒的に新卒の場合が多い。転職組も、新卒で入った会社を1年以内に辞めて来た人は新卒と同じ傾向を見せるけれど、3年以上勤めて転職してくる人はちょっと厳しい。
もちろん仕事は一通りできるし、社会人としての常識も備えているのでその点は問題ないのだけれど、あえて言うなら「思想が違う」と感じてしまう。
それくらい、大学を出て初めて勤める会社の影響というのは大きい。とてつもなく大きい。人はそこで社会を教え込まれる。
同じ業界であればどこに行っても同じような慣例はある。けれど会社が変われば思想が変わる。昨日の当たり前が、今日から非常識になる。サッカーがバスケになるくらい変わる。多くの場合、そのパラダイムシフトに苦しむ。
ある程度個人に裁量が与えられた組織系の会社なら、転職してもあまりギャップはないと思う。でも我々のようなアトリエ事務所は違う。主宰者が個人で積み重ねた仕事観や価値観が、思想の前提にあるからだ。
大学を出て最初の会社に勤めようというとき、人はすごく考えると思う。自分の得意分野や、やりたいこと、将来の夢など。それを踏まえて選んだ会社に入社する。
つまりその時点でその人は「思想」を選んでいるのだ。それが数年経ったら思想が変わるなんてあり得ない。よく分からずに入ってしまったとしても、その環境に3年以上もいたということはそれなりに居心地が良かったからで、つまりその職場選択は間違っていなかったとも言える。あるいは相当に鈍感だったかのいずれかだ。
だからその人が転職するとしたら、その思想の延長線上にあるものを選ばないと後悔する。人の好みは変わっても、思想はなかなか変わらないからだ。
何が言いたいかというと、転職の話ではなく、最初に選ぶ仕事がいかに大切であるかということ。
嫌だったら辞めれば良いなんて絶対に思わない方がいい。終身雇用の時代ではないとしても、一生その会社に骨を埋めるくらいの覚悟で仕事や会社を選ばないと後悔する。人生何度でもやり直しは利くけれど、最初に良い選択をした人には敵わない。それは私が人生で学んだことだ。
転職で失敗する人を見ながら、ちゃんと最初に良い会社選ぼうよって思う。会社の規模とかお金じゃなくて、思想が大事。学生さんにはそう言ってあげたい。
新卒に比べて転職組は前職の積み上げた経験が活かせるので、即戦力としてカウントできるのは採用者にとっては大きなメリットだ。一方の新卒は右も左もわからないところから地道に仕事を教えていかないといけないので、バリバリ仕事をこなしてくれるまでには1~2年の育成期間が必要になる。根気も必要だ。
ところがそのあと実力が伸びて、長く事務所に貢献してくれるのは圧倒的に新卒の場合が多い。転職組も、新卒で入った会社を1年以内に辞めて来た人は新卒と同じ傾向を見せるけれど、3年以上勤めて転職してくる人はちょっと厳しい。
もちろん仕事は一通りできるし、社会人としての常識も備えているのでその点は問題ないのだけれど、あえて言うなら「思想が違う」と感じてしまう。
それくらい、大学を出て初めて勤める会社の影響というのは大きい。とてつもなく大きい。人はそこで社会を教え込まれる。
同じ業界であればどこに行っても同じような慣例はある。けれど会社が変われば思想が変わる。昨日の当たり前が、今日から非常識になる。サッカーがバスケになるくらい変わる。多くの場合、そのパラダイムシフトに苦しむ。
ある程度個人に裁量が与えられた組織系の会社なら、転職してもあまりギャップはないと思う。でも我々のようなアトリエ事務所は違う。主宰者が個人で積み重ねた仕事観や価値観が、思想の前提にあるからだ。
大学を出て最初の会社に勤めようというとき、人はすごく考えると思う。自分の得意分野や、やりたいこと、将来の夢など。それを踏まえて選んだ会社に入社する。
つまりその時点でその人は「思想」を選んでいるのだ。それが数年経ったら思想が変わるなんてあり得ない。よく分からずに入ってしまったとしても、その環境に3年以上もいたということはそれなりに居心地が良かったからで、つまりその職場選択は間違っていなかったとも言える。あるいは相当に鈍感だったかのいずれかだ。
だからその人が転職するとしたら、その思想の延長線上にあるものを選ばないと後悔する。人の好みは変わっても、思想はなかなか変わらないからだ。
何が言いたいかというと、転職の話ではなく、最初に選ぶ仕事がいかに大切であるかということ。
嫌だったら辞めれば良いなんて絶対に思わない方がいい。終身雇用の時代ではないとしても、一生その会社に骨を埋めるくらいの覚悟で仕事や会社を選ばないと後悔する。人生何度でもやり直しは利くけれど、最初に良い選択をした人には敵わない。それは私が人生で学んだことだ。
転職で失敗する人を見ながら、ちゃんと最初に良い会社選ぼうよって思う。会社の規模とかお金じゃなくて、思想が大事。学生さんにはそう言ってあげたい。
FIFAサッカーワールドカップもあと残すところ3位決定戦と決勝戦を残すのみ。とても寂しい。
当初はワールドカップも日本戦くらいしか観ないだろうと思っていたのに、DAZNに1ヶ月限定で入ったらどハマりしてしまい、気づけば(ハイライトベースではあるものの)ほぼ全試合観たんじゃないだろうか。仕事が終わってから、その日の試合のハイライトをチェックをするのが日課になっていたし、そこまで注目されていなかった対戦カードの試合にもちゃんとドラマがあり、見終わった後は一編の短編映画を観たような気分にもなった。
私自身はそこまでサッカーに詳しくないし、一部のスター選手しか知らないにわかファンだという前提で書くのだけれど、私にとってサッカーの魅力は自身の仕事観や人生とつい重ね合わせてしまう点にある。
豪快なシュートも良いけれど、私はチームのグルーヴ感が感じられる華麗なパス回しや連携プレーにより引き込まれる。
それは言葉ではなく、皆が同じ目的を共有したときに阿吽の呼吸で繰り出されるプレーであるということ。常に2手3手先の展開を読んで、味方がボールを奪った瞬間にはほかの選手はもう走り出している。シュートを放った瞬間には、次の展開を予測して二の矢、三の矢が放たれている。
この連動なきところにはゴールは生まれないということなのだけれど、この流れるような歯車が噛み合った時の一体感はなんともたまらない。
それは建築はけして一人ではできないということと似ている。長年プロジェクトを共にしているスタッフは、私が動き出したときにはアイコンタクトひとつですでに次の段取りに手を掛けている。我々と現場を共にする工務店もまた、図面の行間を読んで我々が気づいていないリスクに先回りして対処してくれている。
これは言葉ではないのだ。仕事で最も大切なのはグルーヴ感。これは教えられない。わかる人はわかる。
サッカーの神がかったプレーにはそれがある。たとえばメッシのように。20日の決勝戦が今から楽しみでならない。
当初はワールドカップも日本戦くらいしか観ないだろうと思っていたのに、DAZNに1ヶ月限定で入ったらどハマりしてしまい、気づけば(ハイライトベースではあるものの)ほぼ全試合観たんじゃないだろうか。仕事が終わってから、その日の試合のハイライトをチェックをするのが日課になっていたし、そこまで注目されていなかった対戦カードの試合にもちゃんとドラマがあり、見終わった後は一編の短編映画を観たような気分にもなった。
私自身はそこまでサッカーに詳しくないし、一部のスター選手しか知らないにわかファンだという前提で書くのだけれど、私にとってサッカーの魅力は自身の仕事観や人生とつい重ね合わせてしまう点にある。
豪快なシュートも良いけれど、私はチームのグルーヴ感が感じられる華麗なパス回しや連携プレーにより引き込まれる。
それは言葉ではなく、皆が同じ目的を共有したときに阿吽の呼吸で繰り出されるプレーであるということ。常に2手3手先の展開を読んで、味方がボールを奪った瞬間にはほかの選手はもう走り出している。シュートを放った瞬間には、次の展開を予測して二の矢、三の矢が放たれている。
この連動なきところにはゴールは生まれないということなのだけれど、この流れるような歯車が噛み合った時の一体感はなんともたまらない。
それは建築はけして一人ではできないということと似ている。長年プロジェクトを共にしているスタッフは、私が動き出したときにはアイコンタクトひとつですでに次の段取りに手を掛けている。我々と現場を共にする工務店もまた、図面の行間を読んで我々が気づいていないリスクに先回りして対処してくれている。
これは言葉ではないのだ。仕事で最も大切なのはグルーヴ感。これは教えられない。わかる人はわかる。
サッカーの神がかったプレーにはそれがある。たとえばメッシのように。20日の決勝戦が今から楽しみでならない。
会合などがあると、持ち回りで議事録係などの役が回ってくる。私はこの議事録作成という仕事が大嫌いで、嫌な仕事はとっととやっつける性格から会合後にはすぐにやっつけ仕事のように記録を起こして相手に送ってしまう。
実際私は会合で前回の議事録がまわってきてもほとんど目を通すことはないし(本当はいけないのだろうけど面倒くさい)、だから自分でも議事録を付けながらこんなの誰が読むんだろうって思ってしまう。
そこで最近はAI議事録というのを重宝して使っている。ご存じの方も多いかもしれないけれどPROUDというカードサイズの超小型レコーダーで、会議中起動させておけば会合後に自動的にかなり正確なAI要約を作ってくれる。
最近では私がこれを持っていることをみんな知っているので、会合前に「関本さん、いつものお願い」と頼まれる。会議中ボタンを押して、AI要約議事録を終了後に送れば一部を修正するだけで公式記録にできる。みんなの貴重な時間を浪費しなくて済む。つくづく便利な世の中になったと思う。
ところがこのAI議事録、書かれていることはほぼ事実ベースで、よくもあの長々とした会議をこんなに正確に要約するものだと感心するのだけれど、あとで読み返すとなぜか頭にあまり入ってこない。どこか他人事で、新聞記事を読んでいるような気分にもなる。
議事録なんて所詮こんな無味乾燥なもので十分だと思う一方で、これが住宅の設計打合せの記録だったりすると、どこがハイライトだったかがわからなくなるのだ。舞台で大根役者がセリフを棒読みしているのを見せられているみたいな。それなら自分自身でつけたミミズが這ったような文字の方がよほど頭に入る。不思議なものだ。
そこであらためて思うことは、我々は人に話を聞くときはある程度のバイアス(先入観や偏見)をかけて聞いているのだなということ。逆にそうやって聞かないと、人の言葉なんてお経を聞いているようなものにしかならないともいえる。
◇
相手の話を聞くときに、我々は相手の言葉(日本語そのもの)というより、相手の声音だったり、表情だったり、前後の文脈を組み合わせてその人の言葉以上の意味をそこから読み取ろうとする。それによっては、日本語の意味として「肯定」でも、「否定的肯定」の文脈で語っているように聞こえることもある。
極論すれば、ある程度の「決めつけ」をしないと設計のストーリーは定まらないともいえるかもしれない。フラットに聞いているように見せかけて、実は一定の決めつけをしながら話を聞いている。それはまったくをもってバイアス以外のなにものでもない。
雑誌の取材などでも、きっと編集者さんやライターさんもそうやって相手の話を聞いているのだろう。良くできた記事(一読しただけでするするっと頭に入る記事)というのはストーリーが一種のバイアスのかかった筋で紡がれていて、そこに適切な強弱が足され、無駄なノイズや矛盾する要素は巧みに排除されているからだ。
あんなに余談ばかりで話もあちこちに寄り道したというのに、書き手が定めた本筋以外はばっさり切り捨てられて、書かれていないことはしゃべった本人も覚えていないという状態。そんなこと言ってないのに、もしかしたらそう言ったのかもしれない。そんな記事に出会うと、あぁこのライターさんは優秀だなと思う。
これがAIなら、すべてをまんべんなく情報を網羅して取りこぼすことのない、ある意味完璧な記事を書くのだろう。でもどこも間違っていないのに、頭に入ってこない。心に響かない。そういう記事になるかもしれない。
要約とは編集である。そういう意味ではAIのもっとも得意な領域であるとも言える。しかしAIは敵わない。人間が一番ほしいのは「バイアスのかかった編集」だからだ。言いかえると「都合の良い事実」。白雪姫で王妃が魔法の鏡に向かって「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」と問いかけるあれである。
住宅の設計がAIに取って代わると言われているけれど、私はそうはならないと思う。我々がこの「魔法の鏡」を手放さない限り。
実際私は会合で前回の議事録がまわってきてもほとんど目を通すことはないし(本当はいけないのだろうけど面倒くさい)、だから自分でも議事録を付けながらこんなの誰が読むんだろうって思ってしまう。
そこで最近はAI議事録というのを重宝して使っている。ご存じの方も多いかもしれないけれどPROUDというカードサイズの超小型レコーダーで、会議中起動させておけば会合後に自動的にかなり正確なAI要約を作ってくれる。
最近では私がこれを持っていることをみんな知っているので、会合前に「関本さん、いつものお願い」と頼まれる。会議中ボタンを押して、AI要約議事録を終了後に送れば一部を修正するだけで公式記録にできる。みんなの貴重な時間を浪費しなくて済む。つくづく便利な世の中になったと思う。
ところがこのAI議事録、書かれていることはほぼ事実ベースで、よくもあの長々とした会議をこんなに正確に要約するものだと感心するのだけれど、あとで読み返すとなぜか頭にあまり入ってこない。どこか他人事で、新聞記事を読んでいるような気分にもなる。
議事録なんて所詮こんな無味乾燥なもので十分だと思う一方で、これが住宅の設計打合せの記録だったりすると、どこがハイライトだったかがわからなくなるのだ。舞台で大根役者がセリフを棒読みしているのを見せられているみたいな。それなら自分自身でつけたミミズが這ったような文字の方がよほど頭に入る。不思議なものだ。
そこであらためて思うことは、我々は人に話を聞くときはある程度のバイアス(先入観や偏見)をかけて聞いているのだなということ。逆にそうやって聞かないと、人の言葉なんてお経を聞いているようなものにしかならないともいえる。
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相手の話を聞くときに、我々は相手の言葉(日本語そのもの)というより、相手の声音だったり、表情だったり、前後の文脈を組み合わせてその人の言葉以上の意味をそこから読み取ろうとする。それによっては、日本語の意味として「肯定」でも、「否定的肯定」の文脈で語っているように聞こえることもある。
極論すれば、ある程度の「決めつけ」をしないと設計のストーリーは定まらないともいえるかもしれない。フラットに聞いているように見せかけて、実は一定の決めつけをしながら話を聞いている。それはまったくをもってバイアス以外のなにものでもない。
雑誌の取材などでも、きっと編集者さんやライターさんもそうやって相手の話を聞いているのだろう。良くできた記事(一読しただけでするするっと頭に入る記事)というのはストーリーが一種のバイアスのかかった筋で紡がれていて、そこに適切な強弱が足され、無駄なノイズや矛盾する要素は巧みに排除されているからだ。
あんなに余談ばかりで話もあちこちに寄り道したというのに、書き手が定めた本筋以外はばっさり切り捨てられて、書かれていないことはしゃべった本人も覚えていないという状態。そんなこと言ってないのに、もしかしたらそう言ったのかもしれない。そんな記事に出会うと、あぁこのライターさんは優秀だなと思う。
これがAIなら、すべてをまんべんなく情報を網羅して取りこぼすことのない、ある意味完璧な記事を書くのだろう。でもどこも間違っていないのに、頭に入ってこない。心に響かない。そういう記事になるかもしれない。
要約とは編集である。そういう意味ではAIのもっとも得意な領域であるとも言える。しかしAIは敵わない。人間が一番ほしいのは「バイアスのかかった編集」だからだ。言いかえると「都合の良い事実」。白雪姫で王妃が魔法の鏡に向かって「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」と問いかけるあれである。
住宅の設計がAIに取って代わると言われているけれど、私はそうはならないと思う。我々がこの「魔法の鏡」を手放さない限り。
美術手帖のYouTubeチャンネルで、建築史家の松隈洋さんが解体がはじまってしまった旧香川県立体育館の問題に言及されています。国内における近代建築を残す意義や意味についてもとてもわかりやすく解説されていて、そんな素晴らしい建築を残せなかったことに胸を痛めつつ、松隈さんの熱弁に引き込まれ心を打たれました。
この中でフィンランドの建築政策についても触れて頂いています。フィンランドでは「The Finnish Architectural Policy」というものが1998年に出されました。これは国の教育省やアートカウンシルが発行元となり、フィンランド建築家協会SAFAが編集を行ったものです。
The Finnish Architectural Policy 1998
https://ace-cae.eu/wp-content/uploads/2024/10/FI-report.pdf
松隈さんも感嘆されていましたが、内容が本当に素晴らしく、序文をまず時の首相が書いていること、またその中でパーヴォ・リッポネン首相は、憲法で定められた「良好な環境に関する国民の権利」を実現する機会を作ること、また「国民には自分たちの環境に責任を持つ権利と義務の両方があり、その権利を行使するためにも建築に関する教育や情報の提供を強化する必要がある」ことを強調し、この建築政策がアールト生誕100年祭の年に出されたことに大きな意義と喜びを感じる、と締めくくっています。
良い環境はすべての市民にとって基本的な権利(A good environment is a basic right of every citizen)という考え方にもしびれますが、私は特にフィンランドの「Living Heritage(生きた遺産)」という考え方に共感を覚えます。
フィンランドでは築90年近いパイミオサナトリウムやマイレア邸といったアールトの建築遺産が、単なる観光スポットとしてではなく、今もなお何らかの形で使われ続けているという「動的保存」の考え方があります。それはまさに建築にとって最も理想的で幸せな状態であるともいえます。
そんなアールトの建築群はユネスコ世界遺産への登録に向けて秒読みの段階に入っています。どうか末長く残って欲しい。松隈洋さんの美術手帖の動画リンクは以下より。素晴らしいコンテンツでした。
◼️美術手帖YouTube・なぜモダニズム建築は壊されてしまうのか?
https://youtu.be/qe5RHnm60BI?si=RTQJ9jsgR0j3F-KK
◇
[追記]
こちらは最新版(2022-2035)のフィンランド建築政策リンクです。
◼️The Finnish Architectural Policy 2022-2035
https://julkaisut.valtioneuvosto.fi/server/api/core/bitstreams/6b2cb52e-2623-46b8-9fb1-467108c34d11/content
1998年の声明から一歩進んで、気候変動や建築的持続可能性(Architectural sustainability)、「Design fo All」の推進、デジタル化の推進などが追加されています。また1998年の声明はEUの多くの国での建築政策モデルとなったことにも触れられています。
建築の価値を「技術的、芸術的、文化的な価値を持つ資本」と捉え、「建築の本質は文化・芸術である」ということを国が宣言している点も素晴らしいです。
冊子も堅苦しいものではなく、ポップでどこかの気の利いた都市の観光案内のようです。国民にまったく響かない国交省の無機質な文書も少しは見習って欲しいですね。
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