学生に設計指導したり本を書いていたり、いろんなセミナーや設計塾などで講師を務めていたりするので、さも私は設計を教えるのが上手くて体系だった教え方ができるのだろうと誤解されるのだけれど、そんなことはない。つまるところ私は設計を教えるのがとっても苦手だ。

設計はとっても感覚的な領域だといえる。論理的に説明できる部分も多いけれど、論理ですべて説明できる空間なんてつまらない。建築の一番大切な部分は個人のゆらぎの部分にあって、自分でもどうして良いかわからないという迷いがあることがとても大切なのだと思う。

だから私は、人の建築については饒舌に説明できるけれど、自分の設計した建築についてはうまく説明できた試しがない。

もちろんプロなので、建て主さんへのプレゼンには自信がある。でもそれって表向きのエクスキューズみたいなもので、使い勝手で語れるほど建築は底浅くないし、それはけして建築の本質ではないのだとも思う。その深い階層の部分をうまく言語化できずにいつも悶々とする。

音楽の旋律は、指揮者がタクトを振るように全体を繊細にコントロールするものであるとすれば、私の感覚はこれに近いかもしれない。建築家の内藤廣さんは、アルヴァ・アールトの建築空間を評して「音楽を写真で見てもわからない」と言った。さすが上手いことを言うもんだと感心する。

見えない霊が見える人は霊感があると言われる。音感がある人は、日常の音をすべて音階に置き換えられるという。私はそのどちらの能力もないけれど、その空間をどうすれば居心地の良い場所にできるかというのはわかる。

だからそれがわからない人には、私はそれを教えることはできないのだと思う。音感のない人に音感を教えることができないのと同じように。こんなこと書くと身も蓋もないかもしれないけれど、最近つくづくそう思う。

できるとすれば、同じ感覚を持った人同士が共感し合うこと。人が幸せになれる状態って、それしかないんじゃないかと思う。だから教えるって難しい。とっても悩ましい。