11. 09 / 11

18 till I die

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sekimoto

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> 思うこと


ちょうど十年前,旅客機がNYの超高層ビルに突っ込んだあの日,僕は友人とヘルシンキのレストランにいて,友人の携帯に飛び込んだそのニュースに全身に鳥肌が立ったのを覚えている.まだ見えぬ自分の将来への不安を抱えながら,これから世界はどうなってしまうのだろうと,でも一方では何かが変わるという好奇心にも似た気持ちもあった.

ちょうど半年前,未曾有の災害が東北を襲ったあの日,僕はスタッフと共に有明にいて帰宅困難者のひとりとなった.当時は自分もなかばパニック状態で,日々建築家として何ができるのかを模索する日々でもあった.建築が変わる,社会が変わる,と日々呪文のように唱えていた.

ロック歌手のブライアン・アダムスに『18 till I die』という曲がある.
ハスキーボイスで叫ぶ”死ぬまで18歳”というその歌詞を,今は当時とは違う気持ちで聴ける気がする.肉体は日々時計の針と同じ分だけ歳を取っていくけれど,僕はあの頃からなにも変わっていないと思うことがある.建築を志した18歳の延長線上に,今の自分はあると信じたい.

あれからちょうど40年.とりあえず通過点.
でもとりあえず,おめでとう自分.



今日は外出のため,家族に一日早く祝ってもらいました.

11. 09 / 01

「話す」こと

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sekimoto

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> 仕事
> 思うこと



以前プランがなかなか進まない話を書いた.その後はといえば,なんとか道筋をみつけて「ヨシ!」と心の中で小さくつぶやけるくらいの案にはなりつつある.

毎回プランを納得のいく形でまとめるというのは,プロとしては当然といえば当然のことなのだけれど,でもこれはプロだろうが学生であろうが結局は同じことで,そんな局面に出くわした時どうやったら乗り越えられるかということを日々意識していないと,その時にただあたふたと自信喪失する事態にもなりかねない.

よくそういうときは「手を動かせ」と我々は言う.ただ腕組みして天井を眺めているよりも,手を動かしていれば何かヒントが得られるはずだと.もちろんそれは正しい.正しいけれど常に正しいかと言われればそうでもない,と僕は思う.

だって頭に何にも浮かばないのに真っ白なスケッチブックにただ向き合うなんて,こんなに苦痛なことはないもの!これはきっと文筆業の方でも同じだろう.ちょっと気分転換…といっては,後ろめたく違うことをやりはじめてしまうパターンになりかねない.

今回実感したのは,こういうときの「話す」ことの有効性である.

自分の中で堂々巡りしている悩みも,親しい友人などに話すとおのずと結論が見えてくることがある.今回もあまりに糸口が見えないので,スタッフをつかまえ目の前に座らせては,何が問題なのか,どこに違和感を覚えているのかを訥々と語るという作業を繰り返した.

不思議なもので,毎回語り終える頃には「だからきっとこういうことなんだろうな」という結論じみたことが見え始めていたりするからおもしろい.あんなに行き詰まっていたというのに.またそこで素朴な一言をもらったりすると「やっぱりそうか」と,またひとつ外堀が埋められたりもする.

つまり「話す」ことは手を動かすのと同じくらい有効な”エスキース”であるということだ.さび付いて硬直していたギアに油を差す行為にも近いかもしれない.また自分以外の誰かを巻き込むことで,モチベーションを上げられるという効果もあるだろう.

そう考えると,よく大学などでは学生がまっさらなエスキース帳を持ってきては「なんとかしてください!」というパターンが多いのだけれど,それを怠慢とばかりに突き放すのは必ずしも得策ではないのだとも言える.手が動かない学生には,まずは口を動かさせるというのも指導のひとつだろう.

今回はいろいろスタッフにも”ご指導”頂いて少し着地点が見えてきた.実にありがたい.一人で事務所をやっている人も多いと思うけれど,仕事量の問題というよりクリエイションの問題において,僕は絶対に一人ではできないだろうなとつくづく思うのだった.

11. 08 / 15

うんざりする

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sekimoto

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> 思うこと


あーあと心の中でつぶやく。
僕はいつも投げなくてもよい石を放ってしまう。なんでも曖昧にするのがいやで、ついつい白黒をつけたくなってしまう。けれども世の中は、だいたい白黒つけられないことがほとんどで、あるいはつけるのを放棄して皆平和に暮らしている。もしかしたら皆鈍いのかなと思うこともあるし、大人なのかなと思うこともある。

石を投げればその波をかぶることは目に見えている。
やめておけばいいのに、でも僕は投げずにはいられない。

けれども一時的に高まる波をかぶることさえ覚悟すれば、ふたたび波が静まるころには前よりも状況は良くなっている(と信じたい.幻想だろうか)。言わなくても察してもらえることもあるけれど、やっぱり言わないとわかってもらえないことも多いものだ。

そして石を投げてから、あーあとまた心の中でつぶやく。
投げなくてもいい石をまた放ってしまったという気持ちになる。

今抱えている別の問題についても、掴みかけた石を放るのか、放すのか、その判断が頭の中をぐるぐると駆けめぐっている。多くの場合、掴んだ石は放すのが賢明だ。けれども僕は結局放ってしまうような気がする。そしてそのことと、そのあとにやってくるであろう高波を想像して今からうんざりするのだ。

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sekimoto

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> 思うこと


私もスタッフも,人と会うと必ず「お忙しいんでしょう?」と言われる.

うちの事務所はどうにも”忙しい”事務所だと思われがちだ.
まぁ当たらずしも遠からず,現在の状況に限って言えばけしてヒマではないと思うけれど,本当にヒマになってしまうことも珍しくないわけで(その時の落ち込み具合はハンパないが),仮にプロジェクトが続いていても本人達はさほど忙しいとは思っていないので,そう言われることにはいつも違和感を覚える.

そもそも頂いた仕事はなんでもこなすのが基本なのだろうが,クライアントに迷惑をかけたくないのと,仕事のクオリティを維持したいこともあり,基本自分たちのキャパシティを越える仕事はしないようにしている.仕事がかち合っているときはこちらのスケジュールをすべて正直にお話しした上で,お待ち頂けるかどうかをご判断頂く.

でもここからが難しいところなのだけれど,頂いているご相談も必ずしも全て決まるとは限らない.これまでも堅いと思っていた案件があっけなく流れたり,そんな立ち直れなくなる経験も山ほどしてきているので,ちょっとばかり仕事が増えたといってもけして手放しで喜ぶ気にはなれないのである.

だからいつも崖っぷち.安定とか軌道に乗るとかいう状態とはほど遠い綱渡りの日々である.結局この仕事は一期一会.今向き合っている仕事に全力を尽くす,それしかないのだろうと思う.

だから忙しかろうが,ヒマだろうが,仕事に向き合っているその瞬間に限って言えば,常に「いつも通り」と言えるのかもしれない.

11. 07 / 25

川のとりこ

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sekimoto

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> 子ども
> 思うこと



休日時間ができると,よく子どもを連れて川に行く.釣りをすることもあるけれど,多くは子どもを適当に遊ばせて,僕は岸辺からぼーっとそれを眺めていることが多い.

海のない埼玉県で生まれ育ったこともあるけれど,僕は海よりも川の方が好きだ.
家から近いこともあるけれど,アメリカ大陸まで繋がっているような遠大なスケールの海よりも,手をのばせば届くその安心感と,寄せては返す波のリズムよりは絶えず流れてゆく川のせせらぎが耳に優しく心地よい.

川を眺めていると心が癒される.よく相手を許すことを”水に流す”というけれど,水を眺めているといろんなことに対して大らかな気持ちになれる.子どもと一緒になって川遊びをするのも嫌いじゃないけれど,僕はやはりぼーっと川を眺めているときが一番好きだ.

川に行くと子どもは基本的にほったらかしである.一応視界の先で捉えているけれど,少しばかり危ないことをしていても何も言わない.子どもには一応ライフジャケットを着用させているし,子どもの頃は僕も川で危険な遊びもした.我が子にも,せいぜい死なない程度に怪我をさせて怖い思いをさせてやれればとも思う.

僕の好きな映画に「A River Runs Through It (1992) 」というのがある.
モンタナ州の川が舞台となっていて(主演ブラッドピット),僕はもう5回以上も観ているのだけれど,その圧倒的な映像美には毎回泣ける.美しさに泣ける映画というのは僕はこの映画のほかに知らない.

" I'm hunted by water.(私は川のとりこだ)"というモノローグが胸にぐっと迫る.
そして僕も,川は人生そのもの(through it)だといつも思うのだ.