モノタロウからのDM。いつもならほぼこのままごみ箱行きなのだけれど、この日はふと手が止まった。ここ最近関心を持っていたジャンルのパーツが並んでいたからだ。でもよく眺めると既視感がある。ここ数ヶ月間で、実際にモノタロウのサイトで調べたことがあるものばかりだった。
つまりモノタロウは、顧客の購買傾向や検索結果をAIで判断して、送る相手ごとに表紙のデザインを変えていることになる。すごく手が込んでいるように見えるけれど、実際には人の手は一切介在していない。ネットに自動表示される広告は見慣れているけれど、顧客に送られる紙媒体広告も、これからはカスタマイズの時代なのだと妙に感心した。
メーカーのカタログも紙で発刊されなくなって久しいけれど、ウェブカタログはどうも慣れない。一方でカタログ掲載品のほとんどは自分では一生使わないものばかり。
これが進めばカタログはダイジェスト的なものになってもっと薄くなるし(続きはウェブで的な)、無駄な折り込みチラシは少なくなるに違いない。
ついでに、相手によって年賀状の文面を自動生成してくれる宛名ソフトも開発して欲しい!
いつからか、建築家の奥山裕生さん、青木 律典さんとは年に一度呑みながら近況報告をするという三人会を続けています。
今年も一年ぶりの開催でしたが、直前に奥山さんがご家族の発熱もあり、大事をとってキャンセル。代わりにスタッフの佐藤くんを誘って、青木さんとの臨時三人会を開催しました。奥山さんはオンライン参加。こういう呑み会の参加方法があったのかという新鮮な会になりました。
今年のテーマもやはり、君たちはどう生きるか、ならぬ「僕たちはどう生きるか」。いい大人の人生相談?が夜更けまで続いたのでした。うーんどうやって生きるか。青木さん、お疲れ様でした!惇生くんもお疲れさまでした。
リオタデザインも5日より仕事始めとなりました。年明けから入社の新スタッフ小沼くんも合流し、地元の敷島神社に初詣ののちは水子貝塚公園へ。
ここは東上線沿線に点在する貝塚のひとつで、園内に竪穴式住居も復元されているスポット。
ここに来る目的の一つは、縄文時代の埼玉の陶板地図があること。これによると、東武東上線は昔の海岸線、浦和は岬の先端、そこから先はすべて海の底だったことがよくわかります。
海なし県の埼玉も、6000年前は見渡す限りの海があって、我が家の少し先にはビーチが広がっていたわけです。もうちょっと早く生まれていれば、志木は葉山だったのかも!
新スタッフには、いつもそんな偏った埼玉教育から始まるのでした。ようこそ葉山へ。今年もよろしくお願いします!
新年あけましておめでとうございます!
ここで新年の抱負でも書くかと思いきや、そんなことは書きません。抱負なんて意味がないからです。そのことはおいおい書くとして、まずは年賀状の話から。
子どもの頃、クラスの友達や担任の先生、親戚などからお正月に年賀状が届くのが楽しみでした。それでも自分宛に届いたのは10通くらい。一方の父親のもとには札束のような量の年賀状が毎年届き、大人になったらあんなにたくさん年賀状をもらえるんだとワクワクしながら、父の偉大さを子供心に感じたものでした。
私も今では、あの頃の父親の量には足元にも及びませんが、お正月にはちょっとした量の年賀状が届きます。ですが今年秋に郵便料金が大幅値上げされるのを潮に、私から出す年賀状は今年で最後にすることにしました。
毎年暮れに諸事に追われながら「そうだ、年賀状やらなくちゃ」とトラウマのように悩まされる日々もこれで最後。そう考えたら急に気が楽になり、これでスッキリ!と思っていたというのに、このお正月に頂いた年賀状を一通一通眺めていたら、そんな決意もグラつくことに。
年賀状の端に「快適に暮らしています」との一言を添えて下さる建て主さん。昨年の出来事を振りかえって温かい言葉を寄せて下さる仲間。もはや年賀状だけの付き合いになってしまった古い友人の家族写真。やっぱり年賀状って良い習慣だとしみじみと思います。ごく内輪の方にはひっそりと今後も送り続けようかな、、。
さて、年賀状にもいろんな種類があります。仕事上付き合いのある企業から届く定型文のものから、建て主さんや友人、親戚など個人の方から届くもの。そして同業の建築家仲間から届くものなど。
中でも同業から頂く年賀状は、昨年竣工したばかりの建築写真や、デザインやレイアウトも凝っているものも多く、ついため息をつきながら見入ってしまいます。
とここまでは良いのですが、そこにさらに昨年の活躍や意識高めの今年の抱負が書き連ねられていると、そのままそっと裏返したくなってしまいます。そこには悪意もないのですが、ただ私は思うのです。
この新年にイキって抱負を言う習慣って、もうやめません?
「挑戦」とか「飛躍」とかもういいです。仕事を一生懸命やっている人なら、皆日々挑戦していることでしょう。それ以上肩に力を入れてどうする。飛躍は結果論でしかないのですから。
仕事は自然体が一番です。目標は決めないほうが良いし、抱負もいりません。目標を決めなければ落胆することもありません。着地したところがゴールなのですから。
ただ目の前に来た仕事に全力投球!それだけで十分だと思うのです。
さぁ、今年も楽しく充実した一年になりますように。
ここで新年の抱負でも書くかと思いきや、そんなことは書きません。抱負なんて意味がないからです。そのことはおいおい書くとして、まずは年賀状の話から。
子どもの頃、クラスの友達や担任の先生、親戚などからお正月に年賀状が届くのが楽しみでした。それでも自分宛に届いたのは10通くらい。一方の父親のもとには札束のような量の年賀状が毎年届き、大人になったらあんなにたくさん年賀状をもらえるんだとワクワクしながら、父の偉大さを子供心に感じたものでした。
私も今では、あの頃の父親の量には足元にも及びませんが、お正月にはちょっとした量の年賀状が届きます。ですが今年秋に郵便料金が大幅値上げされるのを潮に、私から出す年賀状は今年で最後にすることにしました。
毎年暮れに諸事に追われながら「そうだ、年賀状やらなくちゃ」とトラウマのように悩まされる日々もこれで最後。そう考えたら急に気が楽になり、これでスッキリ!と思っていたというのに、このお正月に頂いた年賀状を一通一通眺めていたら、そんな決意もグラつくことに。
年賀状の端に「快適に暮らしています」との一言を添えて下さる建て主さん。昨年の出来事を振りかえって温かい言葉を寄せて下さる仲間。もはや年賀状だけの付き合いになってしまった古い友人の家族写真。やっぱり年賀状って良い習慣だとしみじみと思います。ごく内輪の方にはひっそりと今後も送り続けようかな、、。
さて、年賀状にもいろんな種類があります。仕事上付き合いのある企業から届く定型文のものから、建て主さんや友人、親戚など個人の方から届くもの。そして同業の建築家仲間から届くものなど。
中でも同業から頂く年賀状は、昨年竣工したばかりの建築写真や、デザインやレイアウトも凝っているものも多く、ついため息をつきながら見入ってしまいます。
とここまでは良いのですが、そこにさらに昨年の活躍や意識高めの今年の抱負が書き連ねられていると、そのままそっと裏返したくなってしまいます。そこには悪意もないのですが、ただ私は思うのです。
この新年にイキって抱負を言う習慣って、もうやめません?
「挑戦」とか「飛躍」とかもういいです。仕事を一生懸命やっている人なら、皆日々挑戦していることでしょう。それ以上肩に力を入れてどうする。飛躍は結果論でしかないのですから。
仕事は自然体が一番です。目標は決めないほうが良いし、抱負もいりません。目標を決めなければ落胆することもありません。着地したところがゴールなのですから。
ただ目の前に来た仕事に全力投球!それだけで十分だと思うのです。
さぁ、今年も楽しく充実した一年になりますように。
この服いいな、この靴いいなと思うと、たいがいそこには「Lady's」と書かれている。そこには私のサイズはない。とても残念だ。一方の「Men's」と書かれたものは、やたらとワイルドだったり無骨だったりして、全然かわいくない。これもいつも残念に思う。
私はなにもフリルの付いた服が欲しいわけではなく、ニュートラルなデザインのものが欲しいだけなのに。そういうカテゴリーの決めつけに遭遇すると、ついイラッとしてしまう。男は男らしく、女は女らしく、みたいな。
じゃあ男らしいって何だ。革ジャン着てトガッた靴を履いたら男らしいのか。それはある意味「男らしさ」のわかりやすい記号ではあるけれど、浅はかだし、そこに安易に乗っかるのはしゃくに障る。
かくして「男は男らしく」「女は女らしく」の無意識な決めつけや刷り込みが、社会に無意味な同調圧力を生んでゆく。
それは建築にも言える。
たとえば一般の人が口にする建築の評価に「格好いい」がある。
でも私は「格好いい建築」にはあまり興味がない。そもそも「格好いい建築」って何だ。光と影的な?コンクリート打放しとか。はたまた、スポーツカーが停まっていそうな空間?うす暗くて、イケメン俳優がワイン飲んでそうな空間とかだろうか。
それより私は「かわいい」といわれる方が嬉しい。「かわいい」には愛嬌や、ひらかれた価値観としての明るさや普遍性がある。人を寄せ付けないカリスマではなく、すべて受け容れてくれる懐の深さとか、お茶目さとか、そういうものがある空間っていいなと思う。
私は仕事においても、個人においても、いつもニュートラルでありたいと思う。あらゆる派閥やグループから距離を置きたい。団体に所属はしても、所属先のためにではなく共に活動する誰かのために汗をかきたい。どこまでも個人でありたい。
だから北欧が好きなのかもしれない。
私はなにもフリルの付いた服が欲しいわけではなく、ニュートラルなデザインのものが欲しいだけなのに。そういうカテゴリーの決めつけに遭遇すると、ついイラッとしてしまう。男は男らしく、女は女らしく、みたいな。
じゃあ男らしいって何だ。革ジャン着てトガッた靴を履いたら男らしいのか。それはある意味「男らしさ」のわかりやすい記号ではあるけれど、浅はかだし、そこに安易に乗っかるのはしゃくに障る。
かくして「男は男らしく」「女は女らしく」の無意識な決めつけや刷り込みが、社会に無意味な同調圧力を生んでゆく。
それは建築にも言える。
たとえば一般の人が口にする建築の評価に「格好いい」がある。
でも私は「格好いい建築」にはあまり興味がない。そもそも「格好いい建築」って何だ。光と影的な?コンクリート打放しとか。はたまた、スポーツカーが停まっていそうな空間?うす暗くて、イケメン俳優がワイン飲んでそうな空間とかだろうか。
それより私は「かわいい」といわれる方が嬉しい。「かわいい」には愛嬌や、ひらかれた価値観としての明るさや普遍性がある。人を寄せ付けないカリスマではなく、すべて受け容れてくれる懐の深さとか、お茶目さとか、そういうものがある空間っていいなと思う。
私は仕事においても、個人においても、いつもニュートラルでありたいと思う。あらゆる派閥やグループから距離を置きたい。団体に所属はしても、所属先のためにではなく共に活動する誰かのために汗をかきたい。どこまでも個人でありたい。
だから北欧が好きなのかもしれない。
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