
大学の前期2年生の住宅課題も無事終了。各課題が終わると、各班選出の学生が全体講評会に登壇します。学生にとって、この全体講評会に選ばれるというのは、実に栄誉あることなのです。
全体講評会は、発表する学生にとっても勝負の場ですが、学生達のわかりにくい説明(失礼!)をその場で聞いて、アドリブでコメントしないといけない講師陣にとっても真剣勝負の場となります。
学生が仕掛けてくるトラップの数々に我々は翻弄されます。
本当は主題はそこではないのに、あたかもそこにあるかのような説明をする学生。混乱した思考そのままに、これまでの試行錯誤の累積をすべて表現してくる学生。取捨選択ができない彼らはやっぱり論点がブレてしまいます。(結局やりたかったのは何?)
それを眉間に皺を寄せて、じぃっと読み込んでいくわけですね。
でもわからない。モヤモヤしてる。この案の要はいったいどこにあるんだろう?
ところがクリティックの口火を切る講師の切り口は実に鮮やかです。問題の所在をピンポイントで言い当て、あぁそこか!とか、うまいこと言うなぁ!と感心しながらついクリティックに聞き入ってしまいます。(聞き入ってる場合ではないのですが・・)
思うに、建築とはモヤモヤした抽象的な概念や問題点を、いかにシンプルな図式に置き換えるかということだと思うんですね。それが形なら建築ですが、言葉になれば批評となります。だから講評会の場というのは講師にとっても建築力を試される場なのです。
もっとも、アイコンタクトを交わしながらモヤモヤがスッキリに変わっているのは我々だけで、当の学生達にとっては依然として「何を言われているかサッパリわからない」という可能性も否めませんが・・。

中学生になった息子が好きなゲームを自分で作りたいと、プログラミング教室に通い始めて早3ヶ月。入門編のソフトであるスクラッチ(小学生向けの教育プログラム)には早々に退屈したのか、次に3Dで作れるユニティというソフトを使って玉転がしゲームを昨日までに完成させました。
これは球を壁にぶつけないように注意深くポイントをゲットしてゆくという単純なものなのですが、ちゃんと獲得ポイントも表示され、いろんな視点からフィールド全体を眺めることもできます。
私は門外漢なので、こういうものを作るのがどれだけ大変なのか、あるいは意外と簡単なのかはわからないのですが、自分で考えた世界観が、単純なものであっても目の前に実現できるということは素晴らしいことだと思っています。いつもは話しかけてこない息子が、自分から完成したゲームを披露してくれたので、きっと彼も達成感を感じたのでしょう。
早速彼は次のゲーム製作に取りかかりました。今度はまた別のソフトを使ったRPG(ロールプレイングゲーム)の製作です。昨日一晩で、上の画面のようなシークエンスを作り上げました。例によって、これだけ見ると私などは「お、すごい!」と思うわけですが、マインクラフト世代の彼らにしてみれば、このくらいは朝飯前なのかもしれません。
息子の通うプログラミング教室は本当に自由な教育方針で、カリキュラムに依らず、生徒の興味の赴くまま好き勝手にやらしてくれます。そういうところも、うちの子の気質に合っている気がします。
◇
ご存じかもしれませんが、2020年から小学校でもプログラミングが義務教育化される動きがあります。賛否両論あるようですが、私は賛成です。今や社会はプログラミング知識なしでは産業は成り立ちませんし、きっと英語や数学よりも役に立つ場面が出てくるはずです。
プログラミングというと、難しいコンピューター言語を操るオタクな世界のように思われがちですが、プログラミング知識のない私が言うのもなんですが、息子を見ているともっと日常的でドライな、会社員がSNSをやるのと同じくらいの世界のように思います。
そして思えば、建築やデザインという世界もまさしくプログラミングと同じ世界なのだと気づかされます。顧客(社会)が何を求めているかを考え、それに対していかにわかりやすく、直感的で使い勝手の良い提案をしてゆくか。予見される不具合(バグ)をどこまで織り込むか。それを図面や仕様書という形で構築してゆく。それが設計であり、デザインという世界の本質です。
そしてより美しく、より多くの人の共感を得られるものだけが社会に残ってゆく。これはもはや建築やデザインにとどまらず、社会の仕組みそのものだとも言えます。
今世界を席巻し、まもなく日本上陸を伝えられるスマホアプリ「ポケモンGO」の一連の報道などを見ると、これから社会の仕組みやあり方にまでインパクトを与えられるのは、こうしたゲームやアプリ分野をおいてないような気もしてしまいます。
私は建築をやっていなかったら何をやっていたかなと思うことがたまにありますが、写真やグラフィックデザインにも興味があるのですが、今の時代ならプログラミングも悪くないかもしれません。もっとも、私はゲームには全く興味はありませんが。
リオタデザインのクライアントには、なぜかSE(システムエンジニア)が多いという傾向があります。そしてその方達は、我々の仕事を自分たちの仕事ととてもよく似ていると口を揃えるのです。私が前述のようにプログラミングを捉えていることと、これは偶然ではないような気がします。
16. 06 / 13
き組ゼミにて
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sekimoto
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> 建築・デザイン
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昨日は「き組ゼミ」にて、講師として呼んで頂きました。
「き組」は金物を極力使わない、日本の伝統木造による家づくりを続けておられる建築技術者たちのグループで、主宰者の建築家・松井郁夫さんは、設計事務所運営の傍ら、そんな技術者達を育てる私塾を開いておられます。
ワークショプ「き」組 http://kigumi.jp/
リオタデザインの家づくりは、そんなき組とは少しアプローチが違うのですが、松井さんととあるきっかけで知り合い、昨年に引続き「き組ゼミ」にてデザイン講義をさせて頂くことになりました。
松井さんも伝統木造の第一人者なら、他の講師陣も日本を代表する建築家や技術者がずらりと揃っています。そんな中私が話をしても良いのか・・と去年はずいぶんとビビっていたのですが、受講生の熱心さに心打たれ、また松井さんの人柄と大らかさに惹かれ今年もお引き受けすることになりました。
といっても、私は伝統木造を語ることはできませんので、拙いながらもリオタデザインのいくつかの仕事や、私個人の建築バックグラウンド(フィンランドなど)についてお話させて頂きました。

この「き組ゼミ」には、本当に全国から受講生が集まってきます。コースがいろいろ分かれていて、各コース5回、約半年間の受講となるのですが、この日も岐阜からの参加者もいらっしゃいましたし、去年は金沢から通っていらした方もいました。
また設計事務所の主宰者という方もいますが、スタッフさんという立場の方や大手組織設計の方も。知識や技術を得るために、時間やお金を惜しまず参加する意気込みには本当に頭が下がります。(私は残念ながら、そこまで熱心な輩ではありません・・)
また松井郁夫さんは、今は息子さんである匠さんと一緒に事務所を協働されておられ、匠さんもき組で教える講師の一人なのですが、親子で心を一つにして仕事に打ち込まれている姿というのは、いつ見ても心が打たれます。ちょっと羨ましくもあります。
そして最後は受講生の皆さんとの懇親会。
なんと言っても、き組ゼミはこれが楽しいんですよね笑。お酒が入ってこの日も松井さんは絶好調!ちょっとアブない?事務所の内幕話などここでは書けないような話で盛りあがり、この日も夜が更けていったのでした。
松井さん、今年もお世話になりました。
是非またいろいろ教えてください!

16. 05 / 23
アトレウス家の新築
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sekimoto
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> 建築・デザイン
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先週末は大学の先輩であり、大学でもお世話になっている佐藤慎也先生の設計した住宅の見学会へと行って参りました。
慎也さんは学生時代からそうでしたが、型破りな先生で、大学でも研究テーマを”アート”に置いていることから、今回の見学会もいわゆる”オープンハウス”とはせずに、「アトレウス家の新築」というタイトルのアートイベントとして開催されていました。おそらく、案内を受け取った方の半数以上は意味が分からなかったと思います笑
[アトレウス家の新築]
http://thoa.gr/
建物としては文京区の下町に建つ木造3階建ての住宅で、今回は単なる見学会ではなく、製作のプロセスを映像化し、そこにモノローグを載せることで固有性の高い住宅を、一種のアノニマスな現象に置き換えてしまう(私の解釈が間違っていたらごめんなさい!)という映像作品が室内でも上映されていました。
実はこの住宅の計画の初期では、慎也さんの紹介で、私もこの建て主さんと面談をしていました。結局スケジュールその他で折り合いがつかず、結局慎也さんが共同設計者と共に設計を引き受けることになったようですが、このように「もしかしたら私が設計していたかもしれない住宅」を見に行くというのは、いつもとても興味深いものです。
細かい具体的なポイントは省きますが、この住宅の作り自体とても大らかで、ヒューマンスケールで作られていたことにとても好感を持ちました。また1階が特定の目的を持たない図書館のような公民館のような空間となっており、おそらくは生活に直接は直結しないであろうこの空間が、全体の1/3を占めているという構成にも驚かされました。
おそらくは、街とどのようにつながるかという点を突き詰めていった結果なのかもしれませんが、それを受け入れたクライアントの度量も賞賛に値するものがあると思います。
そこであらためて思ったのは、私の住宅の作り方は極めて職人的なのだなということです。全体の細かい整合性を突き詰めて行った先にリオタデザインの住宅はあるわけですが、ひとたび筆を置いて、このように都市的に、大らかに全体を構成していった先には、きっと豊かで大らかな生活があるのだろうなと思うと、とても魅力的であるように思います。
かといって我々の住宅ポリシーが変わることはないかもしれませんが、ただひとたび一部のディテールが崩れると全体系に影響を及ぼしてしまうような作り方ではなく、もう少し街やいろんなものを懐深く受け入れる住宅のあり方を考えていきたいなあと、この日は強く思ったのでした。
慎也さん、またクライアントのFさま、ご案内をありがとうございました!

今回ノルウェー行きの目的のひとつは、ノルウェーが生んだ巨匠建築家スヴェレ・フェーン(Sverre Fehn)の建築を見ることでした。オスロから日帰り圏内のハーマルには、フェーンの最高傑作と言われるヘドマルク博物館があります。
少ない滞在期間の1日をこの建築を見るために確保し、直前にサイトで詳細を調べてみると、どうやら3月は閉館しているらしい?ということがわかりました。このために来たのに・・と途方に暮れましたが、諦めきれずに駅のインフォメーションで聞いてみると「今も開いている」との答えが。
これは朗報!と予定通り、今日は片道1時間半の鉄道に揺られてハーマルまで足を延ばすことにしました。

ところがこのヘドマルク博物館、とんでもない場所にあるんですね。駅についても案内もなにもありません。バスの運転手さんに聞きまくって、ようやく辿り着きました。(めちゃくちゃ寒かったです!)
ところが・・。現地に着いてみると閑散としているんですね。たまたま通りかかった人に聞くと、今の時期はクローズだとの答えが。
え!?やっぱりそうなんだ。はるばるここまで来たのに・・。それでも諦めきれずに、建物の外をぐるぐる回っていると中に人の気配が。
どうやら博物館の学芸員はオフシーズンも仕事をしているようです。この学芸員の方に声をかけ、事情を話してお願いすると「しょうがないわね」という感じで、中に入れて頂くことができました。ほぼ貸し切り状態で、しかもつきっきりでガイドまでしてくれるという幸運!
これが日本ならあり得ないでしょうね。クローズの日にスタッフの独断で外国人を入れてしまうのですから。北欧の人はこういう融通の利かせ方が素晴らしいといつも思います。
余談ですが、昨日市内の美術館の受付でフリーチケットをなくしてしまい、ポケットを探って焦っていると、入場料も取らずに入れてくれたということもありました。北欧のこういう(良い意味で)ゆるいところが、私は大好きです。


ヘドマルク博物館は、二つの建築によって成り立っています。ひとつは800年前のカテドラルの遺構を、ガラスですっぽりと包み込んだシェルター(上の写真)。こちらの設計はフェーンではありません。
そしてもう一つが、司教の要塞跡を復元し、なおかつそこに現代建築を挿入して博物館として蘇らせたカテドラル博物館。こちらがフェーンの設計によるものです(トップの写真も)。




遺構と現代建築が見事に調和した佇まいに鳥肌が立ちました。単に遺跡を残すということではなく、それを手がかりにしてまったく新しい建築を作りだしているという点において、見たことのない空間でした。
フェーンは同じ北欧でも、アールトよりはイタリアのカルロ・スカルパのような空間に近いと感じました。それは今回の遺構がそのように見せているのか、本当はそうではないのか、他の建築も見て判断しないといけませんが、今回はフェーンの作る建築に触れる大変貴重な機会となりました。
これでオスロに思い残すことはなさそうです。
ちなみにこのように書くと、家族はどうしているのかと不思議に思われるかもしれません。
こうした建築を巡る旅は、我が家では普通のことなので文句を言われることはありません。息子もずっとカメラで写真を撮っていました。奥さんも建築を見るのが好きのようです。家族には感謝しないといけません。
