最近、若い頃のように雑誌などで建築をビジュアルとして熱心に眺めることがなくなった。あまり参考にならないことが分かってきたからかもしれない。

好きだし勉強にはなるけれど、参考にはならない。極論になってしまうけれど、鎖国政策が江戸文化を生み出したように、知識はある程度溜め込んだら閉鎖系にして熟成させた方が良いと思う。なぜなら、ほとんどの建築の問題は応用問題であり、公式を覚えるより解き方を覚えた方が遙かに効率が良いからだ。

ひとが導き出した答えは、その敷地、クライアントといった諸条件が絡み合って奇跡的に生み出されたものであって、その結果だけを拾って自分の設計に当てはめることなどできない。できそうで、できない。

だから部分部分を見るとため息が出たり、よく考えられているなぁと感心することはあっても、それらを集めてベストアルバムみたいなものを作ったらそれは最高傑作になるかと言ったら、そうではない。野球ですべて4番バッターを集めたら優勝できるかという問いに似ている。そこには広島カープのようなドラマは生まれない。

つまるところ、建築は完璧じゃない方が魅力的なんだと思う。手を抜いたり、失敗するという意味の「完璧じゃない」ではなく、「にんげんだもの」のほう。がんばりすぎないディテールは潔く美しい。でも一方では「やればできる」のがんばりが同じくらいあって欲しい。人が必死に努力を重ねる姿は尊く、そしてやはり美しい。

魅力ある建築というのは魅力ある人と同じなんだと思う。志は立派なんだけど、完璧じゃなくて、ちょっとだらしなくて、でもユーモアがあってきっちり約束は守るみたいな。

ここから先に進むには、もっと人間を磨かないといけないんだろうなと思います。