12. 04 / 11

佳境

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sekimoto

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> 思うこと


‎2ヶ月で5件の住宅プレゼン.昨日で5件めのプランがようやく定まった.怒涛の2ヶ月.しんどかったが,ようやくここまで来た.

昨日は大学で設計指導.彼らは1件の住宅課題を2ヶ月かけてまとめ上げる.考えてみたら贅沢な話だ.1週間経っても変わりばえのしない彼らの図面を見ていると,甘えているとしか思えないことがある.

プロと学生の違いがあるとしたら,それはスキルではなく本気度の違いだと思う.

12. 03 / 15

あたりまえ

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sekimoto

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> 仕事
> 思うこと


はじめてお付き合いする工務店さんに,毎回必ずと言っていいほど言われるのが,「図面をよく描かれていますね」ということだ.

うちは設計事務所だ.いわばプロの図面描きでもある.だからどこに出しても恥ずかしくない図面を描かなくてはいけない.だからスタッフにも僕は図面に関してはとにかくうるさいし,図面には確実に,施工に関わるすべての情報が網羅されていなくてはならないとも思う.

ところが機会があって他の事務所の図面を見たりすると,たまに愕然とすることがある.密度はスカスカだし,あちこち食い違っているところもあって,これを見て工事をする人達は大変だろうなと思わされることもある.

すべての線に責任を持つというのが我々の仕事だ.施工会社は図面通りに施工することに全力を尽くすとして,その礎となる図面は我々が描かなくては始まらないと思う.

我々が描いている図面は「あたりまえ」の図面だ.少なくとも我々はそう思っている.それがすごいと毎回言われることに,いつも違和感を覚える.

施工者にもたまにプロ意識の欠けた方にお会いすることもあるけれど,そういう時はかなり厳しい態度で我々も接することになる.我々は相手にも求めるものが大きい分だけ,こちらもそれなりの仕事をしなくてはいけない.少なくともそれを受け取る相手が,背筋がしゃきっと伸びる図面を描きたいと思う.

12. 03 / 07

カタチを与える

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sekimoto

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> 思うこと


昨日一件のプレゼンがあった.その方は我々以外にも,ハウスメーカーなどからも提案を受けていたのだけれど,最終的には我々のプランを気に入ってくださり,無事設計のご依頼を頂くことができた.そのお施主さんから昨晩頂いたメールの内容がとても嬉しく,感じるものがあったのでその一部を抜粋してご紹介させて頂く.

『事務所で図面を見せていただいたときに,こういう風に暮らしたかったんだと気づきました.漠然としたイメージだったものを導き出してもらったというか,解は私たちの中にあって,それにうまくカタチを与えてもらったという気がしています.
コンセプトを聞いたときに目からウロコが落ちた気がしました.なぜハウスメーカーと話しをしていて全く楽しくないのか,すとんと腑に落ちました』

お施主さんによると,ハウスメーカーの建築士さんには繰り返し「どういう間取りにしますか?」と聞かれたそうだ.お施主さんにしてみたら「それを考えてくれるんじゃないの?」ということになるだろう.

例えばここの仕上げはどうしますか?と聞かれて答えたら,その通りになってしまうのだろうか.どんなにヘンテコな内装になったとしても,それは「お施主さんのお望み通り」なのだろうか.それは断じて違うと思う.

多少高い(と思われている)ハードルを乗り越えて我々建築家にご依頼くださるお施主さんのゴールは,「美しく機能的な家に住む」だ.我々はそこに向かって仕事をしている.

だからお施主さんがその道を踏み外しそうになったら,迷わず我々は指摘をしなくてはならない.例えお施主さんの意向であろうとも,それが誤ったゴールに進みそうになっていると感じた時には絶対に首をタテには振ってはいけない.それは俗に言う「建築家は言うことを聞いてくれない」ということとは本質的に異なる話なのだ.

僕は常に「答えはお施主さんの中にある」と思っている.でもそれをどう表現すれば良いのか,どうすればそれができるのかわからないから我々に設計を依頼している.だから我々に求められるのは,実はカタチを作るという意味でのデザイン力ではなく,それをどう引き出すかという意味においてのコミュニケーション能力なのだ.これ以外の何物でもないとも思う.

それゆえに,このお施主さんの「解は私たちの中にあって,それにうまくカタチを与えてもらった」という表現が,我が意を得たりということで何より嬉しかった.建築はコミュニケーションであり,デザインもやはりコミュニケーションなのだ.

詰まるところ,いつも結論は一つなのだな.

12. 02 / 21

転ばぬ先の杖

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sekimoto

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> 仕事
> 思うこと


昨日建築専門誌の方が見えて,我々の現場監理における考え方について質問を受けた.これまで設計手法などについては聞かれることは多かったけれど,監理について聞かれたことはあまりなかったので,あらためてどういうことかと考えた.

現場監理というのは,設計者が設計通りに現場が施工されているかをチェック・確認するために行うものだ.一般の方には混同されやすいけれど,工務店の現場監督とは根本的に守備範囲や対象が異なる.いわば「監督の監督」的な役割を持つものでもある.

教科書通りに言えば,設計者は定期的に現場に足を運び,間違いや不具合を発見したり報告を受けたりして,正しい指示等を現場に与える人ということになる.
でもそれだけでは不十分だと思う.間違いが起こった時に元に戻せるならまだ良いけれど,中には元には戻せない場合や,修正することによってより怪我を広げてしまうようなケースも発生するからだ.

現場監理において最も大切なことは,そもそも間違いが起こらないようにすることだ.
「転ばぬ先の杖をつく人」それが本来の監理者の姿であって,もちろん結果的に不具合は指摘するけれど,けして現場のあら探しが第一義に立つものではないというのが我々の考えだ.

そのためにはしっかりと図面を描くこと.これしかない.それを作る人の身になって,親切に,とにかく細かく,具体的に作図する.スペックや寸法は漏れなく記載する.材料取りをイメージする.設備配管ルートを確保する.

図面を描きながら,現場で起こるあらゆる勘違いや発注ミス,見落としを想定に入れる.監督や職人によっては確認をしないまま自分の判断で施工をしてしまう人も多い.結局はそれを後で叱ってみても覆水は盆に還らないのだ.

すべては間違いが起こる前に,我々の配慮によってそれらを防いでゆくしかない.それをせずして現場で気まぐれな変更を繰り返したり,高圧的な態度を取る人も多いと聞く.結局そういう人は現場での信頼を勝ち取ることはできないだろう.

それでも間違いは起こる.でもその最後にすくい取れなかった一粒を拾う作業と,最初からこぼれるに任せてあとで回収するというのでは,根本的に仕事の取り組み方は異なる.

親が我が子を送り出す時は,交通事故に遭わぬよう,人にさらわれることのないよう,また人前に出ても恥をかくことのないよう躾を行うものだ.
現場監理も全く同じで,施主に引渡しても,街の中に建っていても恥ずかしくない,まっとうな建築になってもらいたい一心で,我々は設計・監理を行なっている.やはり,すべての基本はコミュニケーションだと思う.
ここ数年,大学1年生後期の課題として『シェアハウス』というものに取り組んでいる.シェアハウスというのは,従来の集合住宅のようにひとつの部屋にすべてが装備されているのではなく,寝る時以外はキッチンや水回り,ダイニングや玄関などを共有し,空間をみんなで”シェア”する住宅のことだ.これが首都圏を中心に,若者の間で人気が高くなってきているという.

そう聞くと,我々は思わず昔ながらの”学生寮”を想像してしまうのだけれど,現代のシェアハウスは感覚が全く異なる.単にお金がないということではなく,また団体が結束を高めるために合宿生活を行っているというのとも違う.自立した普通の学生や社会人などが,自ら好んでシェアハウスに入居しているのだ.

正直,個人的にはそういう居住形態は気疲れしてしまいそうだけれど,最近の学生の傾向や社会の動きを見ていると,むしろ今後主流になっていくのかもしれないとも思ってしまう.それはシェアする感覚,共有感覚が昔とは異なってきているのを感じるからだ.

それが端的に現れているのは,Facebookやツイッターといったソーシャルメディア(SNS)の発達と爆発的な拡がりかもしれない.

今や,少なくとも自分の身の回りではアクティブか否かは別として,これらを全く使っていないという人はむしろ少数派になりつつある.こと学生に至っては,皆お互いがお互いをフォローし合って,24時間常に情報が飛び交っている.その緻密な情報網と使いこなし方を見ていると,彼らにとってプライバシーという概念はもはや時代遅れなのかもしれないとも思ってしまう.

これまでインターネットは,個人でホームページを作る時代からはじまって,掲示板,ブログへとその使われ方も変化してきた.それを管理する人がいて,固有のアドレスもある.ここまでは僕は”所有”感覚だと思う.

でもSNSはこれらとは全く概念が異なる.そこに書かれていることはブログと同じでも,そこに投稿された時点でそれはすでに”共有”感覚に足を踏み入れている.

そこにはヒエラルキーがなく,お気に入りのサイトを順番にネットサーフィンする感覚ではもはやない.そこに訪れるのではなく,皆が常にそこにいる.呑み会の席で語られる個人的な話題と,その話題に隣の席からいつでも入っていけるような居酒屋感覚.それがSNSであり,それを居住に置き換えると「シェアハウス」になるのではないかと思う.

ネットのこうしたやりとりやシェアハウスのような共同生活は危険だという人もいる.けれども過剰なプロテクトはその網をかいくぐろうとする人達を生む.でもすべてを白日に晒してしまうと,むしろそこには秩序や良識が生まれる.きっと人は壁をめぐらして孤立するよりも,社会的なつながりの中でゆるく守られていたい生き物なのだろう.そしてそれは思いのほか健全なコミュニケーションのあり方なのかもしれない.

シェア感覚というのは,もともと村社会からはじまった日本的な感覚だとも言える.シェアハウスに限らず,今後個人住宅を考えてゆく上でも,この感覚は大きなキーワードになるのではないかと思う.