大学の講師室には最新の建築雑誌が平積みされていて,授業前にペラペラとナナメ読みする.ささやかながら,貴重な情報収集の時間でもある.
しかし国内外で高い評価を集める著名建築家の作品を眺めていると,対岸の火事というか,とても同じ建築設計という職業を生業としているとは思えないほど,異次元の作品もたびたびある.僕に言わせると「宇宙人」の所行である.
中には学生がスチレンボードで作った模型がそのまま建ってしまったようなものまで.学生にはリアリティがないから,薄いボードを組み合わせていとも簡単に軽くて透明な浮遊空間を作り出す.我々はそれを賞賛しながらも,一方では覚めた目で「現実には無理だけどね」と言っていたものが,今やリアルにできるようになってきている.
それをイノベーションと呼ぶ人もいるだろう.断熱塗料やLow-Eガラスの普及などによって,本来必要な配慮をしなくても手軽にその建物の性能を担保することも可能になってきた.それを技術革新と位置づけ,デザイン実現への助けとするのも時代を生きる建築家のスタンスかもしれない.
けれども僕はそこに大きな危険性を感じる.物には道理がある.技術の力で道理を無理矢理押さえ込むことで,一方で破綻する現象が起こることはないだろうか.
アルヴァ・アールトは建築にけして新しい素材を使わなかった.少なくとも30年以上市場にあるものだけを使い,古来より使われてきた建築技法を少しだけ応用して,現代に普遍的価値を持つ新しい建築を作ろうとしてきた.
ここ数年の建築技術や素材の革新は,もしかしたら向こう数年で市場から姿を消すものかもしれない.最新の建築デザインは十年後には「なつかしい」と言われているかもしれない.一方で人間が営んできた基本的な生活行為は,数百年,数千年前から基本的にあまり変わっていない.人間の体のつくりもまた数万年の単位でその変化はわずかでしかない.我々はこの時間軸の違いに,もっと正面から向き合うべきではないか.
建築には普遍的な価値が必要だと思う.たとえそれが退屈だと批判されようとも.
その上で「対岸の火事」を野次馬として,ひとりの建築好きとして,楽しく見物するとしよう.
しかし国内外で高い評価を集める著名建築家の作品を眺めていると,対岸の火事というか,とても同じ建築設計という職業を生業としているとは思えないほど,異次元の作品もたびたびある.僕に言わせると「宇宙人」の所行である.
中には学生がスチレンボードで作った模型がそのまま建ってしまったようなものまで.学生にはリアリティがないから,薄いボードを組み合わせていとも簡単に軽くて透明な浮遊空間を作り出す.我々はそれを賞賛しながらも,一方では覚めた目で「現実には無理だけどね」と言っていたものが,今やリアルにできるようになってきている.
それをイノベーションと呼ぶ人もいるだろう.断熱塗料やLow-Eガラスの普及などによって,本来必要な配慮をしなくても手軽にその建物の性能を担保することも可能になってきた.それを技術革新と位置づけ,デザイン実現への助けとするのも時代を生きる建築家のスタンスかもしれない.
けれども僕はそこに大きな危険性を感じる.物には道理がある.技術の力で道理を無理矢理押さえ込むことで,一方で破綻する現象が起こることはないだろうか.
アルヴァ・アールトは建築にけして新しい素材を使わなかった.少なくとも30年以上市場にあるものだけを使い,古来より使われてきた建築技法を少しだけ応用して,現代に普遍的価値を持つ新しい建築を作ろうとしてきた.
ここ数年の建築技術や素材の革新は,もしかしたら向こう数年で市場から姿を消すものかもしれない.最新の建築デザインは十年後には「なつかしい」と言われているかもしれない.一方で人間が営んできた基本的な生活行為は,数百年,数千年前から基本的にあまり変わっていない.人間の体のつくりもまた数万年の単位でその変化はわずかでしかない.我々はこの時間軸の違いに,もっと正面から向き合うべきではないか.
建築には普遍的な価値が必要だと思う.たとえそれが退屈だと批判されようとも.
その上で「対岸の火事」を野次馬として,ひとりの建築好きとして,楽しく見物するとしよう.
ある人と会ったり集団の中にいると,自分でもびっくりするくらい饒舌になって話が止まらなくなることがある.一方で,ある人や集団の中にいるとちょっとした話をするにも口が重くなり,会話もはずまず貝のようになってしまうこともある.
自分では前者の自分が好きだ.後者の場合は場違いな空気に思わず逃げ出したくなる.
人との相性というのは常に相対的なもので,ある人にとっては最高の相性であっても,ある人にとっては苦手になりうる.その人が持つ本質は変わらないというのに,交わる人や環境によってその人自身の印象も変わってくるし,萎縮したりのびのび行動できたり,結果もそれによって変わってくるというのは実に不思議なものだ.
僕の場合,物心ついた時から人見知りだった自分を少しずつ克服してきた.それでも不特定多数の人が集まる場というのは,今でも苦手で尻込みしてしまう.
でも一旦会場に飛び込めば,えいやっと気合いを入れていろんな人に話しかけるし,名刺交換をしてその場限りの会話を楽しむこともできる.それでも最後は疲れ果ててしまって,二次会のお誘いはたいてい断り家路につくことになる.
一方ではある人と呑んでいると時間が経つのを忘れてしまい,つい根っこが生えて気がつくともう終電ということもよくある.
人には波長があって,結局波長の合う者同士がくっつくようにできている.
同じ時間を過ごすなら,また同じ仕事をして生きていくなら,一人でも多くの波長の合う人に出会いたいし,そういう人との交わりにより多くの時間を費やしたいと思う.
その人の持つ本質は変わらないのではなく,もしかしたらヒトxヒトの組み合わせによって変わってゆくものなのかもしれない.
自分では前者の自分が好きだ.後者の場合は場違いな空気に思わず逃げ出したくなる.
人との相性というのは常に相対的なもので,ある人にとっては最高の相性であっても,ある人にとっては苦手になりうる.その人が持つ本質は変わらないというのに,交わる人や環境によってその人自身の印象も変わってくるし,萎縮したりのびのび行動できたり,結果もそれによって変わってくるというのは実に不思議なものだ.
僕の場合,物心ついた時から人見知りだった自分を少しずつ克服してきた.それでも不特定多数の人が集まる場というのは,今でも苦手で尻込みしてしまう.
でも一旦会場に飛び込めば,えいやっと気合いを入れていろんな人に話しかけるし,名刺交換をしてその場限りの会話を楽しむこともできる.それでも最後は疲れ果ててしまって,二次会のお誘いはたいてい断り家路につくことになる.
一方ではある人と呑んでいると時間が経つのを忘れてしまい,つい根っこが生えて気がつくともう終電ということもよくある.
人には波長があって,結局波長の合う者同士がくっつくようにできている.
同じ時間を過ごすなら,また同じ仕事をして生きていくなら,一人でも多くの波長の合う人に出会いたいし,そういう人との交わりにより多くの時間を費やしたいと思う.
その人の持つ本質は変わらないのではなく,もしかしたらヒトxヒトの組み合わせによって変わってゆくものなのかもしれない.
なにかにカバーを付けるという行為があまり好きでない.
我々はなにかと色んなものにカバーをつけたがる.ところがモノにカバーをつけた瞬間,モノから確実に損なわれるものがあるような気がしてならない.なぜならデザイナーはそこにカバーがかけられることを想定していないからだ.
モノにカバーをかける,の典型的な例は携帯電話だ.とくにスマートフォンを持ち歩く人のほとんどは,各々のカバーをつけているのではないかと思う.理由は単純で傷つけたくないからだと思うけれど,それは間違った保護のベクトルだといつも思う.傷つく=モノの価値を損なう,だとすると,カバーを付けた時点で傷がつく以上に大きなダメージをモノに与えてしまっているからだ.
きっとデザイナーはその実機サンプルをいくつも作り,ためつすがめつ眺めてはその手触り,機能性と連動したフォルムを納得のいくまで詰めていることと思う.コンマ何ミリという単位にこだわって,いかに薄く,小さく,軽いモデルを作ろうと日々徹夜の日々を送っていることだろう.それがプラスチックの無粋なカバーを付けられた瞬間に台無しである.
僕はiPhoneを使っているのだけれど,同様にiPhoneを使っている人は是非思い切ってそのカバーを外してもらいたい.その裸の状態で使う美しさに是非触れてもらいたいと思う.
ただこのiPhone,薄い割には意外にずしりと重量があって,ポケットから取り出す時に思わず手からすべり落ちそうになるのだ.カバーを付けていないだけに毎回ひやひやする.できればストラップを付けたいのだけれど,iPhoneにはストラップを付けるところがないのである.
きっとこれは製作開発者,あるいはスティーブ・ジョブズ氏の「そんなのいらない」の一言でそうなっているような気もするけれど,美しさと同時に実用性も求めたい自分としてはそこが唯一の不満点でもある.
そこで,ここまで書いてきてなんなのですが,ひとつだけ僕はモノの価値を決定的に損ねるようなことをしてしまいました.天国のジョブズさん,ごめんなさい!
我々はなにかと色んなものにカバーをつけたがる.ところがモノにカバーをつけた瞬間,モノから確実に損なわれるものがあるような気がしてならない.なぜならデザイナーはそこにカバーがかけられることを想定していないからだ.
モノにカバーをかける,の典型的な例は携帯電話だ.とくにスマートフォンを持ち歩く人のほとんどは,各々のカバーをつけているのではないかと思う.理由は単純で傷つけたくないからだと思うけれど,それは間違った保護のベクトルだといつも思う.傷つく=モノの価値を損なう,だとすると,カバーを付けた時点で傷がつく以上に大きなダメージをモノに与えてしまっているからだ.
きっとデザイナーはその実機サンプルをいくつも作り,ためつすがめつ眺めてはその手触り,機能性と連動したフォルムを納得のいくまで詰めていることと思う.コンマ何ミリという単位にこだわって,いかに薄く,小さく,軽いモデルを作ろうと日々徹夜の日々を送っていることだろう.それがプラスチックの無粋なカバーを付けられた瞬間に台無しである.
僕はiPhoneを使っているのだけれど,同様にiPhoneを使っている人は是非思い切ってそのカバーを外してもらいたい.その裸の状態で使う美しさに是非触れてもらいたいと思う.
ただこのiPhone,薄い割には意外にずしりと重量があって,ポケットから取り出す時に思わず手からすべり落ちそうになるのだ.カバーを付けていないだけに毎回ひやひやする.できればストラップを付けたいのだけれど,iPhoneにはストラップを付けるところがないのである.
きっとこれは製作開発者,あるいはスティーブ・ジョブズ氏の「そんなのいらない」の一言でそうなっているような気もするけれど,美しさと同時に実用性も求めたい自分としてはそこが唯一の不満点でもある.
そこで,ここまで書いてきてなんなのですが,ひとつだけ僕はモノの価値を決定的に損ねるようなことをしてしまいました.天国のジョブズさん,ごめんなさい!


昨年末竣工したFILTER/U邸の取材があり,約半年ぶりにお邪魔してきました.
建物に近づいていくと駐車場の前に一枚の立て看板.ん,カフェ?
よく見たら住宅で余った棚板.そこにはお子さんの絵でかわいらしい絵が描かれていました.「パンのおみせ」…ハテ.
聞くとUさんがプロデュースして,ご友人の焼いたパンや食材などを住宅の軒先で売ることにしたのだそう.この日はたまたま取材日と重なってしまったようです.
この住宅,FILTERというコンセプトを設けたのも,まわりの雑然とした風景や街並みへの開き方や閉じ方が重要な意味を持っていたためで,そのくらいこのUさん方のおしゃれで洗練されたライフスタイルは,この地域になじむのか当初不安だったところもありました.
でも結局Uさんはその安全に巡らされた殻の中に閉じこもることなく,フィルターの目に自ら風穴をあけて地域へと飛び出していったようです.住宅の軒先にいきなりオープンした「パンやさん」.ところがこれが近所の方に大変好評で,不定期に開催されるこのお店にどこからともなく人が集まり,あっという間に売り切れてしまうのでした.
何かをはじめるのに期を熟すのを待ってはいられない.体裁は気にせずどんどん前に進むべき!これは僕の人生のモットーでもあり,Uさんともそんな話で盛り上がりました.
お店がなかったらお店はできない?
資格がなかったら独立はできない?
いやそんなことは全然ありません.すべては本人のやる気次第!どんどん体当たりしていくしかないのです.そうすれば自ずと道は開ける.僕もそうやってフィンランドに渡りました.そんなエネルギッシュなUさんに,この日もパワーをもらって帰ったのでした.
あ,僕も買い占めて帰ったパン,とってもおいしかったですよ!!
次回の開催も楽しみです.


あるコラムに「生意気には賞味期限がある」というようなことが書かれていた.
私も若い頃は生意気だった.生意気に見えないように気をつけていたけれど,やっぱり生意気だったと思う.
学生の頃,JIA(日本建築家協会)の学生賞をもらったことがあり,関係者に飲みに連れて行ってもらったことがあった.その席で「君は歴史についてどう思うか?」と訊かれて,「歴史には興味が無い.大切なのは未来だと思う」というようなことを発言した記憶がある.今思えば冷や汗ものである.
けれどもその席では,説教をされるどころか皆笑いながら「おもしろい」と言ってくれた.当時は根拠もなく自分に自信があったし,そんな具合に生意気を言っても,それを受け止めてくれる大人が周りにいた.
それが今では周りはだんだん年下が多くなり,生意気を言われて,それを受け止める立場になってしまった.スタッフや学生にも,良かれと思っての意見やアドバイスが,ついつい説教や余計なお世話になってしまうこともあって,実際かなり気を遣う.
また私の立場で本音を言ってしまうと非常に重い意味を持ってしまうので,関係者に対しての発言にも慎重に言葉を選ぶようになった.そういう意味では,奔放な発言をくり返していたあの頃とは大違い.まさに私の生意気の賞味期限はとっくに過ぎているのかもしれない.
ただ一方で,私が所属する団体の中にはまだまだ私より重鎮の先輩方が多数を占めているところもあり,そういうところでは私も無礼を承知でたまに”生意気”なことを言わせてもらったりもする.そこでは私よりもずっと大人な先輩方がやさしくフォローし,やんわりと諫めて下さる.ありがたいことである.
私も若い頃は生意気だった.生意気に見えないように気をつけていたけれど,やっぱり生意気だったと思う.
学生の頃,JIA(日本建築家協会)の学生賞をもらったことがあり,関係者に飲みに連れて行ってもらったことがあった.その席で「君は歴史についてどう思うか?」と訊かれて,「歴史には興味が無い.大切なのは未来だと思う」というようなことを発言した記憶がある.今思えば冷や汗ものである.
けれどもその席では,説教をされるどころか皆笑いながら「おもしろい」と言ってくれた.当時は根拠もなく自分に自信があったし,そんな具合に生意気を言っても,それを受け止めてくれる大人が周りにいた.
それが今では周りはだんだん年下が多くなり,生意気を言われて,それを受け止める立場になってしまった.スタッフや学生にも,良かれと思っての意見やアドバイスが,ついつい説教や余計なお世話になってしまうこともあって,実際かなり気を遣う.
また私の立場で本音を言ってしまうと非常に重い意味を持ってしまうので,関係者に対しての発言にも慎重に言葉を選ぶようになった.そういう意味では,奔放な発言をくり返していたあの頃とは大違い.まさに私の生意気の賞味期限はとっくに過ぎているのかもしれない.
ただ一方で,私が所属する団体の中にはまだまだ私より重鎮の先輩方が多数を占めているところもあり,そういうところでは私も無礼を承知でたまに”生意気”なことを言わせてもらったりもする.そこでは私よりもずっと大人な先輩方がやさしくフォローし,やんわりと諫めて下さる.ありがたいことである.
