あーあと心の中でつぶやく。
僕はいつも投げなくてもよい石を放ってしまう。なんでも曖昧にするのがいやで、ついつい白黒をつけたくなってしまう。けれども世の中は、だいたい白黒つけられないことがほとんどで、あるいはつけるのを放棄して皆平和に暮らしている。もしかしたら皆鈍いのかなと思うこともあるし、大人なのかなと思うこともある。
石を投げればその波をかぶることは目に見えている。
やめておけばいいのに、でも僕は投げずにはいられない。
けれども一時的に高まる波をかぶることさえ覚悟すれば、ふたたび波が静まるころには前よりも状況は良くなっている(と信じたい.幻想だろうか)。言わなくても察してもらえることもあるけれど、やっぱり言わないとわかってもらえないことも多いものだ。
そして石を投げてから、あーあとまた心の中でつぶやく。
投げなくてもいい石をまた放ってしまったという気持ちになる。
今抱えている別の問題についても、掴みかけた石を放るのか、放すのか、その判断が頭の中をぐるぐると駆けめぐっている。多くの場合、掴んだ石は放すのが賢明だ。けれども僕は結局放ってしまうような気がする。そしてそのことと、そのあとにやってくるであろう高波を想像して今からうんざりするのだ。
僕はいつも投げなくてもよい石を放ってしまう。なんでも曖昧にするのがいやで、ついつい白黒をつけたくなってしまう。けれども世の中は、だいたい白黒つけられないことがほとんどで、あるいはつけるのを放棄して皆平和に暮らしている。もしかしたら皆鈍いのかなと思うこともあるし、大人なのかなと思うこともある。
石を投げればその波をかぶることは目に見えている。
やめておけばいいのに、でも僕は投げずにはいられない。
けれども一時的に高まる波をかぶることさえ覚悟すれば、ふたたび波が静まるころには前よりも状況は良くなっている(と信じたい.幻想だろうか)。言わなくても察してもらえることもあるけれど、やっぱり言わないとわかってもらえないことも多いものだ。
そして石を投げてから、あーあとまた心の中でつぶやく。
投げなくてもいい石をまた放ってしまったという気持ちになる。
今抱えている別の問題についても、掴みかけた石を放るのか、放すのか、その判断が頭の中をぐるぐると駆けめぐっている。多くの場合、掴んだ石は放すのが賢明だ。けれども僕は結局放ってしまうような気がする。そしてそのことと、そのあとにやってくるであろう高波を想像して今からうんざりするのだ。
私もスタッフも,人と会うと必ず「お忙しいんでしょう?」と言われる.
うちの事務所はどうにも”忙しい”事務所だと思われがちだ.
まぁ当たらずしも遠からず,現在の状況に限って言えばけしてヒマではないと思うけれど,本当にヒマになってしまうことも珍しくないわけで(その時の落ち込み具合はハンパないが),仮にプロジェクトが続いていても本人達はさほど忙しいとは思っていないので,そう言われることにはいつも違和感を覚える.
そもそも頂いた仕事はなんでもこなすのが基本なのだろうが,クライアントに迷惑をかけたくないのと,仕事のクオリティを維持したいこともあり,基本自分たちのキャパシティを越える仕事はしないようにしている.仕事がかち合っているときはこちらのスケジュールをすべて正直にお話しした上で,お待ち頂けるかどうかをご判断頂く.
でもここからが難しいところなのだけれど,頂いているご相談も必ずしも全て決まるとは限らない.これまでも堅いと思っていた案件があっけなく流れたり,そんな立ち直れなくなる経験も山ほどしてきているので,ちょっとばかり仕事が増えたといってもけして手放しで喜ぶ気にはなれないのである.
だからいつも崖っぷち.安定とか軌道に乗るとかいう状態とはほど遠い綱渡りの日々である.結局この仕事は一期一会.今向き合っている仕事に全力を尽くす,それしかないのだろうと思う.
だから忙しかろうが,ヒマだろうが,仕事に向き合っているその瞬間に限って言えば,常に「いつも通り」と言えるのかもしれない.
うちの事務所はどうにも”忙しい”事務所だと思われがちだ.
まぁ当たらずしも遠からず,現在の状況に限って言えばけしてヒマではないと思うけれど,本当にヒマになってしまうことも珍しくないわけで(その時の落ち込み具合はハンパないが),仮にプロジェクトが続いていても本人達はさほど忙しいとは思っていないので,そう言われることにはいつも違和感を覚える.
そもそも頂いた仕事はなんでもこなすのが基本なのだろうが,クライアントに迷惑をかけたくないのと,仕事のクオリティを維持したいこともあり,基本自分たちのキャパシティを越える仕事はしないようにしている.仕事がかち合っているときはこちらのスケジュールをすべて正直にお話しした上で,お待ち頂けるかどうかをご判断頂く.
でもここからが難しいところなのだけれど,頂いているご相談も必ずしも全て決まるとは限らない.これまでも堅いと思っていた案件があっけなく流れたり,そんな立ち直れなくなる経験も山ほどしてきているので,ちょっとばかり仕事が増えたといってもけして手放しで喜ぶ気にはなれないのである.
だからいつも崖っぷち.安定とか軌道に乗るとかいう状態とはほど遠い綱渡りの日々である.結局この仕事は一期一会.今向き合っている仕事に全力を尽くす,それしかないのだろうと思う.
だから忙しかろうが,ヒマだろうが,仕事に向き合っているその瞬間に限って言えば,常に「いつも通り」と言えるのかもしれない.

休日時間ができると,よく子どもを連れて川に行く.釣りをすることもあるけれど,多くは子どもを適当に遊ばせて,僕は岸辺からぼーっとそれを眺めていることが多い.
海のない埼玉県で生まれ育ったこともあるけれど,僕は海よりも川の方が好きだ.
家から近いこともあるけれど,アメリカ大陸まで繋がっているような遠大なスケールの海よりも,手をのばせば届くその安心感と,寄せては返す波のリズムよりは絶えず流れてゆく川のせせらぎが耳に優しく心地よい.
川を眺めていると心が癒される.よく相手を許すことを”水に流す”というけれど,水を眺めているといろんなことに対して大らかな気持ちになれる.子どもと一緒になって川遊びをするのも嫌いじゃないけれど,僕はやはりぼーっと川を眺めているときが一番好きだ.
川に行くと子どもは基本的にほったらかしである.一応視界の先で捉えているけれど,少しばかり危ないことをしていても何も言わない.子どもには一応ライフジャケットを着用させているし,子どもの頃は僕も川で危険な遊びもした.我が子にも,せいぜい死なない程度に怪我をさせて怖い思いをさせてやれればとも思う.
僕の好きな映画に「A River Runs Through It (1992) 」というのがある.
モンタナ州の川が舞台となっていて(主演ブラッドピット),僕はもう5回以上も観ているのだけれど,その圧倒的な映像美には毎回泣ける.美しさに泣ける映画というのは僕はこの映画のほかに知らない.
" I'm hunted by water.(私は川のとりこだ)"というモノローグが胸にぐっと迫る.
そして僕も,川は人生そのもの(through it)だといつも思うのだ.

今日大学で指導していた学生から「普通のことをやったんじゃだめなんですよね」と訊かれた.もちろんそんなことはないのだけれど,言わんとしていることはよく分かる.
大学教育はある意味残酷だと思う.いわゆる普通の作品では目立たないのだ.ある意味奇をてらった,”狙った”作品が衆目を集めるし,我々もどうしてもそういう作品を選んでしまう.だから学生もそういうものを作らなくてはいけないのだと思いこんでしまう.
でも実際には当たり前のことをちゃんと設計できなくてはいけないのだ.社会に出たら絶対的にそうだ.自分の作品性を優先させるがあまり,クライアントを犠牲にするような話もよく耳にする.とんでもない話だと思う.
賢明な学生は,社会に出たら洗礼を受けて”まとも”の意味を知ることになるだろう.
大学と社会の間に存在するダブルスタンダード.僕も学生のうちは夢のある設計をしてもらいたいと思う.あまり現実的なことを考えないで,多少かっとんでいるくらいでちょうど良いとも思う.
ただ一方で,それが出来る学生と出来ない学生で温度差が生じていることも確かだ.
かたや普通でも良いのだと言いながらも,頭一つ出た”普通でない”作品を最終的には選ぶことになるだろう.教育は横並びではありえないのだから,それもアリだと思いつつも悩ましい問題だ.
それは学生だけの問題ではない.プロである我々であっても建築雑誌を賑わす前衛的な作品には刺激を受けるし,時にそうした思い切った表現や手法を取り入れたいと思うこともある.悪いことではないと思う.ただそれを単なるファッションやエゴとして使うなら手痛いしっぺ返しを食うことになるだろう.
つまるところ,我々はプロとしてクライアントの期待に応える必要がある.機能や居住性はクリアしたうえで,同時に高いデザイン性も備えていなければならない.
それを踏まえた上で誤解を恐れずに言えば,僕は建築は”普通”で良いと思う.
高いレベルのあたりまえを積み重ねていった先に,あたりまえでないものが出来上がる.そう思う.逆にいえば,世の中のほとんどの建築はあたりまえのことすらできていないのかもしれない.
普通のことができなかったら,それ以上の事はできない.そう思うのだ.
大学教育はある意味残酷だと思う.いわゆる普通の作品では目立たないのだ.ある意味奇をてらった,”狙った”作品が衆目を集めるし,我々もどうしてもそういう作品を選んでしまう.だから学生もそういうものを作らなくてはいけないのだと思いこんでしまう.
でも実際には当たり前のことをちゃんと設計できなくてはいけないのだ.社会に出たら絶対的にそうだ.自分の作品性を優先させるがあまり,クライアントを犠牲にするような話もよく耳にする.とんでもない話だと思う.
賢明な学生は,社会に出たら洗礼を受けて”まとも”の意味を知ることになるだろう.
大学と社会の間に存在するダブルスタンダード.僕も学生のうちは夢のある設計をしてもらいたいと思う.あまり現実的なことを考えないで,多少かっとんでいるくらいでちょうど良いとも思う.
ただ一方で,それが出来る学生と出来ない学生で温度差が生じていることも確かだ.
かたや普通でも良いのだと言いながらも,頭一つ出た”普通でない”作品を最終的には選ぶことになるだろう.教育は横並びではありえないのだから,それもアリだと思いつつも悩ましい問題だ.
それは学生だけの問題ではない.プロである我々であっても建築雑誌を賑わす前衛的な作品には刺激を受けるし,時にそうした思い切った表現や手法を取り入れたいと思うこともある.悪いことではないと思う.ただそれを単なるファッションやエゴとして使うなら手痛いしっぺ返しを食うことになるだろう.
つまるところ,我々はプロとしてクライアントの期待に応える必要がある.機能や居住性はクリアしたうえで,同時に高いデザイン性も備えていなければならない.
それを踏まえた上で誤解を恐れずに言えば,僕は建築は”普通”で良いと思う.
高いレベルのあたりまえを積み重ねていった先に,あたりまえでないものが出来上がる.そう思う.逆にいえば,世の中のほとんどの建築はあたりまえのことすらできていないのかもしれない.
普通のことができなかったら,それ以上の事はできない.そう思うのだ.

私は”エコ”という言葉があまり好きではありません.
我々が”エコ”という言葉を発するときは,「はいはい,こういうのを世間的にはエコって言うんだよね」的な,ちょっと醒めた目線からの言葉になっているような気もします.
世間ではとにかく”エコ”とつければ許されるみたいな風潮があります.買った商品などにも,これみよがしにエコマークがついていると企業の免罪符にしか見えないこともあり,本当にそう思っているの?と複雑な思いがします.
またエコ運動を推進している人の中には融通が利かない,自分が絶対に正しいという視点があって傲慢な印象を受けることもあります.言っていることは正しいけど従いたくないみたいな,それでは私は逆効果のような気がします.
私は原発には反対ですが,でも現状を考慮に入れないで今すぐ全部止めろみたいなことにはあまり賛成できません.その前提として,原発がなくても十分にやっていける社会の枠組みづくりをすることが重要だと思うからです.
建築でもエコ建築を推進する立場の方は,何が何でもエコが優先みたいに言う人がいます.この人の前では間違っても「エアコン」なんて言えないみたいな.
ソーラー発電は良いけどいくらかかるんですか?という問題や,高性能の断熱や,ガラスや,国産材の問題ももちろん大事だけど,なんでも徹底されていないといけないみたいに言う人には違和感を覚えます.少しずつできることからやるしかないと思うからです.
先のオゾンのコンペでも,私は自然エネルギーを使った自立循環型住宅の提案を行いました.でもそこには目くじらを立てて,”高気密高断熱”と叫んでいる人たちに向けてのささやかな反発も込めていました.住宅の高気密化,高断熱化は前提とした上で,それでも僕は日本の家は夏を旨としてもっと開いてゆくべきだし,暖かくて夏も涼しくて,ローコストで,かつ光熱費もかからない家をつくりたいと思うのです.(実践レベルではまだ課題も山積みですが)
昨日は自立循環型住宅の設計講習会に行ってきました.
写真はそのテキストなのですが,講習会に出席した動機の一つはこのテキストを入手したかったことがありました.この本は300Pくらいあるのですが本当に貴重なテキストで,話によると国が200人の学者を動員し,4年の歳月をかけて完成させたものだとか.
残念ながらこれは書店では手に入りません.このウン万円の,年に数回しか行われない講習会に出ないともらえないのです.そんなことで広まるのかという疑問もなきにしもあらずですが,ただ昨日は講習会自体も大変有意義な講習で勉強になりました.
