13. 07 / 25
にんげんだもの
author
sekimoto
category
> 思うこと
Warning: Undefined array key 1 in /home/riotadesign/riotadesign.com/public_html/wp-content/themes/rd/blog/cat_sekimoto.html on line 48
現場監理は間違い探し.で,間違いは適切な時期に探してあげないと,のちのち致命的なことになる.最悪なのは竣工検査の段階になって間違いに気づくというパターンで,そうなるとどうしようもなくなることも多い.
今日はスタッフに任せて現場はパスしようと思っていたのだけれど,やっぱり行って良かった.今この時期に指摘しないと手遅れになる食い違いを,まとめて発見することができた.
でも,これはけして大工の手落ちではない.ミスという意味では手落ちなのだけれど,ミスをしない人間なんていないわけで,ミスをいかに未然に防げるかという部分に我々の図面密度の部分がかかっているといつも思う.
ということで近年の我々の図面は現場ミスの回避という使命を帯びて,その密度は年々上がる一方.びっしり描き込まれた図面には,最初から細かい施工指示レベルの記載があるので,現場には大変喜ばれるのだけれど,あまりに細かすぎて現場も見落とすほど.だから責められないのだ.
我々は常に完璧を目指しているのだけれど,未だに満点を取ることができない.なぜなら人間はミスをするからだ.でもある意味,人間が生活する容れものとしては90点くらいでちょうど良いのかもしれないと思うことがある.なぜならそこに住む人間も完璧ではないからだ.
だからある意味,現場でミスをしてくれるとちょっとほっとする.もちろん,そのミスからリカバーする方法はその場で考えるのだけれど,その瞬間ヨゴシというか,なんとなく我々の観念的な完璧空間がちょっと崩れて,人を許容する空間になるような気がする.
そうそう,誰だってミスはあるものね.にんげんだもの.
生活の空間はそういう具合でちょうど良い気がする.
今日はスタッフに任せて現場はパスしようと思っていたのだけれど,やっぱり行って良かった.今この時期に指摘しないと手遅れになる食い違いを,まとめて発見することができた.
でも,これはけして大工の手落ちではない.ミスという意味では手落ちなのだけれど,ミスをしない人間なんていないわけで,ミスをいかに未然に防げるかという部分に我々の図面密度の部分がかかっているといつも思う.
ということで近年の我々の図面は現場ミスの回避という使命を帯びて,その密度は年々上がる一方.びっしり描き込まれた図面には,最初から細かい施工指示レベルの記載があるので,現場には大変喜ばれるのだけれど,あまりに細かすぎて現場も見落とすほど.だから責められないのだ.
我々は常に完璧を目指しているのだけれど,未だに満点を取ることができない.なぜなら人間はミスをするからだ.でもある意味,人間が生活する容れものとしては90点くらいでちょうど良いのかもしれないと思うことがある.なぜならそこに住む人間も完璧ではないからだ.
だからある意味,現場でミスをしてくれるとちょっとほっとする.もちろん,そのミスからリカバーする方法はその場で考えるのだけれど,その瞬間ヨゴシというか,なんとなく我々の観念的な完璧空間がちょっと崩れて,人を許容する空間になるような気がする.
そうそう,誰だってミスはあるものね.にんげんだもの.
生活の空間はそういう具合でちょうど良い気がする.
13. 07 / 16
役割
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sekimoto
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> 思うこと
Warning: Undefined array key 1 in /home/riotadesign/riotadesign.com/public_html/wp-content/themes/rd/blog/cat_sekimoto.html on line 48
自分が思う自分の姿と,人が思う自分の姿との間には常に一定の距離感がある.たまに人から思わぬ自分評をもらって戸惑うことがある.自分はそうではないと思っているのにそうだと思われたり,しっかり者だと思われたり,あるいはその逆だと思われたり.
人の目に映る自分の姿は,社会から求められている自分の正確な立ち位置を示している.社会はその人にその役割を演じてもらいたがっている.だからその役割は裏切ってはいけない.自分がどう思おうが,結局は自分の評価と存在価値は人が決めるものだからだ.
その人の適正や本質のようなものはなかなか自分には見えないものだ.それを見ている第三者の目は実に的確に,時に残酷に,その人の本質を捉えている.ある意味我々の設計という仕事も,我々の目を通したクライアント像の投影行為だとも言える.
そしてクライアントもまた,我々の設計にそれぞれのイメージを投影し,それぞれの思惑と期待を膨らませ我が事務所へとやってくる.そこで語られる”私”という人物像は,とても私と同一人物とは思えない.けれども不思議なことにそれらの傾向は一定しており,私が受け入れようが拒もうが,どうやら他人から見た私は,自分が思っている私ではないらしいということがよくわかる.私はその役割に忠実でありたいと思う.
求められる自分に徹するということ.それが仕事である.少なくとも私に社会に求められる要素があるとすれば,それは大変ありがたいことだと思う.
人の目に映る自分の姿は,社会から求められている自分の正確な立ち位置を示している.社会はその人にその役割を演じてもらいたがっている.だからその役割は裏切ってはいけない.自分がどう思おうが,結局は自分の評価と存在価値は人が決めるものだからだ.
その人の適正や本質のようなものはなかなか自分には見えないものだ.それを見ている第三者の目は実に的確に,時に残酷に,その人の本質を捉えている.ある意味我々の設計という仕事も,我々の目を通したクライアント像の投影行為だとも言える.
そしてクライアントもまた,我々の設計にそれぞれのイメージを投影し,それぞれの思惑と期待を膨らませ我が事務所へとやってくる.そこで語られる”私”という人物像は,とても私と同一人物とは思えない.けれども不思議なことにそれらの傾向は一定しており,私が受け入れようが拒もうが,どうやら他人から見た私は,自分が思っている私ではないらしいということがよくわかる.私はその役割に忠実でありたいと思う.
求められる自分に徹するということ.それが仕事である.少なくとも私に社会に求められる要素があるとすれば,それは大変ありがたいことだと思う.
NHKのSWITCHインタビューで作曲家の千住明さんが,きれいに楽譜を書くときれいな音が出ると言っていたことに深く共感.スタッフから見たら,きっとどうでもいいと思うレベルまで僕は図面のきれいさにこだわるんだけど,きれいな図面を描くときれいな建築になる.これは本当にそう思う.
きれいな図面というのは,表現として美しいという意味だけではなく,いかに整理されているかということ.それは整合性のようなものだったり,全体が絡み合って一つの秩序を作り出せているかということもそうだし,誰が見ても解釈の幅が生まれない明快さがあるか,そこまで考え抜かれているか(見えているか)ということに最もこだわりたいと思っている.
きっと音楽であれば,何楽章にも連なる交響曲も,曲全体にいくつもの伏線となる旋律を忍ばせていることだろう.そこにはそのどの順番がひっくり返っても成立しない厳密さがあるように,建築にもまた一見して関連しない諸室の関係や別棟との関係においても,いくつもの伏線が張られて全体が構成されるようにしたいといつも考える.
だからその見えない線をどこまで描き込めるかが重要なのであって,見えている線にはそこまでの意味はない.見えない線が見えると建築はモノになる.見えない線が見えない建築は魂のない建築になる.
…とまぁそんなことを言っていても,まだまだ見えていないことばかり.いまだに100点が取れない.きれいな図面を描きたい,見えない線を描きたいといつも願って図面に向かう.
きれいな図面というのは,表現として美しいという意味だけではなく,いかに整理されているかということ.それは整合性のようなものだったり,全体が絡み合って一つの秩序を作り出せているかということもそうだし,誰が見ても解釈の幅が生まれない明快さがあるか,そこまで考え抜かれているか(見えているか)ということに最もこだわりたいと思っている.
きっと音楽であれば,何楽章にも連なる交響曲も,曲全体にいくつもの伏線となる旋律を忍ばせていることだろう.そこにはそのどの順番がひっくり返っても成立しない厳密さがあるように,建築にもまた一見して関連しない諸室の関係や別棟との関係においても,いくつもの伏線が張られて全体が構成されるようにしたいといつも考える.
だからその見えない線をどこまで描き込めるかが重要なのであって,見えている線にはそこまでの意味はない.見えない線が見えると建築はモノになる.見えない線が見えない建築は魂のない建築になる.
…とまぁそんなことを言っていても,まだまだ見えていないことばかり.いまだに100点が取れない.きれいな図面を描きたい,見えない線を描きたいといつも願って図面に向かう.
昨日,去年竣工した住宅の撮影があり,撮影の合間にお施主さんといろいろお話しをさせて頂いたのだけれど,その際にこんなお話しを頂いた.
「敷地を見に来て頂いたのはそう何度もなかったのに,できあがった住宅はプライバシーに配慮されており,絶妙に敷地にはまっていてびっくりした.実際の生活も要望に適っていた.プロにこういうことを言うのは失礼かもしれないけれど,プロだなあと思った」
もちろんとても嬉しく,こそばゆい気持ちではあったけれど,言われてみると我々も意識してそうした部分もあったけれど,意識せずに”たまたま”そうなった部分もあったような気がする.
これは不思議な感覚で,言われると自分でもどうしてそうしたんだろうと設計に説明がつかない部分も多い.でももしかしたら意識してそうした部分よりも,”たまたま”そうなったという部分が,実は設計において最も肝要な部分なのだとも言えるかもしれない.
意識してそうした,という部分は左脳(論理)的思考でそうしたということだ.実際に目で見て,話を聞いて,図面上で確かめてそうしたという部分.言葉で説明できる部分だとも言える.これは基礎を身につければ誰でも出来るし,建築専門誌で建築家が試みている説明もこれにあたる.大学で学生に教えているのもそういうことだ.
でも”たまたま”そうなった部分というのは,自分ではコントロールできない部分だ.だからこれは教育もできないし,説明もできない.意識ではなく無意識で,左脳ではなく右脳(直感)で選択していた部分があったからなのだろう.
そして実は,それこそが建築の本質なのかもしれないとも思う.
限られた情報量をわかりやすく説明したり,それをさばくときには論理的思考は非常に有効だけれど,大量の相矛盾する要素を同時に成立させるためには論理なんてこれっぽっちも役に立たない.時には論理をすっとばして,ショートカットで本質を結びつけるという直感的思考が重要になる場面が出てくる.
言語化されない部分が大切,というのはお施主さんからのご要望もそうで,膨大な要望書を作って頂くよりも,むしろ一切考えないで無防備に向き合ってくれた方が,その方の本質をつかまえることができる.それも何度も会う必要はなく,最初に会ったときが一番大切で,第一印象にその方の全てが表れるといつも思う.
とはいえ,私の自分でもコントロールできない直感的思考を,頭をぱかっと開いて人にお見せするわけにもいかないので,自分なりにそれをわかりやすい言葉に置き換えて,目の前のお施主さんに語って聞かせているわけだけれど.でもやっぱり言葉は遠い.時に誤解を招くこともある.
とにかく伝えたいことはひとつで,
「大丈夫ですよ.結果的にすべてうまくいきます.安心してお任せ下さいね」
ということなんです.
「敷地を見に来て頂いたのはそう何度もなかったのに,できあがった住宅はプライバシーに配慮されており,絶妙に敷地にはまっていてびっくりした.実際の生活も要望に適っていた.プロにこういうことを言うのは失礼かもしれないけれど,プロだなあと思った」
もちろんとても嬉しく,こそばゆい気持ちではあったけれど,言われてみると我々も意識してそうした部分もあったけれど,意識せずに”たまたま”そうなった部分もあったような気がする.
これは不思議な感覚で,言われると自分でもどうしてそうしたんだろうと設計に説明がつかない部分も多い.でももしかしたら意識してそうした部分よりも,”たまたま”そうなったという部分が,実は設計において最も肝要な部分なのだとも言えるかもしれない.
意識してそうした,という部分は左脳(論理)的思考でそうしたということだ.実際に目で見て,話を聞いて,図面上で確かめてそうしたという部分.言葉で説明できる部分だとも言える.これは基礎を身につければ誰でも出来るし,建築専門誌で建築家が試みている説明もこれにあたる.大学で学生に教えているのもそういうことだ.
でも”たまたま”そうなった部分というのは,自分ではコントロールできない部分だ.だからこれは教育もできないし,説明もできない.意識ではなく無意識で,左脳ではなく右脳(直感)で選択していた部分があったからなのだろう.
そして実は,それこそが建築の本質なのかもしれないとも思う.
限られた情報量をわかりやすく説明したり,それをさばくときには論理的思考は非常に有効だけれど,大量の相矛盾する要素を同時に成立させるためには論理なんてこれっぽっちも役に立たない.時には論理をすっとばして,ショートカットで本質を結びつけるという直感的思考が重要になる場面が出てくる.
言語化されない部分が大切,というのはお施主さんからのご要望もそうで,膨大な要望書を作って頂くよりも,むしろ一切考えないで無防備に向き合ってくれた方が,その方の本質をつかまえることができる.それも何度も会う必要はなく,最初に会ったときが一番大切で,第一印象にその方の全てが表れるといつも思う.
とはいえ,私の自分でもコントロールできない直感的思考を,頭をぱかっと開いて人にお見せするわけにもいかないので,自分なりにそれをわかりやすい言葉に置き換えて,目の前のお施主さんに語って聞かせているわけだけれど.でもやっぱり言葉は遠い.時に誤解を招くこともある.
とにかく伝えたいことはひとつで,
「大丈夫ですよ.結果的にすべてうまくいきます.安心してお任せ下さいね」
ということなんです.
先日テレビをつけると,たまたまNHK教育(ETV)の「SWITCHインタビュー・達人達」という番組で,アートディレクターの佐藤可士和さんと放送作家の小山薫堂さんの対談をやっていた.番組も半ばくらいから見始めたのが悔やまれるくらい,とても刺激になる内容で,再放送しないかなとひそかに思っている.
その中で佐藤可士和さんが語っていた内容で,印象に残ったことが二つあった.
ひとつは「答えはすでに相手の中にある」ということ.
自分はそれを引き出すだけ.自分の中からひねり出すものではない.
もうひとつは「打合せではメモを取らない」ということ.
打合せには手ぶらで出かける.帰ってきて覚えていることだけが大切なこと.
これにはとても共感を覚える.
ひとつめの「すでにある」もいつもそう思う.私という存在は何なんだろうと思うくらい,いつも相手の中から引き出したいと思っている.それはクライアントであったり敷地であったり,頑固な役人相手のことだったりするかもしれない.私が全くオリジナルで考えたことなんて,もしかしたらないんじゃないかと思う.
もうひとつの「メモを取らない」ということ.これはなかなか真似ができないのだけれど,この感覚はよくわかる.私もクライアントと打合せをしているときはメモを一応取っているのだけれど,これを読み返すということをあまりしない.プランニングを考えているときも,要望書はあまり読まない.大体あんなこと言っていたな,という話の大枠だけで捉える.そうしないと大きな筋を読み違えてしまうような気がするからだ.
余談だけど,現場監理にもついうっかり何も持たないで行ってしまうことがある(それでスタッフに呆れられる).でも図面は現場にもあるし,スケールは監督が持っている.そもそも図面の内容はすべて頭に入っているので,私に必要なのは鉛筆一本だけでいい.あとはコピーの裏紙でもあればその場で納まりを走り書きできる.三角定規がなくても手が覚えている.だからもしかしたら現場も手ぶらで良いのかもしれない.
なかなか面白かった.次回は隈研吾さんx林真理子さん.
隈さんか.いやなんでもないです.
『SWITCHIインタビュー・達人達』
http://www4.nhk.or.jp/switch-int/
その中で佐藤可士和さんが語っていた内容で,印象に残ったことが二つあった.
ひとつは「答えはすでに相手の中にある」ということ.
自分はそれを引き出すだけ.自分の中からひねり出すものではない.
もうひとつは「打合せではメモを取らない」ということ.
打合せには手ぶらで出かける.帰ってきて覚えていることだけが大切なこと.
これにはとても共感を覚える.
ひとつめの「すでにある」もいつもそう思う.私という存在は何なんだろうと思うくらい,いつも相手の中から引き出したいと思っている.それはクライアントであったり敷地であったり,頑固な役人相手のことだったりするかもしれない.私が全くオリジナルで考えたことなんて,もしかしたらないんじゃないかと思う.
もうひとつの「メモを取らない」ということ.これはなかなか真似ができないのだけれど,この感覚はよくわかる.私もクライアントと打合せをしているときはメモを一応取っているのだけれど,これを読み返すということをあまりしない.プランニングを考えているときも,要望書はあまり読まない.大体あんなこと言っていたな,という話の大枠だけで捉える.そうしないと大きな筋を読み違えてしまうような気がするからだ.
余談だけど,現場監理にもついうっかり何も持たないで行ってしまうことがある(それでスタッフに呆れられる).でも図面は現場にもあるし,スケールは監督が持っている.そもそも図面の内容はすべて頭に入っているので,私に必要なのは鉛筆一本だけでいい.あとはコピーの裏紙でもあればその場で納まりを走り書きできる.三角定規がなくても手が覚えている.だからもしかしたら現場も手ぶらで良いのかもしれない.
なかなか面白かった.次回は隈研吾さんx林真理子さん.
隈さんか.いやなんでもないです.
『SWITCHIインタビュー・達人達』
http://www4.nhk.or.jp/switch-int/
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