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sekimoto

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おいしいものを食べると人はわくわくした気分になり,幸せな気持ちになる.同様に,素晴らしい空間に身を置くと人はわくわくした気分になり,やはり幸せな気持ちになる.それゆえに我々のような建築家という職業が存在する.そこまでは誰しも疑念の余地はないだろう.

最高の食材を使った最高の料理人の作る料理を,人は一度は食べてみたいと思うだろうし,実際食べたらその格調高く非日常的な味わいにきっと夢見心地になることだろう.けれどもそれを毎日食べるということは(物理的にも,経済的にも)たいていの場合叶わないし,叶わなくていいとも思う.一年に一度くらいそんなところで食事ができるから,幸せを感じることができるのだろうと思うからだ.

ところが料理人はそうはいかない.一年365日,最高の料理をつくることだけを考えている.究極の素材で至高のメニューを提供することが料理人としての頂点であるとするならば,そこを目指すのが仕事人というものである.もちろん,一個人としてそういう考え方は好きだし,共感もできる.

けれども私はどこかで,自分は「おいしい定食屋さん」でいいと思っている部分がある.究極の料理人になりたくないわけではない.でも私は手頃な値段で,より多くの人たちに足を運んでもらいたいし,おいしいと言ってもらいたい.年に一度の幸せよりも,毎日が幸せで満たされた方がより素敵なことだと思うからだ.

そのため,我々が用意する食材は普通の八百屋さんで手に入るようなピーマンやニンジンだったりする.どこでも手に入って,普通においしいもの.あるいは地場のものを材料とする.そこでフライパンを振るのも,都内有名店で修業したシェフというわけでもなく,普通の料理人だ.

けれどもそのお店は地域の評判を呼んで行列ができるのだ.理由は値段もリーズナブルで,ひょっとしたら都内有名店よりこっちの方がおいしいから.家から近いし,普段着で子ども連れで行けるのも魅力だ.

秘訣はレシピにある.使っている素材は家庭と同じでも,仕込み,塩の振り方,火加減にこだわりがある.なんならレシピを公開しても良いと思う.けれども絶対にこの味は再現できないのだ.それこそがプロと素人の違いだと思っているから.

とまあ長々と料理例えが続いているけれど,要は我々のつくる建築はそういう建築でありたいし,また我々はそんな設計事務所でありたいと思っている.

なぜ唐突にこんなことを書いているかというと,建築家の仕事はお金がかかっても仕方がない,妥協のない仕事をすることが建築家であるかのような考えに最近触れることが多いからだ.もちろん我々だって妥協はしない.けれど我々の目指すところは,やっぱり「おいしい定食屋さん」なのだろうと思う.

もちろんファミレスのように安いわけではない.ある人にとってはそれでも高いかもしれない.でもそこをぶらしたらいけない.これは自戒を込めて記しておきたい.

14. 01 / 28

想いの総量

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とある更新書類で過去の仕事をまとめていて,それによると過去5年間で23件の仕事(ほとんどが住宅)をしていることがわかった.けれどそのどれもが途方もなく時間と手間をかけた仕事で,当時を思い出すとどれも目眩がしてしまうほどだ.

事務作業だから,床面積とか工事費とかどんどん打ち込んでいかないといけないんだけど,このたった一行だけの記載に,走馬燈のようにいろんなことを思い出してしまう.あんなことやこんなこと.とても一行では書き切ることのできないあんな事件やこんな修羅場の数々….そんなことを考えていたら本当に気持ち悪くなってしまって,人の想いの総量に押しつぶされそうになってしまった.

その時その時は逃げ出したくなるほどの重圧や途方もない作業量だったりしたけれど,過ぎ去ってみればみんな過去の出来事.そして最後に作品だけが残る.一生これを繰り返していくのかと思うと,これまた気が遠くなる思いがする.今大変なあの仕事やこの仕事も,未来にはたった一行で記載されるのだろう.

あぁ,早く未来から今を振り返りたいものだ.

13. 12 / 17

降りてくること

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アイデアを考えるとき,「降りてくる」という表現を使うことがある.アイデアが生まれた状態を「降りてきた」ともいう.けれど何もアイデアが浮かばないときに,「降りてこない」から浮かばないのかというと,必ずしもそうではないと思う.

はたして何もしていないときに「降りてくる」ことなんて,どれほどあるのだろう.少なくとも私は一度も経験がない.だからそんな人はきっと天才なんだろうと思う.

ピッチャーはマウンドに立つ前に,ブルペンで肩慣らしをする.マウンドを意識しながら出番を待っている.舞台に立つ前には相応のウォーミングアップが必要だ.いきなり投げろと言われてもできない.きっとそんなことをしたら,本調子になる前に交代を告げられるだろう.

私もプランニングを頼まれたら,ウォーミングアップからはじまる.まずはエスキース帳に敷地の輪郭をオンスケールで描き,漠然と配置やゾーニングを描いてゆくところから始める.周辺状況やご要望を浮かべながら,焦点の結ばないぼんやりとした線を何本も何本も引いてゆく.重要なのはスケールを手放さないこと.必ずスケールを当てて考える.どんなつまらない案でも,ひとつでも出来ればそれは一案だ.ここまではいわばルーティンワークである.

なんとなくアイデアはある.そしてすでに案もいくつかできてはいる.けれども降りてきてはいない.決め手に欠ける.そこからが長いのだ.けれどもそこまでブルペンで肩慣らしをしておくと,頭に図面が入っているので,歩きながらやお風呂の中で,布団の中でも案を温め続けることができる.毎日考える.何案も何案も頭が沸騰するくらい考える.エスキース帳は一件の住宅のプランに一冊を使い切るくらいだ.そして,ある瞬間に焦点が結ばれる.

それがいわゆる「降りて」きた状態なのだと思う.

学生を見ていていつも歯がゆく思う.設計指導をしている学生達の多くは,毎週の指導日に真っ白な状態で何も浮かばなかったと言う.アイデアにスケールを与えず,いつまでも抽象的なイラストのまま現実逃避を続けている.

彼らはきっと,ニュートンがリンゴを見て万有引力を発見したという話を勘違いしているのかもしれない.ぼんやり庭を眺めていただけで歴史が変わるはずはない.何も浮かばないまま真っ白なエスキース帳に向き合い続けるのはさぞや苦痛だろう.どこかにショートカットキーがあれば押してみたいものだ.けれども人生にショートカットキーは存在せず,地道に手数を積み重ねることでしか真の解決には辿り着かない.

今さらこんなことを言ったところでもう遅いのかもしれない.けれども毎回同じ事の繰り返しで悩み,苦しんでいる学生があまりに多いことにいつも心が痛くなる.

抽象的な言説とお絵描きからは早々に決別しなくてはならない.模型ばかり作っているというのも考えものだ.右手には鉛筆,左手にはしっかりと三角スケールを握りしめて,苦しくも地道な作業に没頭しなくてはならない.一案に囚われてはならない.行き詰まったら何案でも考えるのだ.

せめて言い訳をするならば,像を結ばない無数の線とプランニングの軌跡を記した丸一冊分のエスキース帳を差し出して欲しい.けれどもそこまでする人はいないだろう.その時点で必ず降りてきているはずだから.

13. 07 / 25

にんげんだもの

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現場監理は間違い探し.で,間違いは適切な時期に探してあげないと,のちのち致命的なことになる.最悪なのは竣工検査の段階になって間違いに気づくというパターンで,そうなるとどうしようもなくなることも多い.

今日はスタッフに任せて現場はパスしようと思っていたのだけれど,やっぱり行って良かった.今この時期に指摘しないと手遅れになる食い違いを,まとめて発見することができた.

でも,これはけして大工の手落ちではない.ミスという意味では手落ちなのだけれど,ミスをしない人間なんていないわけで,ミスをいかに未然に防げるかという部分に我々の図面密度の部分がかかっているといつも思う.

ということで近年の我々の図面は現場ミスの回避という使命を帯びて,その密度は年々上がる一方.びっしり描き込まれた図面には,最初から細かい施工指示レベルの記載があるので,現場には大変喜ばれるのだけれど,あまりに細かすぎて現場も見落とすほど.だから責められないのだ.

我々は常に完璧を目指しているのだけれど,未だに満点を取ることができない.なぜなら人間はミスをするからだ.でもある意味,人間が生活する容れものとしては90点くらいでちょうど良いのかもしれないと思うことがある.なぜならそこに住む人間も完璧ではないからだ.

だからある意味,現場でミスをしてくれるとちょっとほっとする.もちろん,そのミスからリカバーする方法はその場で考えるのだけれど,その瞬間ヨゴシというか,なんとなく我々の観念的な完璧空間がちょっと崩れて,人を許容する空間になるような気がする.

そうそう,誰だってミスはあるものね.にんげんだもの.
生活の空間はそういう具合でちょうど良い気がする.

13. 07 / 16

役割

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自分が思う自分の姿と,人が思う自分の姿との間には常に一定の距離感がある.たまに人から思わぬ自分評をもらって戸惑うことがある.自分はそうではないと思っているのにそうだと思われたり,しっかり者だと思われたり,あるいはその逆だと思われたり.

人の目に映る自分の姿は,社会から求められている自分の正確な立ち位置を示している.社会はその人にその役割を演じてもらいたがっている.だからその役割は裏切ってはいけない.自分がどう思おうが,結局は自分の評価と存在価値は人が決めるものだからだ.

その人の適正や本質のようなものはなかなか自分には見えないものだ.それを見ている第三者の目は実に的確に,時に残酷に,その人の本質を捉えている.ある意味我々の設計という仕事も,我々の目を通したクライアント像の投影行為だとも言える.

そしてクライアントもまた,我々の設計にそれぞれのイメージを投影し,それぞれの思惑と期待を膨らませ我が事務所へとやってくる.そこで語られる”私”という人物像は,とても私と同一人物とは思えない.けれども不思議なことにそれらの傾向は一定しており,私が受け入れようが拒もうが,どうやら他人から見た私は,自分が思っている私ではないらしいということがよくわかる.私はその役割に忠実でありたいと思う.

求められる自分に徹するということ.それが仕事である.少なくとも私に社会に求められる要素があるとすれば,それは大変ありがたいことだと思う.