12. 12 / 05

いらない

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sekimoto

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> 思うこと
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年末のご挨拶に、というのはいらない。
カレンダーもいらない。
手帳もいらない。

年始のご挨拶に、というのはいらない。
タオルもいらない。
営業上の事務的な年賀状もいらない。

必要なのは、
相手の貴重な時間を無駄にすることではなくて、
貴重な資源を無駄にすることでもなくて、
もっと心のこもった何か。

そういうの、必要な人はどうぞ。
私はいらない。
住宅の設計に向かうモチベーションには3つの段階があります.

第一段階は,お施主さんのご要望を叶えること.
最初の面談やプロセスで聞き取ったお施主さんのご要望を,注意深く設計に落としてゆきます.これは仕事として当然であり,最低限の作業とも言えます.これは設計事務所のみならず,ハウスメーカーでも設計施工の工務店でも同じことが行われているはずです.

第二段階は,お施主さんの潜在的な欲求に応えること.
大概の場合,お施主さんは言葉にならない言葉を持っていらっしゃいます.言語化されない,潜在的な欲求をいかに拾い上げて設計に盛り込むか,というのもまたプロには求められることです.逆にそこまでやってはじめてお施主さんに満足して頂くことができるのだと思います.

この第二段階までをきちんと踏まえてやっていれば,まず間違いなくお施主さんからは感謝されるし,結果的にも良いものができます.良心的な設計士さんということで評判も立ち,仕事も途切れず事務所経営もうまくいくはずです.だから本当はそれで良いのだと思います.思いますが,私の心の中ではまだ満たされないものが渦巻いているのです.

第三段階は,建築的なテーマを見いだしたり,自己表現を求めること.
当然のことながら,これは第二段階までは踏まえた上での話です.これは必ずしもお施主さんからは求められていないことです.ある意味余計なことかもしれません.この第三段階に手を出すと,いろんな不都合が生じることがあります.お金が余計にかかったり,利便性が悪くなったり,メンテナンスにも手間がかかるようになることもあります.

おそらくは,自分たちの要望以外のことをされたり,余計にお金をかけて利便性が失われるなんてとんでもないと考える人もいると思います.だから我々はお施主さんの行動や言動をじっと観察して,そういうことに理解を示して下さる方かどうかを常に慎重に判断しています.

繰り返すようですが,住宅の設計は第二段階まででも十分だと思います.第三段階まで進むなんて無駄の極致です.けれどもその領域に設計を進めると,その建物は単なる住宅から「建築」と呼ばれるようになります.我々建築家が本来生業にしているのはこの「建築」を作ることなのです.

でもいくらお施主さんに理解があっても,家庭の事情や,周辺環境や,ご予算によってはそれが叶わないことも多くあります.建築専門誌を賑わす一線の建築家たちは,そういったステージをどのように進めているのでしょう.進んで建築家と心中しようという奇特な方々を引き寄せる才能がなせる業なのか,はたまた無理心中を計るのか・・・.

穏やかな話ではありませんが,少なくともうちの事務所では無理心中は致しません.すべてはお施主さんの心意気次第.しかし,現在も我が事務所にご依頼下さった”奇特な”(失礼!もとい,素晴らしい)お施主さんとの間には「建築」が生まれようとしています.
オリンピックを見ていて思うことがある.
それは世界のトップアスリートには”型”があるということ.それはその競技を究めた者だけが持つ特殊な体の使い方,長い時間と鍛錬を経てようやくそこに行き着いたともいえる終着点,いわば「究極の合理性」のようなものだ.

ビギナーは見よう見まねから入る.本人はそのつもりでも,実際の体の使い方には無駄が多く,正しく力が伝わらない.だから余計に肩の力が入ってしまう.無駄な動きのないプレーはやっぱり美しい.

私の続ける弓道もそうだ.弓道にも型がある.そして頑なにその型通りに射ることが良しとされる.自己流は評価されず,癖が出てきたら徹底的に矯正される.癖のない射形が最も美しく,また結果的に最も当たるからだ.

癖とは人間の業のようなもので,なくて七癖,人はそれをして時に「個性」と呼ぶ.ある場面では個性はより尊ばれる.「個性を尊重する」と言えばほとんどの場面で前向きな発言と捉えられるだろう.ところがある場面では癖や個性というものは行く手に大きく邪魔をする.ある道を究めようとする時,人は自分の癖に「個性」と名付けた瞬間に,その人の成長はある意味止まってしまうような気がする.

建築やデザイン,アートは特に個性が尊重される世界だ.個性的であることが良しとされる.またそれは時に「作風」とも呼ばれ,その人の大きな武器にもなる.ところが多くの人はここではき違えてしまう.個性的であることがゴールなのだと思ってしまう.

一流と呼ばれる建築家や美術家の作品には,そこにある共通点を見いだすことができる.それはやはり”型”のようなもの,あるいは「究極の合理性」と呼べるようなものかもしれない.

究極の合理性とは,単に便利とか経済的であるとか,そういうことではなく,例えば一本の樹木のようなものかもしれない.そこには水を吸い上げ,光合成を行い,養分を隅々まで行き渡らせ花や実をつける完結したシステムがある.そこには一切の無駄がない.

ところが桜と蜜柑の木が異なるように,そこには大きな個体差が存在する.我々はそれをして「個性」と呼びたい.無秩序で思いつきのような行為は,どこまで行っても「でたらめ」でしかなく「個性」ではないのではないか.オリンピックをため息をついて観戦しながら,ついそんなことを考える.

オリンピック選手たちの演技や競技にほとんど優劣はない.
ほんのわずかな心の隙間,あるいは積み重ねた経験値や実力差のようなものが,ほんのちょっと作用してメダルの色が変わる.彼らはそのほんのわずかな違いのために日々の鍛錬を怠らない.それは自我を捨てて自分を越えてゆこうとする試みとも言える.だから美しく,心が揺さぶられるのだろう.

12. 07 / 19

デザインの輪郭

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sekimoto

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> 思うこと
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デザイナー深澤直人氏の「デザインの輪郭」という本を読んだのは,どのくらい前だっただろう.当時衝撃的なくらい私にとっては面白く,目から鱗が何枚も落ちた記憶がある.

例えば深澤氏の言葉に「行為に溶けるデザイン」というのがある.
著書の中で,氏はデザインについてこう語っている.

『壁と平行に床に引かれたタイルの目地のような溝は「傘立て」であり,その「傘立て」は行為の流れの中に溶けてしまっている.その用意された配慮の機能の意味は,そのものを見た時にはわからない.むしろ意識せずに流れている行為の中で,急に立ち現れてくるものである』

それを読んだ時,ほんとうにその通りだと思った.自分が日常の設計行為の中で無意識にいつも考えていることが,はじめて意識化されたような気がした.実際私のホームページの「設計ポリシー」には,自分の仕事について「人の流れを考え,行為のぼんやりとした輪郭を整える」と書いている.この「行為の輪郭を整える」という考え方が,深澤氏の言う「デザインの輪郭」という言葉の意味するところとも深くリンクしている.

最近何気なくこの本を開いたら,薄ぼんやりとしていた記憶が蘇って,再び深い共感と共に読み返している.そしてその言葉の断片は,あの時読んだ時よりももっと自分にとって肉体化された言葉として感じることができる.

デザインは形ではなく,やっぱり空気なのだ.

12. 07 / 09

設計の授業

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sekimoto

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学生時代、設計の授業が終わる日は、周りが清々した顔をしている​中で、毎週の楽しみがなくなりひとり落ち込んでいた。今日、学生た​ちは清々した顔をしているだろうか。

構造や環境が大嫌いだった僕は、毎日設計課題だけをできればどんなに幸せだろうと思っていた。大人になった今、毎日設​計だけをしていれば人に喜ばれ、感謝され、お金をもらえる仕事に​就いた。学生時代思っていた以上に、毎日が楽しく幸せだ。

自分のやってることに努力なんて言っているうちはだめだ。努力な​んていらない。好きなことを、好きなだけやってれば幸せになれる​よ。