15. 10 / 16
シナベニヤの建具に
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sekimoto
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> 思うこと
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以前、新潟の建具屋さんのことを書きました。
先日現場に行くと、建具が吊り込まれた後でした。でも見た瞬間「あ、違う」と思いました。違うといっても間違っているという意味ではありません。明らかに仕事の質が違うと思ったのです。
うちの建具はいつも同じようなデザインです。もうここ何年も大きな変化はなしです。現状でとてもうまくいっているので、大きく変える必要はないと思っているからです。
ところが小さな変更は毎回のように行っています。それはきっと、よほどのリオタウォッチャーでも気づかないくらいの微差の部分です。現場の建具屋さんによっても変えます。打合わせをしていて、製作にあたっての積極的な提案を出してくれれば、それで進めてもらうことも少なくありません。
それでうまくいかなかったら元に戻します。うまくいけば、バージョンがまたひとつ進みます。Ver.3.5くらいから、3.6に進んだり、あるいは3.51くらいのときもあります。

そうすると、どんどん完成度が上がってゆくのです。完成度はある日突然上がるものではありません。たまに突然変異のように進化することもありますが、毎回ではありません。
自分で言うのはおこがましいかもしれませんが、リオタデザインはすでにそれなりの完成度を手に入れてしまいました。それでも進化することをやめません。進化するためには、毎回辛抱強く同じ事を繰り返すことが何より大切だと私は思っています。

リオタデザインの住宅には派手さはありません。そこにあるのは、あたりまえの住宅です。ある人には退屈かもしれません。革新はありません。あるのはただ日常です。
話を冒頭にもどしますと、そんないつもと変わらぬ建具を見て、私は「あ、違う」と思いました。これはとても珍しいことなのです。私は、卓越した技術を持つ者だけが越えられる一線を見たような気がしました。
そしてこう思いました。これなんだと。
我々が目指してゆきたい仕事とは、こういうことなのです。それは日常の中にしか見いだせないものです。
いつもと変わらぬシナベニヤの建具に、私はとても勇気をもらったような気がします。

15. 09 / 02
ゆるキャラの時代
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sekimoto
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> 思うこと
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とうとうエンブレムが白紙になってしまった。
この件を巡っては先にも書いたし、今もなお言いたいことはいろいろあるけれど、今はただ佐野氏からの声明を読み、同じ創作に関わる身として、またスタッフや家族を持つ身として、そして人として、私は佐野氏に心から同情する。
今朝の朝日新聞における加島卓氏(東海大准教授)のコメントに、すごくストンと落ちるものがあったのでご紹介したい。
「(前略)専門家によるデザインで満足するより、ゆるキャラのように、隙のあるデザインを応援しながら育てて楽しむのがネットの発達した今の市民参加型社会」
実は昨日もスタッフに話していた。こうなったら、もう「ゆるキャラ」しかないのではないかと。
加島氏の言うように、今の社会は確実に「市民参加型社会」になっていると思う。かつては、「デザインや建築のことは一般の人はわからないだろうから、専門家が決めてそれを発表すればいい」というのが通例だった。今回もそれを踏襲している。いわば「大本営発表型社会」である。
しかしどうだろうか。ここまで情報を同時に共有できる世の中になると、情報が得られない”ブラックボックス”である状態が、社会的不安や不快感を引き起こしてしまう。
安保法案だってそうだ。主権は国民にあるはずなのに、決定はブラックボックス(国会)の中にある。「というわけで決まりました」という大本営発表をそのまま受け入れられる時代ではないということを、政治家も気づいていない。
そして、それは建築やデザインだって同じなのだ。
お笑いのチャンピオンを決める番組で、会場の審査員とは別に”お茶の間審査員”と称して、視聴者が自由に面白かったと思える芸人に票を入れることができるシステムがある。地デジならではの双方向の情報共有化がなせる業であるが、いわばそれである。
会場の審査員は”専門家”であるので、一般の人ではわからない細かい技術的なことを審査すれば良い。もちろんそこには、審査員から見た「面白い/つまらない」という指標もあるだろうが、審査員が笑っていなくたって、お茶の間が笑っていればそこにはお笑いは成立しているのだ。
今回社会が言っているのはそういうことなんだと思う。
それが美しいかどうか、優れた案かどうか、使いたい!と思えるかどうか、そんなの使う人が決めれば良い。専門家から見て、少々デザイン的に詰めが甘かったり、展開性に欠けていたりしても、みんなで決めたものであればそれでいいんじゃないか。
それが「ゆるキャラの時代」なのだ。
この時代、くまモンやふなっしーを越える”エンブレム”はあるだろうか。お茶の間の誰からも愛され、テレビにも引っ張りだこのアイコン。展開性という意味では、今回のエンブレムを越える展開性である。なんてったって、足が生えて歩いているのだから!しかもふなっしーはしゃべるのだ。
あれがデザインだって?冗談じゃない!
まあまあ、そう怒らないで。
じゃあ、佐野氏の後にどんなエンブレムがイイと思う?ザハの後にどんな競技場があると思う?その案出した人、超バッシングされると思うけどわかってる?耐えられる?そんな勇気ある?
我々の住宅設計も同じなのだ。昔のように、寒くても暑くてもいいから安藤忠雄先生の家に住みたい!という時代ではない。
たとえ、そのことで多少デザインが丸くなることがあったとしても、設計のコンセプトが多少ぶれることがあったとしても、みんなで決めたことがこの時代には相応しいアイコンなのだ。
なにあの窓?笑、とか、この屋根おもしろーい笑、という具合に、末尾に「笑」が付くようなもの。「笑」は共感のサインである。優れた建築やデザインは今や総”ゆるキャラ化”していると言っても過言ではない。証拠に、佐野氏がブレイクした代表作にはauのLISMOもあるのだ。
で、ここからは私の提言。
新しいエンブレムは公募で選ぶらしい。であるならば、膨大に集まった応募案を1次選考でふるいにかけ、100作前後をネットに公開すべきである。
そこには自由に市民がコメントを書き込んだり「いいね!」したりして、人気を見える化したら良い。でもネット上では意見が偏るし、操作も入るからそれは審査には加点しない。ただ世論として共有すれば良い。
次の二次選考では専門の審査員が自分の意見と世論との間でバランスを取り、5作品程度を最終選考に残す。この時点では「2ちゃんねる審査員」が徹底して類似案がないかをググって検証する。
最後の5作品から1作品を選ぶ過程は、テレビで生中継である。もちろん会場の人や、お茶の間審査員も投票できる。実況は松岡修造だろう。デザイナーが思いの丈をプレゼンし、いよいよCMをはさんで発表!
発表は、そうだな、東京オリンピック開催を「TOKYO 2020」と書いた札で表現した、あの外国人が良いだろう。抱き合って喜ぶ滝川クリステル。
絵が浮かぶようだ。

15. 08 / 19
スケープゴート
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sekimoto
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> 思うこと
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デザイナー佐野研二郎氏のエンブレム問題で、毎日のように新事実が発覚したり、これも盗用じゃないかとか、はたまた佐野氏の人脈図をあげつらってみたり、私は毎日こういうネタを見る度に心底うんざりする。
みんな、どうして一人のデザイナーの足を引っ張ることにそこまで執着するのだろう。どうして世の中の人は自分には関係ないことに、そこまで執心して騒ぎをどんどん大きくしようとするのだろう。
私にとって、そのデザインが盗用であるかどうかなんてどうでもいい。そのデザイナーが清廉潔白かどうかなんて自分には関係ないことだ。
それが本当に盗用なら、そこに悪意があったのなら、私はその人を軽蔑するだろう。そのデザインを自分の中で葬るだろう。ただそれだけのことだ。あるいは、私がお金を払って依頼した人に、そんなことをされたら私は本気で怒るだろうが、今回別に私の懐はちっとも痛まないし、不利益や実害もない。
今回騒いでいるのは、どうやら依頼主ではないようだ。じゃあ誰が騒いでいるのか?パクられたと言って怒っている人もいるが、多くは関係ない人たちである。もうちょっと言うと、オリンピックすらもどうでもいいと思っている人たちである。
私は佐野氏の五輪のエンブレムは好きだ。良いデザインだと思う。
会見を見る限り、私は彼は嘘を言っている人だとは思わない。
トートバックの件なんて、もっとどうでもいい。サントリー商品を買って、やっとお目当てのデザインを手に入れて、それが盗用だったことがわかったとする。私でもそればかりはがっかりするかもしれないけれど、「まじかよ」とかいって「佐野のやろう!」とかちょっと毒づいて、でもそれでおしまい。だってキャンペーン賞品だし。
もちろんキャンペーン賞品にだって、デザインのモラルはある。でもどうも論点がずれているようだ。詰まるところ、それはトートバッグが問題なんじゃなくて、エンブレム(=権力)にケチをつけたいがためのスケープゴートなのだ。
私が許せないのは、あたかもデザイナーのモラルとか良心とか言っておきながら、「賞賛の嵐!デザイナーが1時間で作ったオリンピックのロゴが話題」てどうよ?てこと。よくもまあ、同じデザイナーとかいう肩書きを謳っておきながら、こんな失礼なことをするもんだと思う。
挙げ句の果てには「佐野研二郎氏がデザインした東山動植物園のマークが、コスタリカの国立博物館のマークと似て」て、おい。どーでもいいわ!
人を勝手にクロと決めつけて、こてんぱんにやるというのが最近の風潮らしい。魔女裁判か。趣味が悪いとしか思えない。
みんな、どうして一人のデザイナーの足を引っ張ることにそこまで執着するのだろう。どうして世の中の人は自分には関係ないことに、そこまで執心して騒ぎをどんどん大きくしようとするのだろう。
私にとって、そのデザインが盗用であるかどうかなんてどうでもいい。そのデザイナーが清廉潔白かどうかなんて自分には関係ないことだ。
それが本当に盗用なら、そこに悪意があったのなら、私はその人を軽蔑するだろう。そのデザインを自分の中で葬るだろう。ただそれだけのことだ。あるいは、私がお金を払って依頼した人に、そんなことをされたら私は本気で怒るだろうが、今回別に私の懐はちっとも痛まないし、不利益や実害もない。
今回騒いでいるのは、どうやら依頼主ではないようだ。じゃあ誰が騒いでいるのか?パクられたと言って怒っている人もいるが、多くは関係ない人たちである。もうちょっと言うと、オリンピックすらもどうでもいいと思っている人たちである。
私は佐野氏の五輪のエンブレムは好きだ。良いデザインだと思う。
会見を見る限り、私は彼は嘘を言っている人だとは思わない。
トートバックの件なんて、もっとどうでもいい。サントリー商品を買って、やっとお目当てのデザインを手に入れて、それが盗用だったことがわかったとする。私でもそればかりはがっかりするかもしれないけれど、「まじかよ」とかいって「佐野のやろう!」とかちょっと毒づいて、でもそれでおしまい。だってキャンペーン賞品だし。
もちろんキャンペーン賞品にだって、デザインのモラルはある。でもどうも論点がずれているようだ。詰まるところ、それはトートバッグが問題なんじゃなくて、エンブレム(=権力)にケチをつけたいがためのスケープゴートなのだ。
私が許せないのは、あたかもデザイナーのモラルとか良心とか言っておきながら、「賞賛の嵐!デザイナーが1時間で作ったオリンピックのロゴが話題」てどうよ?てこと。よくもまあ、同じデザイナーとかいう肩書きを謳っておきながら、こんな失礼なことをするもんだと思う。
挙げ句の果てには「佐野研二郎氏がデザインした東山動植物園のマークが、コスタリカの国立博物館のマークと似て」て、おい。どーでもいいわ!
人を勝手にクロと決めつけて、こてんぱんにやるというのが最近の風潮らしい。魔女裁判か。趣味が悪いとしか思えない。
友人の一人が新国立競技場のプロジェクトに関わっていた。私は一人の友人として、彼の仕事が無事成就し、オリンピックの開会式を誇らしい気持ちで眺めることを楽しみにしていた。
新国立競技場建設計画の白紙撤回は至極当然であろう。国民の一人として心からそう思う。人はこれまで費やしてきた時間や費用、熱量が大きければ大きいほど、それらとの決別は難しくなる。ギャンブルと同じだ。それを断ち切れたことは、たとえそれが安保絡みの国民の反感を逸らすためだったとしても、英断だと思うし評価に値すると思う。
しかし私は建築に生きる建築人だ。
このニュースに安堵したと同時に、この計画の実現に向けて関わってきた多くの建築設計関係者の努力と膨大な労力を思うと、いたたまれない気持ちになる。そして友人の顔が浮かぶ。
彼らは一様に、この苦しい局面を乗り越え、晴れがましいオリンピックの開会式をいつか家族とテレビで眺める瞬間を夢描いていたに違いない。「このスタジアムの屋根はね、お父さんが設計に関わったんだよ」と我が子に語りたかった人もたくさんいただろう。
オリンピックがアスリートにとっての祭典であるならば、そのメインスタジアムの建設は建築人にとってのオリンピックであろう。ザハではない、安藤さんでもない、そんな市井のこのプロジェクトに関わった設計者たちの顔が私には浮かんでしまう。
もっとも彼らとしても、出口の見えない遂行困難な仕事を前にしての中止の報は、もしかしたら感情が落胆よりも安堵の方向に働いたことも想像に難くないが…。
しかしここから私のもう一つの懸念がはじまる。
着工直前まで行っていた計画が白紙化されて、残る時間で設計をやり直さなくてはならない。設計といったって、ニュースで流れるようなパースの絵を作るようなことではない。
何百枚という実施図面をゼロから描き直すことを意味するし、行政との折衝、技術的な解決もまた一からやり直しである。これはもう途方もないことなのだ。フルマラソンを走り終えたら、ここは折り返し地点ですよと言われたようなものである。報道のコメンテーターが、いとも簡単に設計がやり直せるようなことを語るとき、私はなんとも言えない違和感を感じてしまう。
さらに詰まった工期で、施工会社は必ず完成させることを迫られるだろう。そこに思いを馳せた時、この計画の真に殺人的な側面を思い知る。友人が再びこの災禍に巻きこまれることのないことを祈る。
これからの流れを予測してみよう。
政府は半年以内に代案の選定を行うと言っている。代案、おそらくは建築家は外されるのではないかと思う。この火中の栗を拾える建築家などいない。また国民にも決定的な建築家不信の根が植え付けられてしまった。
政府は二度と同じ過ちを繰り返さないために、そして限られたスケジュールで確実に予算内で納めるために、おそらくは”置きに”行くだろう。つまりもう冒険は冒さないということだ。
政治的に考えるならば、今回のザハ案の実施設計を行った日本の大手組織設計事務所がJVでその設計に当たるのではないか。きっと彼らには今回の件で膨大な技術と情報の蓄積ができているだろうから、最適解をどこよりも早く提示できるはずだ。
しかし一方で、経緯からいって社会からこれほどまでにバッシングを受けたプロジェクトだけに、きっと彼らも”置きに”行く。日本人が最も得意とする設計手法「事なかれ主義的建築」になるのではないか。
そしてそれが発表される。するときっと世間はこう言うのだ。
「なんかさあ、つまんなくなっちゃったよね」
「折角のオリンピックなのに、華がないんだよなあ」
一方のゼネコンは、開会式が1年後に迫る段階になっても竣工が見えず、苛立った政治家からきっと証人喚問を受けることになるだろう。
あらたな国立競技場問題「終わらない工事、どうする?」
私はそんな政治に振り回される、ザハではない、安藤さんでもない、市井の建築人達の身の上を案じて止まないのだ。
新国立競技場建設計画の白紙撤回は至極当然であろう。国民の一人として心からそう思う。人はこれまで費やしてきた時間や費用、熱量が大きければ大きいほど、それらとの決別は難しくなる。ギャンブルと同じだ。それを断ち切れたことは、たとえそれが安保絡みの国民の反感を逸らすためだったとしても、英断だと思うし評価に値すると思う。
しかし私は建築に生きる建築人だ。
このニュースに安堵したと同時に、この計画の実現に向けて関わってきた多くの建築設計関係者の努力と膨大な労力を思うと、いたたまれない気持ちになる。そして友人の顔が浮かぶ。
彼らは一様に、この苦しい局面を乗り越え、晴れがましいオリンピックの開会式をいつか家族とテレビで眺める瞬間を夢描いていたに違いない。「このスタジアムの屋根はね、お父さんが設計に関わったんだよ」と我が子に語りたかった人もたくさんいただろう。
オリンピックがアスリートにとっての祭典であるならば、そのメインスタジアムの建設は建築人にとってのオリンピックであろう。ザハではない、安藤さんでもない、そんな市井のこのプロジェクトに関わった設計者たちの顔が私には浮かんでしまう。
もっとも彼らとしても、出口の見えない遂行困難な仕事を前にしての中止の報は、もしかしたら感情が落胆よりも安堵の方向に働いたことも想像に難くないが…。
しかしここから私のもう一つの懸念がはじまる。
着工直前まで行っていた計画が白紙化されて、残る時間で設計をやり直さなくてはならない。設計といったって、ニュースで流れるようなパースの絵を作るようなことではない。
何百枚という実施図面をゼロから描き直すことを意味するし、行政との折衝、技術的な解決もまた一からやり直しである。これはもう途方もないことなのだ。フルマラソンを走り終えたら、ここは折り返し地点ですよと言われたようなものである。報道のコメンテーターが、いとも簡単に設計がやり直せるようなことを語るとき、私はなんとも言えない違和感を感じてしまう。
さらに詰まった工期で、施工会社は必ず完成させることを迫られるだろう。そこに思いを馳せた時、この計画の真に殺人的な側面を思い知る。友人が再びこの災禍に巻きこまれることのないことを祈る。
これからの流れを予測してみよう。
政府は半年以内に代案の選定を行うと言っている。代案、おそらくは建築家は外されるのではないかと思う。この火中の栗を拾える建築家などいない。また国民にも決定的な建築家不信の根が植え付けられてしまった。
政府は二度と同じ過ちを繰り返さないために、そして限られたスケジュールで確実に予算内で納めるために、おそらくは”置きに”行くだろう。つまりもう冒険は冒さないということだ。
政治的に考えるならば、今回のザハ案の実施設計を行った日本の大手組織設計事務所がJVでその設計に当たるのではないか。きっと彼らには今回の件で膨大な技術と情報の蓄積ができているだろうから、最適解をどこよりも早く提示できるはずだ。
しかし一方で、経緯からいって社会からこれほどまでにバッシングを受けたプロジェクトだけに、きっと彼らも”置きに”行く。日本人が最も得意とする設計手法「事なかれ主義的建築」になるのではないか。
そしてそれが発表される。するときっと世間はこう言うのだ。
「なんかさあ、つまんなくなっちゃったよね」
「折角のオリンピックなのに、華がないんだよなあ」
一方のゼネコンは、開会式が1年後に迫る段階になっても竣工が見えず、苛立った政治家からきっと証人喚問を受けることになるだろう。
あらたな国立競技場問題「終わらない工事、どうする?」
私はそんな政治に振り回される、ザハではない、安藤さんでもない、市井の建築人達の身の上を案じて止まないのだ。
15. 07 / 02
無責任問題
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sekimoto
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> 思うこと
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引渡しに合わせて家具が届いた。ところが階段を見るなり、配送屋さんは「上げられません」。上げられないのではない。傷をつけるのが怖いのだ。
でもハシゴを使えば中庭からも上げられるはず。工務店さんが「手伝いましょうか?」と申し出ると、「いや、責任問題になるので」と断られたという。
結局「じゃあ置いていってもらえば我々で上げますので」ということで、このひとコマ。ものの10分ほどで荷上げは完了して、無事セッティングも完了した。
我々はもうこういうのは慣れっこになってしまった。しかし、そのたびに私は無性に腹がたつ。だって不可能を可能にするために、我々がどんな気持ちで設計や施工と向き合いこの日を迎えたか。しかし彼らは階段を一瞥するなり帰ってしまうのだ。
プロなら上げてみろよ!
手段はひとつじゃないだろうに。
我々の仕事は、つまるところ責任を一手に引き受ける仕事である。だって、普通じゃないことをやるんだから。メーカーのマニュアル通り、保証という名の庇護のもとでは実現できることは限られている。私はそんなものに縛られて本質を見失う仕事なんて、心底くだらないと思う。
だから我々はそこから勇気を持って踏み出す。
時に保証から外れることも厭わずに。なぜか?
それはクライアントが保証の世界から一歩踏み出して、我々に依頼して下さっているからだ。安全で平坦な道はいくらでもあったのに、わざわざデコボコ道を我々と歩んで下さっているからに他ならない。
すぐに責任という言葉を持ち出す人は、自分が責任を持ちたくない人である。責任が強いのではなく、要は無責任なのだ。
