以前も少し書きましたが、ある書籍企画が進んでいます。これまで単著として3冊を刊行させて頂いたので、これで4冊目ということになります。

これまでの書籍は、住宅のディテールを扱ったものや図面の描きかた、また現場の施工手順などを扱ったもので、ページ数にして120~150ページ程度のもの。うち半分は図版や写真などなので、私が実際に執筆した文章量としては実質その半分くらいだったかもしれません。

ところが今回の本はボリュームにして約300ページ、しかも図版や写真は少なめで、あとはびっしり文章!1ページをすべて文章で埋めると600字になる計算なので、300ページびっしりだと約18万字にもなります。

たださすがに一部に図版やイラストなどもあるので、ここからそれらを差し引くと、実際に書いたのは仮に7掛けとして12~13万字くらいでしょうか。執筆期間は昨年10月から12月までの約3ヶ月間。平日は仕事があるので、夜や週末に引きこもってずっと書いていました。すべて自筆による書き下ろしです。

サイトで少し長めのブログを書いた場合で1,200~1,300字程度になるので、この3ヶ月で長めのブログを約100本書いた計算になります。まさにブログ10年分!

ここ数ヶ月ほど、あまり長文のブログをアップしていなかったのは、こういう事情によるものでした。(それでもちょいちょい書いていましたけどね)


しかし出版というのは、当たり前ですけど、ここでは終わらないんですよね。

原稿執筆というのは、設計でいえば基本設計みたいなもので、それが編集者の手に渡ってここから編集作業が始まります。これは設計に例えれば実施設計のようなものでしょうか。

編集を通ったものは、次にゲラと呼ばれる校正刷となってふたたび著者の元に届きます。これをチェックするのも著者の大切な仕事です。これは所内の実施図チェック、もしくは施工図チェックにあたります。

校正は、「初校」を経て「再校」、そして「念校」へと至ります。それぞれのプロセスで最初から最後まで通読し、誤字脱字のほか、意味の通らないところ、あるいは意味は通るのだけれど違和感のある表現や言い回しなどを細かく細かくチェックしていきます。

これは私が図面チェックの際に、機能は満たしているけど違和感のある寸法やプロポーションを、徹底して掘り下げていく作業にきわめて近いように感じます。

今回は念校でも終わらず、再念校まで出してもらったので、私はこの300ページもある本を、たぶん5~6回くらい(部分的にはそれ以上!)読み込んだことになります。そろそろ暗記できそうです。

冒頭の写真は、これまでの校正刷りのチェックバックを積み上げたもの。終盤はプリントアウトをしないでPDFベースで読み込んでいたので、作業量は実際にはこの倍ぐらいになるかもしれません。

そんな作業もようやく終わりました。

というか終わらせました。読み込んでいるといくらでも直せてしまうので、キリがないのでここで筆を置くことにしました。あとは編集サイドにお任せしたいと思います!


こんな風に書くと、本を出すって本当に大変なんだとお感じになると思いますが、実際にはどうかというと、我々が普段設計の実務でやっていることと何も変わらないので、私自身は大して大変だとは思いませんでした。むしろとても楽しかったです!こちらも設計と同じですね。

苦労しながらも、編集者さんの意見を聞いたり、出版社の大人の事情?なども汲み取りながら、人の目に触れる本を作っていく作業というのは本当にやりがいのある作業だとあらためて感じました。ブログだと、それを添削してくれる人はいませんからね。この第三者の目というのは、本当に勉強になるのです。

本書籍の現在のプロセスをマラソンに例えるならば、ようやくゴールの国立競技場が遠くに見えてきたところでしょうか。本の詳細はまだ書けません。刊行時期も現時点ではまだ確定していませんので、このあたりもクリアになったら、この場でもお伝えしたいと思います!

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sekimoto

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> 仕事
> 思うこと


このところ週末に新規のご面談が続いている。大変ありがたい。

私の場合、初回面談の際には我々に依頼下さった場合のメリットはもちろん、デメリットもすべて包み隠さず話す。通常初めていらしたお客さんには都合の良いことしか話さないのが普通かもしれないけれど、すべてにおいて素晴らしい選択肢なんてこの世の中にはないと思うから。

包み隠さず話すことのひとつに建築コストの話がある。設計事務所に相談に来る人の不安の9割はコストだと思っているので、最近の弊社設計の住宅の建築コストの相場についても私は包み隠さず話している。あとでだまし討ちのようになるのが嫌だからだ。しかし、これが最近なかなかつらいことになっている。

ここ数年の資材インフレによって、工務店から出てくる見積りがそれ以前とは比べようもなく上がってしまった。うちはこれまで、クオリティの割には高いコストパフォーマンスを維持してきたという自負があったのだけれど、最近ではなかなかそうも胸を張れなくなってきた。現在の市場のコスト感を正直に話すと多くの人はどん引きしてしまう。

「え、そんなに高いんですか!?」
ええ、まあ、その、、そうですね。

コストを引き上げている張本人は我々ではないのだけれど、なんだかとても罪深い気持ちになる。

手練れの営業担当者なら、きっと初回は一番安くなるパターンのことしか話さないのだろう。知人が「結婚式場の手口と同じ」と言っていた。最初に提示されたノーオプションのまま挙式を挙げる人はいないように、好みのものを選んでいくとどんどん高くなってゆくシステムで世の中はできている。自分も駆け引きして、そういうずるい説明が出来ればどんなにいいだろうと思うのだけれど、できない。私はいつも正直者なのだ。



そこにきてこんな報道。これには心が折れる…。
ここ20年で大工が半減したという。ここ40年では1/3だそうだ。あと20年後には…大工さんはいるのか?その前に我々はいるのか?まさにそんな時代がきている。

我々の設計を施工するには手間がかかる。むしろ手間しかかからない。建築工事費は手間賃の塊だ。材料費なんてたかが知れている。

だから我々は少しでもコストを抑えようと安い素材を使って、しかし手間のかかった家を作る。だから結果としてそこそこお金がかかる。我々と同じように安い素材を使って、一方で最も手間のかからないやり方をすると、建築費はすごく安くなる。なんてわかりやすいのだろう。こういう家にはコストでは勝てない。勝つべきじゃないけど、なんか悔しい。

こうして、いつしか当たり前と思っていた職人さんの手による家づくりが、どんどん工業製品に置き換えられてゆく。工場で作られた建具やシステムキッチンやユニットバスが、最小限の手間でどんどん取り付けられてゆく。先見の明のある企業は、きたる職人さん絶滅の「Xデー」に向けたつくり方にどんどんシフトしている。皮肉なことに、それがどんどん職人さんを絶滅(レッドリスト)へと追い込んでいることに気づいているだろうか。

我々が設計した家にお住まいの方、とてもラッキーだったと思います。大工さんという、未来には存在しないかもしれない人が建ててくれたのだから。

そこのあなた、早く頼まないと僕らもいなくなっちゃうかも知れませんよ?

先週自宅の見学に来てくださった建築家の佐藤重徳さんが、その後長文の感想をメールで下さった。その的を得たコメントが心に沁みてとても嬉しく、またそこにはさらに拙宅の骨格模型を作ってみたいとも書かれていた。

人のオープンハウスに行って、その骨格模型まで作る人なんているのだろうか?そんなことを思っていたら、後日本当に重徳さんによる骨格模型の写真がコメント付きで送られてきた。こんな人いる??重徳さんってば変態。いや本当にすごい人だ!

でも話はまだ終わらない。
今日は伊礼さんの住宅の見学があった。私は11時に、重徳さんは15時ごろに行くという。じゃあ会えないですね、またの機会に!そんなやり取りをしたというのに、11時台に見学しているとひょっこり重徳さんが現れた。

キョトンとしている私に「はいこれ」といって小さな箱を渡し、僕は予定があるからまた15時に来るね、といって再び消えていった。そこには拙宅の骨格模型が入っていた。まさかこれを渡すために11時にわざわざ来たのだろうか、、。

つまり住宅を設計するってこういうことだよな、とその大きな背中を見て思った。技術ではなく、やっぱり人なんだ。この人大好き!と心底思った。重徳さん、家宝にします。
昨日のブログ内容とも少しリンクするのですが、最近感じる自身の仕事観について書いてみたいと思います。

私は現在51歳。50代になりたてです。同じく10年前は40代になりたての年代でした。40代から見て50代ははるか先のこと。今の私にとっての60代と同じくらい未来の話でした。

私にとっての40代というのは、仕事も少しずつ安定してきてはいるものの、まだまだ上り坂。まだ見ぬ世界に向かって仕事を積み上げている状態でした。当時の私にとって50代の建築家たちというのは当代のトップランナーたちという位置付けで、とても眩しく、必死にそこに追いつこうとしていました。

ところが自分が50代になってみるとどうかというと、50代というのはなかなか微妙なお年頃だなということに気づくのです。

どう微妙かというと、確かにかつて出来なかったことも、今や出来るようになっています。知らなかったことは、今や知識が備わっています。あの頃お近づきになれなかった人とは、今や親しい間柄になっていたり。なにもかもが、あの時よりも進歩していることを感じます。歳を取るって素晴らしい。出来ないことが出来るようになるってなんて素晴らしいのだろう!と心から思います。

ところがです。理屈の上では「出来ないことが出来るようになっている」のに、実際には少しずつ「出来ないこと」が増えていくんです。それが50代ってやつなんです。それはこの歳になってわかったことでした。

これは体力が落ちたからとか、そういう身体的なことじゃないんですね。成功体験を積み重ねると、失敗ができなくなるってことなんです。

もう少し正確に言うと、失敗できないというより「失敗しなくなる」といったら良いのでしょうか。どうして失敗しなくなるかというと、それまでたくさん失敗をしてきて、どうやったら失敗しないかを身をもって知るからです。失敗することを知っていながら前に進む人はいませんよね。これは電気がビリビリってなる棒を、一度体験したら二度と触れなくなるのと同じことなんです。

もちろん今でも細かいレベルではたくさん失敗はしているのですが、大きな失敗をするかもしれない道は自分でも直感でわかります。だから出来なくなるし、結果として失敗もしなくなるんです。

失敗をしないって、これって良いことなのかな?社会的には良いことでしょうね。でも私の中の直感は、それって良くない!と言っています。そんな人生つまらない!でも失敗はしたくないんです。電気がビリビリする棒はもう二度と触りたくないんです…。

これが私の思う、50代という微妙なお年頃の正体です。

これってどうしたらいいんでしょうね。失敗だらけの若い子にはわからないかもしれませんが、失敗しないって実は怖いことなんですよ。固まりつつある自身の思考回路をどこまで柔軟にしていられるか、追いかけてくる老いとの戦いだなと最近つくづく思います。


今日は久しぶりに「しだれ桜の家」へ。しだれ桜の家は2013年に竣工したので、かれこれ10年になります。ちょっと気になることが出てきたとご相談を受け、それでは10年点検を兼ねましょうということでお邪魔させて頂きました。

ただこちら、本当にきれいにお使い下さっていて、浴室の木製建具もほとんどカビなし、水栓も竣工時のままピカピカでびっくり!感動しました。建て主さんの住まいへの愛着を感じました。



もう10年、あるいはまだ10年…。

この10年でいろいろなことが変わりました。当時のスタッフのこと、各所の素材使いや仕様のこと、はたまた身の回りの人間関係やら自分自身のこと。なんだかあれから20年くらい経ったんじゃないかと、まるで浦島太郎のよう、、。点検と共についそんなことを考えてしまいました。

10年後、自分はどうしているだろう?ちょっと想像がつきません。この10年と同じくらい成長できていることを願います!