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sekimoto

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> 仕事
> 思うこと



先だって某所でセミナーを行ったときのこと、とある工務店さんから納まりについての質問を受けた。うちでは一般の工務店さんがやらないような素材の納め方をすることも多いので興味を持って下さったようだ。

しかしうちの納まりは手が込んでいるようでいて、実はほとんど図面指示はしておらず、現場で職人さんと筆談のようにスケッチを交わしたり、過去の写真を見せながらイメージ共有をしていることが多い。だからどうやって納めたのかと訊ねられても、その施工の詳細については正確に答えられないことがほとんどだ。

だからより良いものをつくるためには、現場で職人さんのハートに火を付けるような言葉をかけながら作るんだという話をすると、「うちではそういうことはできないんです」という答えが返ってきた。効率重視の設計施工型ビルダーでは、理不尽に手間がかかるような納め方は職人さんに露骨に嫌がられてしまうのだそうだ。

確かに素地として、決まりきった素材や納まりで手早く作ることを良しとしてきた職人さんにとって、思いつきでいきなり時間のかかる面倒くさいことを言われたら拒みたくなるのも人情だろうと思う。そんな場面に触れると、我々が日頃向き合っている建築のつくりかたは、いかに純粋にもの作りと向き合った取り組みであるかがよく分かる。

そんな風に向き合ってくれる工務店や職人は時代と共に減る一方だけれど、我々とチームを組んで下さる工務店さんはどこもそんな気概に溢れ、それを思うといかに我々は恵まれた環境で仕事をしていることかと感じる。




我々のような設計事務所は施工部隊を持たない。純粋に設計と現場監理だけを行い、施工は工務店に請け負ってもらうことになる。

一般的に言われる設計専業事務所のメリットは、設計と施工を分離させることで建築主の立場や利益をまもり、第三者の視点で適切な現場監理が行えることなどが挙げられる。しかし、どうもそれだけじゃなさそうだ。

我々が施工を行わない専業の設計者であるということは、現場においても一定のアドバンテージを持つことになる。それは立場だけではなく、その言葉が現場でもとても強い影響力を持つのだ。

設計者の意志ある言葉やこだわりは、時に「わがまま」とも受け止められることもあるかもしれないけれど、それが心に届けば現場の職人を発奮させる起爆剤にもなる。実際現場に行くと、私がそうしてくれと頼んだわけではないのに、先回りしてより繊細な納まりにしてくれていることも多々ある。

そんな部分に気づいて職人さんに声をかけると「関本さんの現場なので」という言葉が返ってくる。私がどんな反応を示すか思い浮かべながら作っているとも。自分ではそんなに難しいことを言っているつもりはないのだけれど、どうも現場の受け止め方は違うようだ。


我々の現場の神施工の職人さんたちは、大変そうだけどいつも楽しそうだ。自分の持てる技術を惜しげもなく使い、それを超える納まりを模索し、乗り越えてまたひとつスキルアップする。これこそが仕事の醍醐味であり、ものづくりの本懐ではないかと思う。

これはもしかしたら私が設計専業でずっとやってきていることとも無縁ではないのかもしれない。施工部隊を持たないことが施工に対する自由度を生み、施工者にとっても自社案件にはない飛躍の機会と捉えてくれるとしたら、ものづくりにとって、また設計者施工者双方にとって、この上ない幸せのかたちではないだろうか。

それはもちろん設計施工型のつくりかたを否定するものではない。コスト高や設計施工型ビルダーの勢いに押されている我々設計事務所にとって、これは大きな希望になる生き残りの道ではないかと思えるのだ。