
OZONEよりO-Cubeが届き、朝から益子先生のインタビューに強く引き込まれました。
後衛の役割ということや、住宅は生活の変化を包含するもの、といった言葉一つ一つに重みがあります。そして僭越ながら、自分の住まい観にも確信を与えてくれたような気がしました。あぁ、これでいいんだと。
中でも印象的だったのは「いったん細部までデザインした後、消しゴムで消すように緩める」という言葉でした。これこそが、益子建築を、そしてホテリアアルトの居心地を解き明かす言葉であるような気がしました。
私はまだまだ蒼いので、どうしても細部を詰め将棋のように詰め切ってしまうところがあります。それは私の住宅作法にとっては生命線でもあるのですが、ビルダーズの木藤さんにも、以前「詰め将棋の向こう側」の話をされたことをふと思い出しました。
ホテリアアルトは、鉛筆ではなく消しゴムで設計されている…。人が「もう一度、あの場に」と思えるかどうかが大切。そんな言葉のひとつひとつを噛みしめています。
思えば今年は、ビルダーズの巻頭特集でホテリアアルトの解説文を書かせて頂いたことからはじまり、来年2月の益子先生とのセミナーに至るまで、私の意志はそこにはありません。常に周りの方がそのように仕向けてくださり、私は素直にそれに乗っかっている(流されている)だけなのですが、何か不思議な力に導かれているような気がします。
無知な私にいろんな知恵を授けてくださろうとしているのでしょう。ありがたいことです。神様はいるのかもしれないなぁ、と思う年の瀬です。
17. 11 / 24
安藤忠雄展
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sekimoto
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> 建築・デザイン
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新国立美術館で開催中の、安藤忠雄展に足を運んだ。
学生時代の私にとってのヒーローは、間違いなく安藤忠雄さんだった。大学3年生の時に、池袋のセゾン美術館で開催された安藤忠雄展には大きな衝撃を受けた。
それから、大学を卒業したら安藤忠雄さんのアトリエで働きたいと強く願った。当時、安藤さんは所員をグーで殴るらしいとか、月給は5万円らしいとか、いろんな噂を聞いていたけれどそれでも構わないと思った。実際、就活で真っ先に電話をかけたのは安藤さんの事務所だった。(でも、結局雇ってはもらえなかった)
安藤さんの生き方も好きだったけれど、先の個展で衝撃を受けたのはそのドローイングだった。エンピツを使った精緻なドローイングには大いに引き込まれた。当時大学の課題はインキングが基本だったのだけれど、「建築家はエンピツだ!」と勝手に思い込み、そこからはエンピツだけを使った図面表現を研究した。つまりは安藤さんをとことん真似したのだった。
現在の、データを保存しておけばいつでもアウトプットできるという図面と異なり、世界に一つしかない、二度と再現できない学生の頃の図面は今でも大切に保管している。
展覧会の安藤さんのドローイングに再び出会い、かつての血が騒いだ。(以下は学生時代の私のドローイング。安藤さんへの憧れが詰まっています)


17. 08 / 28
宮脇檀さんのディテール
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sekimoto
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> 建築・デザイン
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先週土曜日は、住宅遺産トラスト主催の中山邸(1983年・設計:宮脇檀)の取り壊し前最後の見学会がありました。宮脇檀さんといえば多くの住宅建築家にとっての憧れの存在であり、その設計手法は今もなお手本であり続けています。
残念ながら宮脇さんは今は既に他界されておられますが、「玄関の軒は低く低く!」「アプローチは脇から取れ!」など多くの格言は、私も今もプランニングの際に反芻して意識するキーワードになっています。
そんな宮脇さんの住宅を実際に見られるという機会は非常に貴重で、この日は大変な数の建築関係者が集まり、その数500人!久しぶりに上昇した気温と共に、皆汗だくで見学していました。

この住宅は、モダンで箱形の傑作住宅を多く残した宮脇氏には珍しく、民家のような深い軒を持つ瓦屋根が載せられています。ひとつには施主からの、「ボックスだけはかんべん願いたい」とのご要望があったことも明かしていますが、もともとこの敷地にあった古い蔵や長屋門との調和や尊重もその意図にはあったようです。
それでもただの瓦屋根の住宅とせず、RC造を併用した混構造で解くところが、安易な予定調和を嫌う宮脇さんらしい設計アプローチです。解説にも「和風の住宅を創ろうとは決して思わなかった」と強調されています。
でもぱっと見たらきっと誰でも「あれ、和風なんだ?」と思いますよね。当日配られた資料の解説文に、そんな当時の宮脇さんの葛藤のようなものも垣間見れて、興味深かったです。
◇
さてそんな宮脇さんの中山邸、本来はその外観やプラン構成などに多くの解説がなされるところですが、私はやはりそのディテールについ目が行ってしまいます。
しかし些末なことと侮るなかれ。そこにあったのは、まっすぐに注がれた設計者の愛情でした。神は細部に宿る?いえ、おもてなしこそが細部に宿ると思うのです。


たとえばこれ。屋根の開きを抑えるタイバーですが、通常は金属がそのまま露出するところ、わざわざ凝った加工を施した木で被覆しています。
しかも板のジョイント基準をタイロッド貫通部に合わせていることにも注目!工程としてタイバーが先行しますので、貫通する木部には割が出てきますが、それを意識させない仕舞いです。手段と目的を違えない。すべてがミリ単位で計算された空間であることが分かります。


続いてメラミン天板の小口処理。
一見なんてことないように見えます。しかしカウンター平面が曲面となっているところに注目!普通小口の大手材は無垢材ですので、こんなに自由自在には曲がらないはず。
よく見ると積層曲げ加工を施しています。これは北欧家具などに見られる曲げ木の技術のひとつです。トイレのこんな些末な部分であっても手を抜いていない。本気で取り組んでいるというところにぐっときます。私は背筋がピンと伸びる心境です。



続いてこれは寝室の出窓のディテールです。
これは宮脇さんも著書にディテール解説をされていて、宮脇さんの定番ディテールの一つだったようです。寝室の採光と通風を、まとめて出窓で解決するという方法です。
これはまだ若かりし頃本で読んで、住宅建築家はこんなことまで考えるのか!と舌を巻いたディテールでしたので、実物が見れて感無量でした。
私も寝室の枕元に出窓をよく作りますが、これは宮脇さんの影響によるものです。私はもっとディテールを簡略化させていますが、これは途方もなく凝っています。個人的には漏水や結露、コストが怖くてなかなか手が出せません(苦笑)


そしてこれは浴室の窓。
木製サッシュの内側に、さらにガラリ戸を設けています。意図としては、サッシュを開けるとその隙間から中が覗けてしまいます。こうしておけば、プライバシーは確保しながらも通風を取ることができる、安易にブラインドに逃げない、そういうことなのだろうと思います。
上部と、また浴槽がある下部にも窓があることにも注目!どうしてかわかりますか?
お風呂に入りながら、頬に外からの風が当たったら気持ち良いですよね。私もよくそういうことを考えます。また天井を見ると、

換気扇が埋め込まれています。おそらくこの形状からすると、換気扇が見えないようにガラリが嵌まっていたのではないかと推測します。
あぁ、と声を漏らしながらくつろいだ浴室で、天井を見上げたら無粋な換気扇が直付けされていたらどうでしょうか。きっとリオタデザインのお施主さんは今頃「あ、うちと同じ納まりだ!」と思っていることでしょう。
宮脇さんわかります!そうですよね。ひとつひとつに頷きながら、私と宮脇さんの対話は続きます。


次にこれはどうでしょう。わかりますか?上部のルーバー窓のオペレーターチェーンが、カーテンボックスを貫通して下まで落ちてきています。
これ自体は特段珍しいことではありません。しかしこの解決を見て下さい。5mmの穴を2つ開けているだけなんです。
大きめの穴をあけてチェーンを通すというのはうちもよくやるんですが、思えばボールチェーンは外れますから、その最小限の解決は5mmの穴二つでいいんです。どうして今まで気づかなかったんだろう?目から鱗とはこのことです。
手段と目的を違えない。ここでもひとつ頭が下がる思いでした。


最後にこちら。もはや説明はいりませんね。思わずニヤリ。
私は住宅設計の本質は”おもてなし”にあると思うんですね。全力で住まい手をもてなす。汚いところは見せない。気遣いを忘れない。
宮脇さんはそのエッセイやエピソードからも、毒舌家で豪快な人だったようです。しかしこうした設えの一つ一つを見ると、とても繊細で優しい人だったんだなということが伝わってきます。宮脇さんの背中がはるか遠くに思えます。
今回の見学会を主催して下さった住宅遺産トラストの皆さま、貴重な機会を誠にありがとうございました!

今回のフィンランド渡航の目的は、ヘルシンキのアールト展を見に行くことと併せ、かつて巡ったアールト建築をもう一度尋ねて、あらためて写真(アーカイブ)を残したいということがあった。
留学時代は使っていたデジカメも貧弱で、高画質なデジカメは高価で手が出せなかった。画像のサイズはわずか640ピクセル。そのため、レクチャーなどにも良い写真が使えず、また出版社から素材提供を求められても提供することができなかった。
そのかわり、当時一眼レフではよく写真を撮っていた。しかもポジフィルムで。ポジで撮るというのは、当時ヘルシンキで親交のあった写真家の根津修平君の影響だったように思う。
ポジフィルムはネガと違って通常プリントをしたりしないので、現像したフィルムはろくに確認もせずにスリーブのまま保管していた。確認しようにも、当時はライトボックスすら持っていなかったのだ。
そのため滞在中いろいろ撮った記憶はあっても何を撮ったかは覚えておらず、撮ったとしても大した量ではないと思っていた。データ化されていないので全体像も把握できず、そのまま引き出しの奥に仕舞われたままだった。なんともお粗末な話だ。
それを今回の旅行後にふと思い出し、ゴソゴソと引き出してみるとすごいお宝写真が詰まっていたことに気づきびっくりした。その数実に800枚近く!そんなに撮っていたんだ。

しかも現在では内部撮影が禁止されてしまったマイレア邸の内部写真や、中にはマイレア邸の屋根の上に上がって撮ったものも。今では絶対に許されないカットである。確かこの時は取材のコーディネーターを務めていて、特別に許可されたときの一枚だったと思う。
そして、ロシア領にありまだ改修半ばで廃墟化していたヴィープリ図書館の写真も出てきた。これも当時決死の覚悟で国境を渡り訪れたものだ。今は改修も終わりきれいになったようだが、当時の荒廃したヴィープリ図書館の面影を伝える貴重な資料だ。


そしてパイミオサナトリウム。今では結核療養所としての機能は終え、児童福祉財団のリハビリ病院になっているそうなので、この現役の医師たちが食堂を利用しているこの光景はもう二度と見ることはできない。
パイミオは当時付属の寄宿舎に泊まって模型の修復作業をしたのも良い思い出だ。

ほかにも行ったことすら忘れていた地方のアールト建築や、レイヴィスカなど他の建築家による地方の建築、そして若かりし時代の我々のポートレートなど。これだけの資料画像があれば、今後当面は困らないと思う。
早速これらはデータ化して、活用できるようにしたい。
これまでその存在に気づかなかった自分にもびっくりだけれど、逆に中途半端なデジカメで残しているよりも、はるかに再現性の高いスライドフィルムで記録を残していた当時の自分を褒めてあげたいと思う。
17. 07 / 30
北斎美術館
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> 建築・デザイン
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近くまで行ったので、遅ればせながら北斎美術館に足を延ばしました。
すみだ北斎美術館 http://hokusai-museum.jp/
設計者は世界的建築家である妹島和世さん。
建物についてはまわりの建築家から賛否両論、いろんな意見を聞いていたので自分の目でも確かめたく。ふむふむ、それぞれがどういう意味でおっしゃっていたのか理解しました。私ですか?
これ、北斎じゃなくてよくね?
