東京ビックサイトにて開催のジャパンホームショー「建築知識・実務セミナー」にて登壇させて頂くことになりました。実務セミナーには一昨年登壇し今回が2度目となります。
今回は日鉄住金鋼板さんとのタイアップセミナーで、タイトルはずばり「次世代ガルバリウム鋼板でつくる表情は強くて美しい」。板金だけで濃密に1時間を語ります。そんなにネタがあるのかって?大丈夫です。2時間でも足りません。
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[ジャパンホームショー|建築知識実務セミナー]
『次世代ガルバリウム鋼板でつくる表情は強くて美しい』
講師:関本竜太
日時:10月26日(水)15:30~16:30
場所:東京ビックサイト 東1ホール内
定員:150名
>> 概要・お申し込みはこちらより
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リオタデザインでは、これまでに板金外壁の住宅を何件やってきたでしょう。建築に携わる全ての職種の中で、大工と板金屋は私の中では不動のツートップ、もっとも尊敬すべき職人さんであるという考えは今も微塵も揺らぎません。
と、ここで語り始めると止まらなくなるのでやめておきましょう。
先日は日鉄住金鋼板の担当者の方とも打合せをしたのですが、私のあまりの板金オタクぶりに、こんなに板金に詳しい設計者に会ったのは初めてだと呆れられてしまいました。
はたまた、現場では尊敬する板金職人に私が求める板金納まりは「日本一難しい」と、これまた最高の褒め言葉を頂きました。逆に日本一難しいリオタデザインの板金を納める板金職人は、日本一の職人とも言えるでしょう。
現在「建築知識」に連載中の「リオタのディテール流儀」も、水回りからガレージまで広範なテーマを扱っているのですが、ダントツに板金外壁の回の評判が良かったようです。
ということで、今おそらく日本中の設計者が一番知りたいであろう、現時点で私が考えるベストな板金仕上げ/納まりについて、定番そしてウラワザまでたっぷりと解説したいと思います。
気になりますか?
それではここで、セミナー内容を特別にちらっとだけご紹介したいと思います!
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ああ~っと。スミマセン!
担当者であるエクスナレッジのN山さんより自主規制がかかってしまいました。
少しくらいいいのに。文句を言うならN山さんに。
ちょっと聞いてみたくなった方は是非会場にお越しください。
お待ちしております!
△2014年のセミナーの様子 16. 10 / 08
the chair ≠ a chair
author
sekimoto
category
> 北欧
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表参道のスパイラルにてARTEKのドムスチェア展がはじまり、昨日はオープニングレセプションへと足を運んできた。今回はミナ・ペルホネンの皆川明さんとのコラボ作品も同時に発表され、トークセッションには非常に多くの方が会場に詰めかけていた。
ドムスチェアといえばフィンランドのデザイナー、イルマリ・タピオヴァーラの代表作の一つであるが、日本では一部の愛好家を除いては無名に近い椅子とも言えるかもしれない。正直言って、ぱっと見でもイームズの椅子のような洗練された印象は受けないし、むしろちょっとモサっとした印象すら受ける。好き嫌いがはっきり分かれる椅子とも言えるかもしれない。
けれども私はタピオヴァーラの椅子に強く惹かれる。フィンランドを代表する椅子はアールトではなく、タピオヴァーラではないかと思うほど。この椅子が発するオーラはフィンランドという国そのものという気がする。
いつから「北欧=おしゃれ」という構図になったのだろう。
日本のメディアの取り上げ方によって、日本での北欧の立ち位置はずいぶん変わったような気がする。北欧の中でもとりわけフィンランドに関していえば、おしゃれな国というより、素朴で、ちょっと田舎で、都会的洗練とは真逆にあるような国、というのが私の印象だ。
だから惹かれる。日本で気を張り詰めた生活をしていると、バランスを取るようについフィンランド的なものを求めてしまうのだ。
写真は私の所蔵するドムスチェア。見ての通りひどい程度のものだ。これは2001年にフィンランドから帰国する際に、フィンランド人の友人の工房にあったものをもらい受けたもの。
こんな汚い椅子どうするんだ?と訊かれたけれど、どうしても持って帰りたかった。幸い半分壊れかけていたので、バラバラにして郵便小包で送った。今でも座ることは出来ない。
フィンランドに渡ったとき、とある階段の踊り場に置かれていたのがこの椅子だった。かわいらしい椅子だと思った。当時フィンランドに強く惹かれていたから、この椅子の魅力はフィンランドという国の魅力そのものだと、その時直感的に思った。だからタピオヴァーラの椅子は、私にとって原点のようなものなのだ。
過去にはクライアントの希望もあり、「隅切りの家」という住宅にドムスチェアを入れたこともある。その強い個性は、より強い個性の家の中でこそ輝くとその時しみじみと感じた。
クセのある椅子だけに、私はクライアントにはタピオヴァーラは一切勧めない。前述のような話をしたこともない。それなのに、うちのクライアントはタピオヴァーラを選ぶ確率が高い。相当難易度の高い椅子だと思うのだけれど、クライアントの感性がそれを呑み込むのだろう。そして私のそれともその瞬間につながることになる。
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アルテック ドムス チェア展覧会
“the chair ≠ a chair” (ザ チェア イズ ノット ア チェア)
会期:2016年10月8日(土)-16日(日) 入場無料 会期中無休
時間:11:00~20:00
会場:スパイラルガーデン (スパイラル1F)
http://www.spiral.co.jp/e_schedule/detail_2050.html
来週10月16日ですが、軽井沢の脇田美術館のアールト関連シンポジウムに、SADIの益子先生、平山先生らと共に登壇させて頂きます。アールト作品の保存問題、いろんな角度から問題提起ができそうです。
SADIではどんなに告知しても北欧関連講演で50人集めるのは至難の業なのですが、さすが脇田美術館100人集めるというのですからすごいです。遠いですが、いらして頂くと吉村順三氏設計の脇田山荘の見学もできるそうです。
今日はその打合せでしたが、益子先生、平山先生のお話を聞きながら、ゆっくりお酒が飲めるというのも私にとっては最大の役得だったりします。
詳細はこちらより
脇田美術館|軽井沢で学ぶ建築デザイン [近代建築デザイン講義] 2016
http://www.wakita-museum.com/event/event/wood_design_2016/index.html
16. 09 / 30
ディテールの時代
author
sekimoto
category
> 思うこと
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ここのところ立て続けに映画を見た。ひとつは今話題の「君の名は。」、そして「シンゴジラ」。どちらもとても良い映画だった。
ストーリーやジャンルは違うけれど、私はそこになんとも言えない現代性を感じた。一言でいえば「今どき」な感じがした。
それをあえて別の言葉で表すとすれば”ディテール性”のようなものかもしれない。要は、今や人々はまやかしのふわっとしたイメージではなく、よりリアルなもの、実際にそれが存在することの証明のようなものを求めているのではないかと思うのだ。
例えば「君の名は。」は、ストーリーの大枠としてはありえないSF的要素が入り込みながらも、そこに登場する人物描写や、背景、小物などは実にリアルに描きこまれている。実在の場所もいくつも出てくる。ともすると、これは実際に起こった出来事なのではないかと錯覚するほどに。ある意味、ジブリの”ナウシカ”や”トトロ”とは一線を画す世界観といえるかもしれない。
一方の「シンゴジラ」も、往年のゴジラ作品との大きな違いは、やはりその”リアルさ”にある。ネタバレになるのであまり書けないが、とにかく今この東京に実際にゴジラが現れたらどうなるかという状況を、やりすぎと思えるほどにリアルに描いている。
かつてのウルトラマンシリーズでは、街中でウルトラマンと怪獣が戦い、そしてウルトラマンは3分で勝負をつけて宇宙へと帰って行った。最初からスペシウム光線を使えばいいのにとか、怪獣を倒した際の街の被害総額は?とか、そういう視点は頭の隅にあっても言ってはいけないことになっていた。
ディテールへの言及は野暮であり、無粋だったからだ。「そういうもの」として娯楽を楽しむ。それが暗黙のルールだったのだ。
しかし、現代の共感性はディテールにこそ宿る。みんな気づきはじめてしまったからだ。結局ディテールが大事なんじゃないかということに。ふわっと都合の良いファンタジーだけを語るということに、みんな「もうダマされないぞ」と思い始めている。
建築もそうだ。もう「コンセプトを語る」という建築のあり方は一世代前の建築家のあり方といえる。今どき”コンセプト”なんていう言葉を発すること自体が寒い。大切なのは具体的にどうするかという方法論(ディテール)であり、実際にどうだったかという経験値(フィードバック)。そこを語らずして、クライアントの信頼を得ることは出来ない世の中といえる。
ディテールの時代。詰まるところ、それは地に足着けて地道にコツコツやってる人だけが生き残れる世の中、ということなんじゃないかと思う。
建築の設計をしていて、こういうプランや納まりをすると大変そうだなと思うことが多々ある。けれどもそれをやったらすごく良くなる、ということが分かっているとおのずと難しい方の道を選ぶことになる。
詰まるところ建築というのは二択があれば、困難を選ぶ確率がすこぶる高い分野であると言える。特に独立して設計を生業としているような者は、これまでの人生に於いてもそういう選択肢を選択し続けてきた者とも言えるかもしれない。
そういう意味では、建築には本質的に「マゾヒスト(M)的な気質」がどこかにある。自分をどんどん窮地に追いやり、それを嬉々として受け入れているようなところがあるように思えてならない。
一方で、その受け入れた困難はそこでは終わらない。設計をすれば今度はそれを実現する施工者という立場の者が現れる。するとこの者の立場は一転する。自ら選んだ困難の道を、今度は人を巻き込み、これを強いる立場となるのだ。
その者は出来ないと言う者を説得し、時に上から時に下から、また時には脅し(?)、拒めばどうして出来ないのかと責めたてる。その者の下に付いた部下はもっと悲惨であろう。そういう意味において、建築には本質的に「サディスト(S)的な気質」があると言わざるを得ない。
建築の創作のプロセスにおいては、このSとMとが交互に現れる。
自らの背後には常に批判的な”黒い”人格がいて、自分のやることなすことをコテンパンにこき下ろす。それに対して負けじと必死に反論を試みながら設計は進んでゆく。この場合の背後の人格は、いわば「世間という名の悪意」というべきものであろう。
その血も涙もないようなツッコミの数々には、自分の中にこんなにも底意地の悪い一面があったのかと自分でも引くくらいであるが、一方では「建築はSである」という論証がここでも証明されることになる。
ところが、その状況は他ならぬ自らが作り出したものであり、その批判を甘んじて受け入れている自分を認めるならば、やはり「建築はMである」とも言えよう。
というわけで、もし私が建築に必要な素養とは何ですか?と問われれば、迷わず「SとMです」と答える。重要なのはそのバランスで、Sが強すぎれば人の心は離れ、Mが強ければ状況に流されてしまう。いずれも優れた建築はできない。
ちなみに私の周囲をタイプ分けするならば、Sが8割 Mが2割である。(当社比)
詰まるところ建築というのは二択があれば、困難を選ぶ確率がすこぶる高い分野であると言える。特に独立して設計を生業としているような者は、これまでの人生に於いてもそういう選択肢を選択し続けてきた者とも言えるかもしれない。
そういう意味では、建築には本質的に「マゾヒスト(M)的な気質」がどこかにある。自分をどんどん窮地に追いやり、それを嬉々として受け入れているようなところがあるように思えてならない。
一方で、その受け入れた困難はそこでは終わらない。設計をすれば今度はそれを実現する施工者という立場の者が現れる。するとこの者の立場は一転する。自ら選んだ困難の道を、今度は人を巻き込み、これを強いる立場となるのだ。
その者は出来ないと言う者を説得し、時に上から時に下から、また時には脅し(?)、拒めばどうして出来ないのかと責めたてる。その者の下に付いた部下はもっと悲惨であろう。そういう意味において、建築には本質的に「サディスト(S)的な気質」があると言わざるを得ない。
建築の創作のプロセスにおいては、このSとMとが交互に現れる。
自らの背後には常に批判的な”黒い”人格がいて、自分のやることなすことをコテンパンにこき下ろす。それに対して負けじと必死に反論を試みながら設計は進んでゆく。この場合の背後の人格は、いわば「世間という名の悪意」というべきものであろう。
その血も涙もないようなツッコミの数々には、自分の中にこんなにも底意地の悪い一面があったのかと自分でも引くくらいであるが、一方では「建築はSである」という論証がここでも証明されることになる。
ところが、その状況は他ならぬ自らが作り出したものであり、その批判を甘んじて受け入れている自分を認めるならば、やはり「建築はMである」とも言えよう。
というわけで、もし私が建築に必要な素養とは何ですか?と問われれば、迷わず「SとMです」と答える。重要なのはそのバランスで、Sが強すぎれば人の心は離れ、Mが強ければ状況に流されてしまう。いずれも優れた建築はできない。
ちなみに私の周囲をタイプ分けするならば、Sが8割 Mが2割である。(当社比)
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