最近、若い頃のように雑誌などで建築をビジュアルとして熱心に眺めることがなくなった。あまり参考にならないことが分かってきたからかもしれない。

好きだし勉強にはなるけれど、参考にはならない。極論になってしまうけれど、鎖国政策が江戸文化を生み出したように、知識はある程度溜め込んだら閉鎖系にして熟成させた方が良いと思う。なぜなら、ほとんどの建築の問題は応用問題であり、公式を覚えるより解き方を覚えた方が遙かに効率が良いからだ。

ひとが導き出した答えは、その敷地、クライアントといった諸条件が絡み合って奇跡的に生み出されたものであって、その結果だけを拾って自分の設計に当てはめることなどできない。できそうで、できない。

だから部分部分を見るとため息が出たり、よく考えられているなぁと感心することはあっても、それらを集めてベストアルバムみたいなものを作ったらそれは最高傑作になるかと言ったら、そうではない。野球ですべて4番バッターを集めたら優勝できるかという問いに似ている。そこには広島カープのようなドラマは生まれない。

つまるところ、建築は完璧じゃない方が魅力的なんだと思う。手を抜いたり、失敗するという意味の「完璧じゃない」ではなく、「にんげんだもの」のほう。がんばりすぎないディテールは潔く美しい。でも一方では「やればできる」のがんばりが同じくらいあって欲しい。人が必死に努力を重ねる姿は尊く、そしてやはり美しい。

魅力ある建築というのは魅力ある人と同じなんだと思う。志は立派なんだけど、完璧じゃなくて、ちょっとだらしなくて、でもユーモアがあってきっちり約束は守るみたいな。

ここから先に進むには、もっと人間を磨かないといけないんだろうなと思います。

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sekimoto

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何か物を手に入れようとする時、何でもいいや、とか、これでいいや、と思う人は多いと思います。けれども、これが良い、これしかない、と思ったものを一つ一つ手に入れて行くと生活は豊かになってゆきます。

家づくりもそうなんですね。何でもいいや、とか、これでいいや、と思って建てるのではなく、これが良い、これしかない、と思ったものを建てるとその後の人生は大きく変わってゆきます。私はそれはこだわりではなく、愛情の問題なのだと思っています。

先週末、3月に竣工したVALOの撮影がありました。
この家には美しいものしかありません。けれども美術館のような冷たさはありません。北欧家具をおしゃれだと言う人がいます。けれども、それが好きな人にとっては、それがあることこそが日常であり幸せなのです。

我々が込めたものと同じくらい、愛情の詰まった空間でした。


グッドデザイン賞ってなんだろう?というのがずっとあった。製品カタログなどを見ていると、写真の脇に”ドヤ”という感じで印字されているGマーク。中にはぱっと見にはどこがどうグッドデザインなんだろう?というものも結構ある。

最近では特定の個人の依頼を受けて建てられた住宅とか、ある種のシステムや取組みのようなはっきりした形が定義できないものまでその審査対象は広がっているようだ。

一方で食品によく付与されるモンドセレクションというものもある。お菓子に「モンドセレクション金賞受賞」などと書かれていると、その国連本部みたいなメダルのイメージと相まって、まるで「カンヌで金獅子賞取りました」的な威厳すら感じる。食べてみると普通においしい。国際的なおいしさかどうかは別として。

仕組みは両者ともよく似ている。特定の団体に一定の安くはない費用を支払って審査をしてもらうということだ。両者ともお金がかかる賞だとよく言われる。そしてその受賞率の高さから、”お金で買う賞”なんていう揶揄もよくされる。

応募している企業にとってGマークは、自社で開発した製品にデザインの専門家のお墨付きがもらえるというメリットがある。ひとたびGマークがつけば、消費者としてもないよりもあったほうが選びやすくなる。

もちろんそれは売り上げにもつながるものだから、企業にとってこの賞のメリットは非常に大きいと想像できる。その対価として多少お金がかかったとしても、それは必要経費といえる。制度としては極めて商業的だ。

逆にそういう印象があるだけに、正直私はあまりグッドデザイン賞に良い印象を持っていなかった。自分とは縁のない賞だとも思っていた。



ところが今年、知人から招待チケットをもらってその展示会に足を運んでみたところ、その考えが大きく覆されるのを感じた。どう覆されたかというと、出展されている製品群のデザインの質の高さにである。実際に足を運び、受賞作に目を通してそのレベルの高さに驚かされた。

それはまさに日本のものづくりの熱量がすべてここに集まっているかのような感覚だった。制度を憎んでデザインを憎まず。それらの製品デザインに正面から向き合ってきたまじめで誠実なデザイナー達の顔が思い浮かぶような、そんなピュアなデザインをいくつも見ることができた。


グッドデザイン賞と言えば、今や誰でも知っている日本一有名なデザイン賞と言える。

もちろん建築でもデザインでも、グッドデザイン賞に限らず多くのコンテスト等があり、国際的にも有名な賞や権威ある賞もある。しかしベタだけど、グッドデザイン賞は日本一有名なデザイン賞であることには違いない。

わかりやすいということは共感の総量が大きいということだ。一部の人にしか分からない価値よりも、誰でも共有できる価値の方が社会的には尊いと私は思う。

建築でもデザインでも、その専門性が高くなればなるほど、一部の専門家にしか分からないような価値軸というものが出てくる。しかし、デザインが市民権を持つためには、子供からお年寄りまでが理屈抜きで楽しめるものや、理解できるものでなくてはならない。

いかんせん商業色が強いだけに、色眼鏡で見られることの多いGマークだけれど、ものづくりに関わる企業の努力や社会貢献を普遍的な価値軸に乗せる取り組みとしては、もう少し評価されても良いように思う。

受賞された皆さま、おめでとうございます。



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sekimoto

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ここのところ立て続けに映画を見た。ひとつは今話題の「君の名は。」、そして「シンゴジラ」。どちらもとても良い映画だった。

ストーリーやジャンルは違うけれど、私はそこになんとも言えない現代性を感じた。一言でいえば「今どき」な感じがした。

それをあえて別の言葉で表すとすれば”ディテール性”のようなものかもしれない。要は、今や人々はまやかしのふわっとしたイメージではなく、よりリアルなもの、実際にそれが存在することの証明のようなものを求めているのではないかと思うのだ。

例えば「君の名は。」は、ストーリーの大枠としてはありえないSF的要素が入り込みながらも、そこに登場する人物描写や、背景、小物などは実にリアルに描きこまれている。実在の場所もいくつも出てくる。ともすると、これは実際に起こった出来事なのではないかと錯覚するほどに。ある意味、ジブリの”ナウシカ”や”トトロ”とは一線を画す世界観といえるかもしれない。

一方の「シンゴジラ」も、往年のゴジラ作品との大きな違いは、やはりその”リアルさ”にある。ネタバレになるのであまり書けないが、とにかく今この東京に実際にゴジラが現れたらどうなるかという状況を、やりすぎと思えるほどにリアルに描いている。

かつてのウルトラマンシリーズでは、街中でウルトラマンと怪獣が戦い、そしてウルトラマンは3分で勝負をつけて宇宙へと帰って行った。最初からスペシウム光線を使えばいいのにとか、怪獣を倒した際の街の被害総額は?とか、そういう視点は頭の隅にあっても言ってはいけないことになっていた。

ディテールへの言及は野暮であり、無粋だったからだ。「そういうもの」として娯楽を楽しむ。それが暗黙のルールだったのだ。

しかし、現代の共感性はディテールにこそ宿る。みんな気づきはじめてしまったからだ。結局ディテールが大事なんじゃないかということに。ふわっと都合の良いファンタジーだけを語るということに、みんな「もうダマされないぞ」と思い始めている。

建築もそうだ。もう「コンセプトを語る」という建築のあり方は一世代前の建築家のあり方といえる。今どき”コンセプト”なんていう言葉を発すること自体が寒い。大切なのは具体的にどうするかという方法論(ディテール)であり、実際にどうだったかという経験値(フィードバック)。そこを語らずして、クライアントの信頼を得ることは出来ない世の中といえる。

ディテールの時代。詰まるところ、それは地に足着けて地道にコツコツやってる人だけが生き残れる世の中、ということなんじゃないかと思う。
建築の設計をしていて、こういうプランや納まりをすると大変そうだなと思うことが多々ある。けれどもそれをやったらすごく良くなる、ということが分かっているとおのずと難しい方の道を選ぶことになる。

詰まるところ建築というのは二択があれば、困難を選ぶ確率がすこぶる高い分野であると言える。特に独立して設計を生業としているような者は、これまでの人生に於いてもそういう選択肢を選択し続けてきた者とも言えるかもしれない。

そういう意味では、建築には本質的に「マゾヒスト(M)的な気質」がどこかにある。自分をどんどん窮地に追いやり、それを嬉々として受け入れているようなところがあるように思えてならない。

一方で、その受け入れた困難はそこでは終わらない。設計をすれば今度はそれを実現する施工者という立場の者が現れる。するとこの者の立場は一転する。自ら選んだ困難の道を、今度は人を巻き込み、これを強いる立場となるのだ。

その者は出来ないと言う者を説得し、時に上から時に下から、また時には脅し(?)、拒めばどうして出来ないのかと責めたてる。その者の下に付いた部下はもっと悲惨であろう。そういう意味において、建築には本質的に「サディスト(S)的な気質」があると言わざるを得ない。

建築の創作のプロセスにおいては、このSとMとが交互に現れる。

自らの背後には常に批判的な”黒い”人格がいて、自分のやることなすことをコテンパンにこき下ろす。それに対して負けじと必死に反論を試みながら設計は進んでゆく。この場合の背後の人格は、いわば「世間という名の悪意」というべきものであろう。

その血も涙もないようなツッコミの数々には、自分の中にこんなにも底意地の悪い一面があったのかと自分でも引くくらいであるが、一方では「建築はSである」という論証がここでも証明されることになる。

ところが、その状況は他ならぬ自らが作り出したものであり、その批判を甘んじて受け入れている自分を認めるならば、やはり「建築はMである」とも言えよう。

というわけで、もし私が建築に必要な素養とは何ですか?と問われれば、迷わず「SとMです」と答える。重要なのはそのバランスで、Sが強すぎれば人の心は離れ、Mが強ければ状況に流されてしまう。いずれも優れた建築はできない。

ちなみに私の周囲をタイプ分けするならば、Sが8割 Mが2割である。(当社比)