24~25日の2日間に亘りまして「花小金井の家」のオープンハウスを実施させて頂き、大変多くの方に足をお運びいただきました。お越しくださった皆さま、誠にありがとうございました。
この住まいに込めた外部への意識や街並みへの配慮については先に書いた通りですが、内部の設えについても思うところを少し書きたいと思います。
今回、目上のとある建築家の方からはこんなコメントを頂きました。「兎角、機能とデザインとを天秤に掛けがちだが、見事にコトのデザインを両立している」
「コトのデザイン」
なるほどと思いました。ようやく我々の仕事を最も的確に表現した言葉と出会えたような気がしました。
同業の設計者などからは以前より、とにかく我々の設計は細かい、建主に向き合った設計であるということをよく言われてきました。
でも私にはいつもこれがとても不思議で、だって我々より細かい繊細な設計をされている方は他にもたくさんいるし、住宅を真面目に設計されている方なら、皆さん建主に向き合っていないはずがないからです。
おそらくリオタデザインの設計の最大の特徴は、とにかく「モノではなくコトを設計している」ということなのだろうと思います。
例えば収納ひとつとっても、多くの設計者は収納場所を考えます。納戸を設けたり、吊り戸棚などを設けて、内部には可動棚などを設けるところまでかもしれません。これはモノの設計です。
我々はそこに、いつ、どんな物を、どんな風にしまって、どんな風に取り出すかというシュミレーションをした上で、そこに例えば無印良品のラタンボックスが何個並ぶかというところまでを計算して設計に織り込んでゆきます。これはコトの設計ということになるかもしれません。
あるいは床にスキップ(段差)を設けると、空間に奥行き感が生まれたり、デザイン的にも特徴ある空間になります。写真映えもするかもしれない。これはモノの設計ですね。
けれども、この段差にふと腰掛けた時に窓の外の緑が目に飛び込んできて、背板を省いた収納を通して向こう側の家族の顔が見えると楽しいだろうなという設計は、コトの設計です。
私はそんな設計の趣旨を相手に語る時、つい熱が入って小芝居をしているようになることがあります。でもそうしないと伝わらないんです、我々の設計は。実際に出来上がって生活すればわかって頂けるのですが。
そんな我々の設計手法を、私は「映画のワンシーンを撮るように」と表現してきました。私は映画を撮ったことはありませんが、映画監督の気持ちはとてもよくわかります。シーンごとにストーリーがあり、カメラアングルもここでなくてはいけないというポジションがあるはずなのです。
機能かデザインかではなく、コトをデザインする。
今回の住宅はそんな言葉がぴったりくるような住宅でした。
本日、大学の非常勤講師として最後の授業を終えました。
母校である日本大学理工学部建築学科の非常勤講師は、2007年より通算で10年務めさせて頂きました(途中2年の退任期間あり)。前期後期をあわせると、のべ400人くらいの学生さんを教えたことになります。
しかし10年、400人教えただけ教え方が上手くなったかというと全くそんなことはなく、もしかしたら過去のほうが上手く教えられていたのではないかと思うことさえあります。皮肉なものです。
啐啄(そったく)という言葉があります。雛が卵から孵ろうとするとき、卵の内側から嘴でコツコツとつつく音に反応して、親鳥が外側から殻をつつき割るという状態。禅においては、師弟間の呼吸がぴったり合い、機が熟したタイミングで師が弟子に教えを授けるさまを差したりします。
親子の関係もそうですが、上から一方的に授ければ人はそれを吸収するわけではなく、教える者、教わる者同士が共に心を開き、相手の言葉に耳を傾ける状態を作らなければ教育というものは成立しません。まさに啐啄です。
人との出会いというものはいつも一期一会です。あるときにはクラスの意識と自身の感性がぴたりと合って、素晴らしい作品群が次々と生まれることもあれば、最後までちぐはぐで自分の言葉が学生の心に届いていないと感じるときもあります。そんな時の無力感といったら…。
教えるという技術はおそらく着任当時から比べれば上がっていると思いますが、人の心は残念ながら技術では開きません。前回は開いたアカウントに次はまた鍵がかかり、最後にようやく開くと次にはまた鍵がかかり。この10年はまさにその繰り返しだったような気がします。
ごく希に、今日は良い指導ができたと手応えを感じて帰路につくこともありましたが、ほとんどはドーンと落ち込んで帰路についていました。学生は好きでしたが彼らの能力を引き出しきれない自分が歯がゆく、自分は講師には向いていない、いつもそう思っていました。そんな日々からもようやく解放されます。
それでも続けてこれたのは、たまに学生がこちらの言葉に反応して見せる、何かを発見したような好奇心に満ちた表情。あの表情を引き出したくて毎回どんな言葉をかけようか考え続けてきました。私の未熟な指導についてきてくれた学生には感謝しかありません。どうもありがとう。
そして大学関係者の皆さまにも心より御礼申し上げます。
もう大学からお呼びがかかるようなことはないでしょう。私のフィールドは、やはりリアルな設計の現場にあるような気がします。これからは分相応のフィールドで、自分の力を出し切りたいと思います。
スタッフは二人いれば仕事は回せる。しかし、二人だけだと各自の仕事で手一杯になる。三人いるとコミュニケーションが生まれる。スタッフ同士で教え合うようになる。
テーブルでは、中堅スタッフが不慣れなスタッフに私に代わって図面指導をしている。口調が私に似ているのはご愛敬。こういうのがとても嬉しい。スタッフが自ら考え、行動する組織は美しい。
世の中には地雷がたくさん埋まっていて、小心者の私はいつもビクビクしながら暮らしている。
ところがある人は、そこに地雷があることに気づかずにずんずん進んでゆく。見ていてハラハラする。またある人は、そこには地雷があるよと言っているのに「大丈夫!」と言って、やはりずんずんと進んでゆく。やっぱりハラハラする。
人にはそれぞれの地雷センサーがあって、危ない場所や状況は避けて通るようにできている。でもそのセンサーの感度には個人差があって、センサーが鈍い人もいれば敏感な人もいる。
敏感な人から見たら、鈍い人は許しがたく鈍い。鈍い人から見たら、敏感な人は神経質なほどに敏感だ。
前述の通り、私は小心者なのでいつもビクビクしながら仕事をしている。こんなことを言ったらこう思われるんじゃないか、こういう設計をしたらこういうことが起こるんじゃないか、怒られるんじゃないか、訴えられるんじゃないか…。
住宅は毎日住まう器なので、1の不具合は増幅し10になる。設計者の地雷センサーの感度は常にMAX、針は振り切れるほどに。それでも年に何度か爆竹並みの地雷を踏む。これは避けられない。
大博打を打たない代わりにドカンと大きな賞を取るわけでもなく、いつまで経っても大成しないわけだけれど、その代わり誰かに訴えられることもなく、ちょいちょいミスはあっても大ポカをやらかすことなく、現在に至る。
あながち、私の地雷センサーはそう悪くないんじゃないかと思うことにする。
ところがある人は、そこに地雷があることに気づかずにずんずん進んでゆく。見ていてハラハラする。またある人は、そこには地雷があるよと言っているのに「大丈夫!」と言って、やはりずんずんと進んでゆく。やっぱりハラハラする。
人にはそれぞれの地雷センサーがあって、危ない場所や状況は避けて通るようにできている。でもそのセンサーの感度には個人差があって、センサーが鈍い人もいれば敏感な人もいる。
敏感な人から見たら、鈍い人は許しがたく鈍い。鈍い人から見たら、敏感な人は神経質なほどに敏感だ。
前述の通り、私は小心者なのでいつもビクビクしながら仕事をしている。こんなことを言ったらこう思われるんじゃないか、こういう設計をしたらこういうことが起こるんじゃないか、怒られるんじゃないか、訴えられるんじゃないか…。
住宅は毎日住まう器なので、1の不具合は増幅し10になる。設計者の地雷センサーの感度は常にMAX、針は振り切れるほどに。それでも年に何度か爆竹並みの地雷を踏む。これは避けられない。
大博打を打たない代わりにドカンと大きな賞を取るわけでもなく、いつまで経っても大成しないわけだけれど、その代わり誰かに訴えられることもなく、ちょいちょいミスはあっても大ポカをやらかすことなく、現在に至る。
あながち、私の地雷センサーはそう悪くないんじゃないかと思うことにする。
https://www.huffingtonpost.jp/
フィンランドの次期首相に、34才の女性サンナ・マリンさんが就任するとのニュースが昨日報じられた。やってくれたなフィンランドと思う。とても誇らしく、そして自分のことのように嬉しい。
フィンランドという国が好きなのはこういうところだ。型にはまらない。常識に囚われない。実力主義。差別をしない。本当の意味のクリエイティブとはこういうことではないかと思う。曇りのない目で現実を見つめる。そういう気質がフィンランドという国にはある。
フィンランドという国に強烈に惹かれる根はここにある。自分もかくありたいと思う。
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