19. 12 / 21

地雷センサー

author
sekimoto

category
> 仕事
> 思うこと


世の中には地雷がたくさん埋まっていて、小心者の私はいつもビクビクしながら暮らしている。

ところがある人は、そこに地雷があることに気づかずにずんずん進んでゆく。見ていてハラハラする。またある人は、そこには地雷があるよと言っているのに「大丈夫!」と言って、やはりずんずんと進んでゆく。やっぱりハラハラする。

人にはそれぞれの地雷センサーがあって、危ない場所や状況は避けて通るようにできている。でもそのセンサーの感度には個人差があって、センサーが鈍い人もいれば敏感な人もいる。

敏感な人から見たら、鈍い人は許しがたく鈍い。鈍い人から見たら、敏感な人は神経質なほどに敏感だ。

前述の通り、私は小心者なのでいつもビクビクしながら仕事をしている。こんなことを言ったらこう思われるんじゃないか、こういう設計をしたらこういうことが起こるんじゃないか、怒られるんじゃないか、訴えられるんじゃないか…。

住宅は毎日住まう器なので、1の不具合は増幅し10になる。設計者の地雷センサーの感度は常にMAX、針は振り切れるほどに。それでも年に何度か爆竹並みの地雷を踏む。これは避けられない。

大博打を打たない代わりにドカンと大きな賞を取るわけでもなく、いつまで経っても大成しないわけだけれど、その代わり誰かに訴えられることもなく、ちょいちょいミスはあっても大ポカをやらかすことなく、現在に至る。

あながち、私の地雷センサーはそう悪くないんじゃないかと思うことにする。

https://www.huffingtonpost.jp/

フィンランドの次期首相に、34才の女性サンナ・マリンさんが就任するとのニュースが昨日報じられた。やってくれたなフィンランドと思う。とても誇らしく、そして自分のことのように嬉しい。

フィンランドという国が好きなのはこういうところだ。型にはまらない。常識に囚われない。実力主義。差別をしない。本当の意味のクリエイティブとはこういうことではないかと思う。曇りのない目で現実を見つめる。そういう気質がフィンランドという国にはある。

フィンランドという国に強烈に惹かれる根はここにある。自分もかくありたいと思う。


地元の駅前のTSUTAYAが閉店した。時代の節目を感じる。

今や音楽もサブスクリプションの時代だ。APPLE MUSICなどに登録しておけば、定額であらゆる音楽が聴き放題になる。映画だってテレビがネットに繋がっていれば好きなタイトルが見放題だ。何もわざわざ店に足を運び、また返却するという手間をかける必要はない。

私自身、音楽も映画も上記の方法で視聴しているので、駅前にTSUTAYAがなくなっても何も困らない。なんなら、しばらくTSUTAYAがなくなっていることに気づかなかったくらいだ。

けれども、音楽はスマホで聴く人ばかりではないはずだ。テレビをネットに繋げていない人も多いはず。もしかしたら、自分にとっては当たり前のことでも、世間的にはまだまだ少数派である可能性もある。

今どきメールをしない人なんているの?いる、確実に。年賀状なんてもう書かないでしょ。いや書くし。音楽はサブスクリプションでも、私は家には固定電話を置く派でもある。自分は先進的だと思っていても、意外なところで保守的なところも残っている。

それなのに時代はどんどん変わる。人を置いてきぼりにして。

TSUTAYAがなくなっても何も困らない人にはわからないことが、世の中にはあるような気がする。TSUTAYAがなくなって困る人たちのことを、最近考えている。
日本構造デザイン賞を受賞した大学同期の与那嶺を祝う会ということで、同じく同期の友人数名に声をかけ食事をした。それぞれの友人とは私も個別の付き合いがあるものの、このメンバーが勢揃いして集まるというのはどのくらいぶりだろう。本当に楽しく、話と笑いの絶えない時間だった。そして感慨深かった。

我々は「意匠」「構造」と専門は異なれど、大学を卒業して、大手組織事務所ではなくいわゆる「アトリエ」と呼ばれる小さな設計事務所に就職した、いわゆる”アトリエ派”だ。

私の卒業した日大理工学部は、学年に学生が300人もいるというマンモス校だが、その中でいわゆるアトリエに就職しようという者は10人にも満たない。つまり我々は同期の中でも希有な”変わり者”たちだとも言える。

組織で働く人がそうではないとは言わないけれど、アトリエで働くということは個人の自由意志に基づいて仕事をすることだと思う。我々はそう自分たちを鼓舞してきたし、この道に進もうとする人にかける言葉にもなっている。


人は自由を求める。そしてその自由に制約をかけるものに対して強く反発しようとする。ところが、あらためて自由になった者は戸惑い、往々にして再び制約を求めはじめる。自由とは責任そのものだからだ。

校則に不満がある高校生も、制服を着なくて良いと言われたらどんな服で学校に行くだろうか。会社にはスーツを着てこなくて良いと言われたら?人にはこれまでなかった悩みが増えるに違いない。

そもそも、学校や会社には行かなくて良いと言われたらどうだろうか。勉強は自分でやれば良いし、仕事にしてもしかり。そんなに不満があるならやめてしまえばいい。自分で思うように、理想と思える仕事を自分で考え実現すればいいじゃないか。そう言われたら、あなたならどうするだろうか。

我々はそうやって生きてきた。それがアトリエという生き方なのだ。

代わりに我々は安定的な収入や未来を放棄した。予定調和に何の価値がある。自ら切り拓いたもの以上に尊いものなどない。ぐらつきそうになる気持ちを支えるのは、いつもそんな意地のようなものだ。

私は学生に言う。
社会に対する違和感や矛盾があったとき、それを変えるのは誰か?たぶん大人は変えてくれない。それを変えるのは次の時代を生きるあなたたちなのだということ。今世の中にある住宅、図書館、美術館や学校、すべてにあなたは満足していますか?満足しているならそこには未来はない。それを否定することからしか未来は生まれないのだから。

もし、それが不満ならどうすれば良いのか。自分自身が満足できる、幸せになれる社会はどこにあるのか、それを考えなくてはならない。そしてそれを考えることこそが建築であり、個人力なのだ。

国家や組織は一朝一夕には変わらないけれど、個人は今すぐにでも変わることができる。個人なら明日にでも実現できる。そう思いさえすれば良いだけなのだから。

だから住宅は面白い。住宅には社会や世界が詰まっているのだ。一つの住宅からでも世界は変えられる。私は比較的まじめにそんなことを考えながらやってきた。


みんながそんなことを考えてきたかはわからないけれど、皆年齢なりに経験を積みながらも自由に生き、そして独特な世界観と感性からの発言に刺激をもらい、また励まされた。そんな仲間を誇りに思う。

最近、高校生になる息子にどう生きていくのかを尋ねると「たぶん、会社に勤めるような人にだけはならない」と返ってきた。そうか、おまえもか。




今日は3月に竣工した宇都宮の「パーゴラテラスの家」の竣工撮影がありました。写真家は新澤一平さん。9月初旬に予定していた撮影が雨天で3回も延期され、今日はようやく快晴に恵まれました。

造園家・荻野寿也さんによる入魂のテラスを貫くアオダモも、豊かに繁っていて安堵しました。内部も建て主さんが本当に美しく暮らして下さっていました。撮影用ではなく、いつも通りの生活風景とのこと。意識の高さに頭が下がります…。


意識の高さといえば、

うちは浴室の壁に木の羽目板をよく張るんですね。放っておいてもカビることは経験上あまりないのですが、過去に竣工した「TOPWATER」という住宅の建て主さんは、入浴後に毎晩浴室の木の壁を全面拭き上げるのだそうです。それが日課だと。

これはすごい建て主さんだと思い、その後「DECO」という住宅の建て主さんに(なかばネタとして)この話をしたら「え?うちもそうですよ」とさらりと返され、驚愕したことがありました。うちの建て主はどんだけ意識が高いんだと、これまたネタとして今日の「パーゴラテラスの家」の建て主さんにこのことをお話ししたら、「え?うちもそうですよ」とまたさらりと返され…。


そういえば「FP」の建て主さんは、毎日キッチンシンクを磨き上げ、シンクのトラップの水は呑めるとさえ(冗談交じりに)おっしゃっていましたっけ…。

すごい、もうすごすぎ。これは何かの修業ですか。
皆さんの意識が高すぎて、頭が下がるどころかもう土下座するほかありません…。

よく「建築家の住宅は美しすぎて、生活するにも緊張を強いられそうだ(だから自然体のふつうの家が良いんだよ)」というようなことが言われることがあります。

でも今日あらためて思いました。

我々は建て主さんを緊張させる意図なんてこれっぽっちもありません。でも建て主さんの我々が作った家に対する愛情や愛着は、我々の思惑をはるかに凌駕しているんですよね。皆さんむしろ住まいを大切に使うということ自体に、とても幸せを感じておられるようです。

今日の建て主さんも本当に幸せそうでした。それが本当に嬉しかったことです。住まいへの愛情はきっと自分に返ってくるんですね。


アップした写真は私のカメラによるものですが、新澤さんの写真はこの数倍素晴らしいので、後日の仕上がりが楽しみです!