地元の駅前のTSUTAYAが閉店した。時代の節目を感じる。

今や音楽もサブスクリプションの時代だ。APPLE MUSICなどに登録しておけば、定額であらゆる音楽が聴き放題になる。映画だってテレビがネットに繋がっていれば好きなタイトルが見放題だ。何もわざわざ店に足を運び、また返却するという手間をかける必要はない。

私自身、音楽も映画も上記の方法で視聴しているので、駅前にTSUTAYAがなくなっても何も困らない。なんなら、しばらくTSUTAYAがなくなっていることに気づかなかったくらいだ。

けれども、音楽はスマホで聴く人ばかりではないはずだ。テレビをネットに繋げていない人も多いはず。もしかしたら、自分にとっては当たり前のことでも、世間的にはまだまだ少数派である可能性もある。

今どきメールをしない人なんているの?いる、確実に。年賀状なんてもう書かないでしょ。いや書くし。音楽はサブスクリプションでも、私は家には固定電話を置く派でもある。自分は先進的だと思っていても、意外なところで保守的なところも残っている。

それなのに時代はどんどん変わる。人を置いてきぼりにして。

TSUTAYAがなくなっても何も困らない人にはわからないことが、世の中にはあるような気がする。TSUTAYAがなくなって困る人たちのことを、最近考えている。
日本構造デザイン賞を受賞した大学同期の与那嶺を祝う会ということで、同じく同期の友人数名に声をかけ食事をした。それぞれの友人とは私も個別の付き合いがあるものの、このメンバーが勢揃いして集まるというのはどのくらいぶりだろう。本当に楽しく、話と笑いの絶えない時間だった。そして感慨深かった。

我々は「意匠」「構造」と専門は異なれど、大学を卒業して、大手組織事務所ではなくいわゆる「アトリエ」と呼ばれる小さな設計事務所に就職した、いわゆる”アトリエ派”だ。

私の卒業した日大理工学部は、学年に学生が300人もいるというマンモス校だが、その中でいわゆるアトリエに就職しようという者は10人にも満たない。つまり我々は同期の中でも希有な”変わり者”たちだとも言える。

組織で働く人がそうではないとは言わないけれど、アトリエで働くということは個人の自由意志に基づいて仕事をすることだと思う。我々はそう自分たちを鼓舞してきたし、この道に進もうとする人にかける言葉にもなっている。


人は自由を求める。そしてその自由に制約をかけるものに対して強く反発しようとする。ところが、あらためて自由になった者は戸惑い、往々にして再び制約を求めはじめる。自由とは責任そのものだからだ。

校則に不満がある高校生も、制服を着なくて良いと言われたらどんな服で学校に行くだろうか。会社にはスーツを着てこなくて良いと言われたら?人にはこれまでなかった悩みが増えるに違いない。

そもそも、学校や会社には行かなくて良いと言われたらどうだろうか。勉強は自分でやれば良いし、仕事にしてもしかり。そんなに不満があるならやめてしまえばいい。自分で思うように、理想と思える仕事を自分で考え実現すればいいじゃないか。そう言われたら、あなたならどうするだろうか。

我々はそうやって生きてきた。それがアトリエという生き方なのだ。

代わりに我々は安定的な収入や未来を放棄した。予定調和に何の価値がある。自ら切り拓いたもの以上に尊いものなどない。ぐらつきそうになる気持ちを支えるのは、いつもそんな意地のようなものだ。

私は学生に言う。
社会に対する違和感や矛盾があったとき、それを変えるのは誰か?たぶん大人は変えてくれない。それを変えるのは次の時代を生きるあなたたちなのだということ。今世の中にある住宅、図書館、美術館や学校、すべてにあなたは満足していますか?満足しているならそこには未来はない。それを否定することからしか未来は生まれないのだから。

もし、それが不満ならどうすれば良いのか。自分自身が満足できる、幸せになれる社会はどこにあるのか、それを考えなくてはならない。そしてそれを考えることこそが建築であり、個人力なのだ。

国家や組織は一朝一夕には変わらないけれど、個人は今すぐにでも変わることができる。個人なら明日にでも実現できる。そう思いさえすれば良いだけなのだから。

だから住宅は面白い。住宅には社会や世界が詰まっているのだ。一つの住宅からでも世界は変えられる。私は比較的まじめにそんなことを考えながらやってきた。


みんながそんなことを考えてきたかはわからないけれど、皆年齢なりに経験を積みながらも自由に生き、そして独特な世界観と感性からの発言に刺激をもらい、また励まされた。そんな仲間を誇りに思う。

最近、高校生になる息子にどう生きていくのかを尋ねると「たぶん、会社に勤めるような人にだけはならない」と返ってきた。そうか、おまえもか。




今日は3月に竣工した宇都宮の「パーゴラテラスの家」の竣工撮影がありました。写真家は新澤一平さん。9月初旬に予定していた撮影が雨天で3回も延期され、今日はようやく快晴に恵まれました。

造園家・荻野寿也さんによる入魂のテラスを貫くアオダモも、豊かに繁っていて安堵しました。内部も建て主さんが本当に美しく暮らして下さっていました。撮影用ではなく、いつも通りの生活風景とのこと。意識の高さに頭が下がります…。


意識の高さといえば、

うちは浴室の壁に木の羽目板をよく張るんですね。放っておいてもカビることは経験上あまりないのですが、過去に竣工した「TOPWATER」という住宅の建て主さんは、入浴後に毎晩浴室の木の壁を全面拭き上げるのだそうです。それが日課だと。

これはすごい建て主さんだと思い、その後「DECO」という住宅の建て主さんに(なかばネタとして)この話をしたら「え?うちもそうですよ」とさらりと返され、驚愕したことがありました。うちの建て主はどんだけ意識が高いんだと、これまたネタとして今日の「パーゴラテラスの家」の建て主さんにこのことをお話ししたら、「え?うちもそうですよ」とまたさらりと返され…。


そういえば「FP」の建て主さんは、毎日キッチンシンクを磨き上げ、シンクのトラップの水は呑めるとさえ(冗談交じりに)おっしゃっていましたっけ…。

すごい、もうすごすぎ。これは何かの修業ですか。
皆さんの意識が高すぎて、頭が下がるどころかもう土下座するほかありません…。

よく「建築家の住宅は美しすぎて、生活するにも緊張を強いられそうだ(だから自然体のふつうの家が良いんだよ)」というようなことが言われることがあります。

でも今日あらためて思いました。

我々は建て主さんを緊張させる意図なんてこれっぽっちもありません。でも建て主さんの我々が作った家に対する愛情や愛着は、我々の思惑をはるかに凌駕しているんですよね。皆さんむしろ住まいを大切に使うということ自体に、とても幸せを感じておられるようです。

今日の建て主さんも本当に幸せそうでした。それが本当に嬉しかったことです。住まいへの愛情はきっと自分に返ってくるんですね。


アップした写真は私のカメラによるものですが、新澤さんの写真はこの数倍素晴らしいので、後日の仕上がりが楽しみです!


仕事でキャリアを重ねればその分仕事の質は上がってゆく。それは確かなことだと思うけれど、果たしてキャリアに比例して人は本当に成長し続けるのかと問われると、実はそうでもないのではないか。そんなことを最近よく思う。

キャリアを重ねると、経験則が判断を後押しするようになる。直感力が上がり、瞬時に判断ができるようになる。そして迷いがなくなる。

迷いがなくなると仕事のスピードは上がる。かつてはつまらない検討に半日を費やしてしまうこともあったのに、今は一瞬だ。迷う余地なんてない、だってそれしかないのだから。成功体験がその決断をより揺るぎないものにする。思えば「技術」というものは、成功体験の積み重ねのことを言うのだろう。

しかし技術(スキル)が上がると、それを持たない者との距離は開く一方だ。相手が何に悩んでいるのか、次第に理解できなくなる。向こうからすればどうしてそんなに簡単に答えが出るのか、そのことが理解できないに違いない。両者に横たわる溝は深刻だ。

大学の非常勤講師なども、教え方が確立できていなかった5~6年前が私の講師としてのピークだった気がする。技術は日々上がっていても、結果は必ずしも伴わなくなる。まるで引退を考えるアスリートのように。

先日仕事を崩したいという主旨のことを書いたのだけれど、そんな日々のことも心理の底にある気がする。経験は自分を助けてくれる。しかしそんな便利なショートカットは思考停止を招きやすい。それが人としての成長を止める。

それが老いだとするならば、仕事は自らの経験値の及ばない領域に向かってゆかなくてはならないのかもしれない。

油絵を寄りで見てもわからない。そう思いませんか?

昨年フィンランドでアルヴァ・アールトの建築を見ました。アールトの建築は留学中を含めてもう何十回も見てきましたが、その空間に身を置く年齢に応じて感じることが異なるのです。それがアールトの建築の不思議であり魅力だと思います。

昨年見たアールトに強く感じたのは、全体に流れる不整合です。アールトの建築は部分と全体が一致しません。一般の方がそれを見てどう思うかはわかりませんが、我々のような設計を生業とする者が見ると、まるで煙に巻かれたような違和感を覚えます。これが世に言うアールトミステリーです。

我々は建物を設計する時に、一定のルールを設定します。それは構成原理であったり、素材感であったり、細部の納まりだったりもします。そのある一定のルールをチームで共有することで、協働作業を成立させていたりもします。またそれは空間に安定と調和をもたらす手法であるとも我々は信じています。

アールトの建築は寄りで見ると、その部位ごとにはほぼ完璧に設計されているのですが、また別の空間に移動すると、場当たり的と言えるほどに素材使いを変化させ、全く異なる世界をそこに作り出したりします。

凡人の私などはもうパニックです。でもおかしくないんです。なぜだろう?

たとえばアールトの名作マイレア邸では、暖炉のある西洋的リビングルームの脇に、いきなり和室のような温室が立ち現れ、中庭を挟んで向こう側には伝統的なフィンランドの納屋風サウナ小屋が目に入ります。それがコンクリートと鉄とレンガと木が渾然一体となってモダニズムの白い躯体とつながるのです。もう意味が分からない。

でもおかしくないんです。それどころか美しい。自然界はカオスでできているように、アールトの建築はカオスでできている。しかしそこに秩序があり、調和すら見いだすことができるのです。

アールトは趣味で油絵を描きました。いわゆる抽象絵画です。夏の間はムーラッツァロの夏の家のロフトに籠もって、キャンバスに向かったそうです。

アールトの建築は本質的に油絵の建築なのでしょう。油絵は寄りで見てもわからない。奔放な筆運び、そして不調和な色使い。寄りで見るとカオスでしかないものが、引きで見ると世界がひとつにまとまるのです。単なる整合性ではないもの、ひとつの言葉では語れない奥行き。

私が最近建築に思うことはそのことに尽きます。

我々リオタデザインの仕事は、精緻で整合性の高い仕事が最大の持ち味です。ただ、我々がこの先に進むべき方向性はおそらくその延長線にはありません。ひとつの到達点を迎えた今、私はそれを崩したいと思っています。