仕事でキャリアを重ねればその分仕事の質は上がってゆく。それは確かなことだと思うけれど、果たしてキャリアに比例して人は本当に成長し続けるのかと問われると、実はそうでもないのではないか。そんなことを最近よく思う。
キャリアを重ねると、経験則が判断を後押しするようになる。直感力が上がり、瞬時に判断ができるようになる。そして迷いがなくなる。
迷いがなくなると仕事のスピードは上がる。かつてはつまらない検討に半日を費やしてしまうこともあったのに、今は一瞬だ。迷う余地なんてない、だってそれしかないのだから。成功体験がその決断をより揺るぎないものにする。思えば「技術」というものは、成功体験の積み重ねのことを言うのだろう。
しかし技術(スキル)が上がると、それを持たない者との距離は開く一方だ。相手が何に悩んでいるのか、次第に理解できなくなる。向こうからすればどうしてそんなに簡単に答えが出るのか、そのことが理解できないに違いない。両者に横たわる溝は深刻だ。
大学の非常勤講師なども、教え方が確立できていなかった5~6年前が私の講師としてのピークだった気がする。技術は日々上がっていても、結果は必ずしも伴わなくなる。まるで引退を考えるアスリートのように。
先日仕事を崩したいという主旨のことを書いたのだけれど、そんな日々のことも心理の底にある気がする。経験は自分を助けてくれる。しかしそんな便利なショートカットは思考停止を招きやすい。それが人としての成長を止める。
それが老いだとするならば、仕事は自らの経験値の及ばない領域に向かってゆかなくてはならないのかもしれない。
キャリアを重ねると、経験則が判断を後押しするようになる。直感力が上がり、瞬時に判断ができるようになる。そして迷いがなくなる。
迷いがなくなると仕事のスピードは上がる。かつてはつまらない検討に半日を費やしてしまうこともあったのに、今は一瞬だ。迷う余地なんてない、だってそれしかないのだから。成功体験がその決断をより揺るぎないものにする。思えば「技術」というものは、成功体験の積み重ねのことを言うのだろう。
しかし技術(スキル)が上がると、それを持たない者との距離は開く一方だ。相手が何に悩んでいるのか、次第に理解できなくなる。向こうからすればどうしてそんなに簡単に答えが出るのか、そのことが理解できないに違いない。両者に横たわる溝は深刻だ。
大学の非常勤講師なども、教え方が確立できていなかった5~6年前が私の講師としてのピークだった気がする。技術は日々上がっていても、結果は必ずしも伴わなくなる。まるで引退を考えるアスリートのように。
先日仕事を崩したいという主旨のことを書いたのだけれど、そんな日々のことも心理の底にある気がする。経験は自分を助けてくれる。しかしそんな便利なショートカットは思考停止を招きやすい。それが人としての成長を止める。
それが老いだとするならば、仕事は自らの経験値の及ばない領域に向かってゆかなくてはならないのかもしれない。
油絵を寄りで見てもわからない。そう思いませんか?
昨年フィンランドでアルヴァ・アールトの建築を見ました。アールトの建築は留学中を含めてもう何十回も見てきましたが、その空間に身を置く年齢に応じて感じることが異なるのです。それがアールトの建築の不思議であり魅力だと思います。
昨年見たアールトに強く感じたのは、全体に流れる不整合です。アールトの建築は部分と全体が一致しません。一般の方がそれを見てどう思うかはわかりませんが、我々のような設計を生業とする者が見ると、まるで煙に巻かれたような違和感を覚えます。これが世に言うアールトミステリーです。
我々は建物を設計する時に、一定のルールを設定します。それは構成原理であったり、素材感であったり、細部の納まりだったりもします。そのある一定のルールをチームで共有することで、協働作業を成立させていたりもします。またそれは空間に安定と調和をもたらす手法であるとも我々は信じています。
アールトの建築は寄りで見ると、その部位ごとにはほぼ完璧に設計されているのですが、また別の空間に移動すると、場当たり的と言えるほどに素材使いを変化させ、全く異なる世界をそこに作り出したりします。
凡人の私などはもうパニックです。でもおかしくないんです。なぜだろう?
たとえばアールトの名作マイレア邸では、暖炉のある西洋的リビングルームの脇に、いきなり和室のような温室が立ち現れ、中庭を挟んで向こう側には伝統的なフィンランドの納屋風サウナ小屋が目に入ります。それがコンクリートと鉄とレンガと木が渾然一体となってモダニズムの白い躯体とつながるのです。もう意味が分からない。
でもおかしくないんです。それどころか美しい。自然界はカオスでできているように、アールトの建築はカオスでできている。しかしそこに秩序があり、調和すら見いだすことができるのです。
アールトは趣味で油絵を描きました。いわゆる抽象絵画です。夏の間はムーラッツァロの夏の家のロフトに籠もって、キャンバスに向かったそうです。
アールトの建築は本質的に油絵の建築なのでしょう。油絵は寄りで見てもわからない。奔放な筆運び、そして不調和な色使い。寄りで見るとカオスでしかないものが、引きで見ると世界がひとつにまとまるのです。単なる整合性ではないもの、ひとつの言葉では語れない奥行き。
私が最近建築に思うことはそのことに尽きます。
我々リオタデザインの仕事は、精緻で整合性の高い仕事が最大の持ち味です。ただ、我々がこの先に進むべき方向性はおそらくその延長線にはありません。ひとつの到達点を迎えた今、私はそれを崩したいと思っています。
昨年フィンランドでアルヴァ・アールトの建築を見ました。アールトの建築は留学中を含めてもう何十回も見てきましたが、その空間に身を置く年齢に応じて感じることが異なるのです。それがアールトの建築の不思議であり魅力だと思います。
昨年見たアールトに強く感じたのは、全体に流れる不整合です。アールトの建築は部分と全体が一致しません。一般の方がそれを見てどう思うかはわかりませんが、我々のような設計を生業とする者が見ると、まるで煙に巻かれたような違和感を覚えます。これが世に言うアールトミステリーです。
我々は建物を設計する時に、一定のルールを設定します。それは構成原理であったり、素材感であったり、細部の納まりだったりもします。そのある一定のルールをチームで共有することで、協働作業を成立させていたりもします。またそれは空間に安定と調和をもたらす手法であるとも我々は信じています。
アールトの建築は寄りで見ると、その部位ごとにはほぼ完璧に設計されているのですが、また別の空間に移動すると、場当たり的と言えるほどに素材使いを変化させ、全く異なる世界をそこに作り出したりします。
凡人の私などはもうパニックです。でもおかしくないんです。なぜだろう?
たとえばアールトの名作マイレア邸では、暖炉のある西洋的リビングルームの脇に、いきなり和室のような温室が立ち現れ、中庭を挟んで向こう側には伝統的なフィンランドの納屋風サウナ小屋が目に入ります。それがコンクリートと鉄とレンガと木が渾然一体となってモダニズムの白い躯体とつながるのです。もう意味が分からない。
でもおかしくないんです。それどころか美しい。自然界はカオスでできているように、アールトの建築はカオスでできている。しかしそこに秩序があり、調和すら見いだすことができるのです。
アールトは趣味で油絵を描きました。いわゆる抽象絵画です。夏の間はムーラッツァロの夏の家のロフトに籠もって、キャンバスに向かったそうです。
アールトの建築は本質的に油絵の建築なのでしょう。油絵は寄りで見てもわからない。奔放な筆運び、そして不調和な色使い。寄りで見るとカオスでしかないものが、引きで見ると世界がひとつにまとまるのです。単なる整合性ではないもの、ひとつの言葉では語れない奥行き。
私が最近建築に思うことはそのことに尽きます。
我々リオタデザインの仕事は、精緻で整合性の高い仕事が最大の持ち味です。ただ、我々がこの先に進むべき方向性はおそらくその延長線にはありません。ひとつの到達点を迎えた今、私はそれを崩したいと思っています。

吉祥寺のカフェモイが閉店する。
ひと月ほど前にご連絡を頂きひどくショックを受けた。
カフェモイは私がフィンランド留学中に現オーナーの岩間さんから設計依頼を受けた、私にとって初めての仕事だった。岩間さんもその時点では会社員だった。
モイの仕事があったから私は帰国したし、迷わず独立できた。そしてわずか6坪のお店の設計から私のキャリアは始まった。
お店のロゴは私が作った。アールトチェアは幼馴染の山口太郎くんに輸入してもらった。(彼はそれをきっかけに北欧家具taloを立ち上げた)
カップ&ソーサーは、フィンランド時代の友人梅田弘樹さんにオリジナルで作ってもらった。お店の照明計画は、奥さんの梅田かおりさんが手がけた。写真は根津修平くんが担当し、遠藤悦郎さんが初期のサイトを作ってくれた。すべてフィンランドつながりのチームだった。
2002年にカフェモイは荻窪にオープンした。
しかし私には仕事がなく、お店に行くとお店にも客の姿がなかった。お店で岩間さんとおしゃべりしていても、誰にも気兼ねする必要がなかった。お店は大丈夫なのか心配だったが、私も人のことを心配している場合ではなかった。
私が忙しくなり始めた頃、カフェモイも北欧通の間では知られたお店になった。週末には行列ができるようになった。カフェモイを気に入って、設計を依頼くださる人もいた。岩間さんも来店された客にリオタデザインの宣伝をして下さっていた。
2007年に事務所を志木に移すと、カフェモイも吉祥寺に移転した。お店はやはり私が設計した。カフェモイのある通りには北欧系のお店が集まり、「北欧通り」と呼ばれた。雑誌にも取り上げられ、週末は中に入れないことも多かった。
年末には家族で「moi納め」と称して店に訪れた。息子は物心ついた頃からのカフェモイの常連だ。私もトークカフェとして、もう何回もこのお店で北欧の話をした。そこで知り合った若者がスタッフにもなった。
岩間さんに会うまで、私はコーヒーをおいしいと思ったことがなかった。開店前に岩間さんのお宅でご馳走になったコーヒーの味を私は一生忘れない。
閉店の知らせをもらった直後にお店に足を運ぶと、お盆でシャッターを閉めた通りの影響からか、お店にはお客さんの姿がなかった。そんなお店の姿は珍しかった。
いつもは混んでいるので控えていたけれど、客のいないお店で荻窪の時みたいに岩間さんとおしゃべりをした。17年ぶりだった。奇跡のような時間だった。
カフェモイは、昨晩オフィシャルに閉店のお知らせを出した。本日以降、カフェモイは閉店を惜しむお客さんで溢れるのだろう。次に誰もいないカフェモイを見る日には、おそらくいつものコーヒーの香りはそこにはない。
◇
岩間さんお疲れ様でした。活動の次なる展開に期待します!
モイの空間を愛して下さった皆さま、17年間ありがとうございました。
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『moi(カフェモイ)閉店と今後の展開についてのご報告』
http://moicafe.hatenablog.com/entry/2019/09/06/190000
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19. 07 / 29
住宅と編集
author
sekimoto
category
> 思うこと
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一般的に建築家やデザイナーと呼ばれる人は、クリエイティブな職種であり、世間では創造的な仕事と思われている。しかしこれは半分正しいが、半分は間違っている。なぜなら我々のような仕事は、実際には半分は創造的であるけれど、半分は同時に編集的でもあるからだ。
詰まるところ優れた設計は「優れた編集」にあると言える。
たとえば最初に頭に浮かんだアイデアは、大概現実離れしていてそのままでは使えない。それを現実的に着地させてゆくには、やはり編集能力が必要だ。
建て主の要望もまた、そのまま箇条書きに盛り込んだだけでは建築にはならない。その中から要点を拾い出し、並び替え、見出し(コンセプト)をつけて提示するからこそ、その輪郭はクリアになる。
仕事がら編集者の方とお話する機会が多々あるが、つくづく私は編集側の人間であると感じる。インタビューを受けるよりも、誰かから話を聞いてそれを編集し、何かしらのわかりやすい着地点を見つけるという作業に最もやりがいを感じてしまう。
編集者にならなかった私は、住宅の設計者になった。つくづく天職だと思う。
詰まるところ優れた設計は「優れた編集」にあると言える。
たとえば最初に頭に浮かんだアイデアは、大概現実離れしていてそのままでは使えない。それを現実的に着地させてゆくには、やはり編集能力が必要だ。
建て主の要望もまた、そのまま箇条書きに盛り込んだだけでは建築にはならない。その中から要点を拾い出し、並び替え、見出し(コンセプト)をつけて提示するからこそ、その輪郭はクリアになる。
仕事がら編集者の方とお話する機会が多々あるが、つくづく私は編集側の人間であると感じる。インタビューを受けるよりも、誰かから話を聞いてそれを編集し、何かしらのわかりやすい着地点を見つけるという作業に最もやりがいを感じてしまう。
編集者にならなかった私は、住宅の設計者になった。つくづく天職だと思う。
先日松山で講演をした話を書きました。いつもなら設計事例を写しながらその説明をするところですが、今回写真スライドは一枚も使わないという自分でも相当チャレンジングな冒険をした講演でした。(おかげで嫌な汗がたくさん流れました…)
ただ一方で、普段自分はどういう考えで仕事をしているのだろうと、我々の仕事を見つめ直す機会にもなりました。話しながら、我ながらすごく普通の話をしているなとつくづく思いました。聞いていた方はさぞや退屈だったのではないでしょうか。
ですが、これこそが私の仕事観の根幹であることに変わりがありません。講演では他にもその先にある各論についてもお話ししましたが、自分の胸に刻むためにも冒頭部分についてここに残しておきたいと思います。
・
■ 我々は何のために仕事をするのでしょう?
「あなたは何のために仕事をしているのですか?」
こう問われたら、あなたはどう答えるでしょうか?
・お金のため
(生活のため/家族のため/趣味や交際のため/遊ぶため)
・自己実現のため
(夢を叶えたい/なりたい自分になりたい)
それはどれも正しいと思います。私にもそのような気持ちがあることは否定しません。でも一番大きな動機ではありません。では何のために?と問われたらこう答えます。
「誰かの役に立つため」
当たり前すぎる答えかもしれませんが、ただ普通にそう思います。
逆に言うと「仕事をする」ということは「誰かの役に立つことをする」ということだと思います。だから、そう思えない仕事をしていると人の心はすさんでゆきます。自分は何のために生きているのか、その目的を見失ってしまうのです。
すぐに仕事を辞めてしまう人は不幸な人だと思います。自分が誰かの役に立っていると思えないのです。もしかしたら、むしろ誰かに迷惑をかけている、もしくは不幸にしているとすら思っているかもしれません。
あるいはこういうケースもあるかもしれません。人は仕事に自己実現を求めます。なりたい自分になりたい。かつて私もそうでした。だから、なりたい自分になれていないことが焦りとなり、環境を変えることで実現できるのではないかと考えるのです。
当時の自分に欠けていたのは、自己実現の先に何があるかという考えでした。自己実現を果たすことで結果的に人の役に立つことができなければ、やはりその人の人生は迷路に入り込むことになると思います。
たとえば独立することが夢だったとしても、独立した先の目的意識が、社会や誰かの役に立つという目的につながっていなければ、独立した瞬間にその人は路頭に迷ってしまいます。ただ、お金のためだけに仕事をすることになるのです。
.
■ 我々はどこを向いて仕事をしているのでしょう?
では、我々はどこを向いて仕事をしているのでしょうか?
仕事をする目的が「誰かの役に立つため」だとしたら、答えは簡単です。我々は依頼主の方を向いて仕事をしなくてはなりません。そんなこと当たり前じゃないかと思いますか?しかし、意外とこれは常に胸に刻んでいないと忘れてしまいがちなことなのです。
会社に勤めておられればなおさらな事です。個人ならできることも、企業になると企業論理や利益が優先される場面も多々出てきます。また、上司がいれば上司の意見や指示に従わなくてはならない場面も出てくるでしょう。それは勤め人であれば仕方がないことだと思います。
ただここで胸に手を当ててみてください。
実は上司の指示に従っているのではなく、上司の顔を見ながら仕事をしてしまっていることはないでしょうか?人間は誰しも承認欲求がありますから、褒められると嬉しいものです。自分に直接評価を下す上司に気に入られたいと思うのは当然のことです。
ただ先ほどの「誰かの役に立つ」という意味は、「上司の役に立つ」という意味ではないのです。
それは私の事務所でも日常茶飯事で起こることです。スタッフ達は皆優秀ですが、往々にして私に認めてもらいたいと思うがあまり、私の方を見て仕事をしてしまいます。
私がそう言ったわけではないのに、時に私が過去に承認した判断基準をもとに物事を決めようとしてしまいます。そしてそれを我が事務所のルールであるかのように錯覚してしまうのです。我々の依頼主は毎回、趣味や性格も異なるのにもかかわらずです。
これを私は「思考停止」と呼んでいます。
私ではなく、我々はどこを向いて仕事をしているのかを考えなくてはならないのです。常にゼロベースで、です。私のさらにその先にいる、依頼主(あるいは利用者)に対する思いやりや想像力、言い換えると「当事者意識」こそが設計力を育むのだと思います。
ほかにも、建築家であればメディアや社会的評価の方を向いて仕事をしてしまうこともあります。同じ業界人から「すごい」と言われたい、「いいね」されたい。これもまた承認欲求です。また現場に立たされれば、目先のトラブルの解決や職人さんの手間、工期やコストの問題などが優先されてしまうこともあるでしょう。
そんなときは必ずこれを思い出すようにしています。思い出すだけでなく、声に出して関係者とそれを共有します。
「我々はどこを向いて仕事をしているのか」
どんなトラブルも、これに優先されるものはありません。美しい家を作るという行為も、結果的に依頼主に喜んで頂くためであって、メディアや誌面を賑わせるためではありません。逆に言えば、これさえ踏み外さなければ、その人は間違いなく依頼主に信頼され、感謝される存在になれると思います。
依頼主に感謝されると、「自分は何のために仕事をしているのか」という冒頭の問いに対する明確な答えが自分に返ってきます。自分は人の役に立っているのだと実感することができます。
人にとって、自分が誰かから求められる存在であるということほど嬉しいものはありません。それこそが仕事の本質であると私は思います。
ただ一方で、普段自分はどういう考えで仕事をしているのだろうと、我々の仕事を見つめ直す機会にもなりました。話しながら、我ながらすごく普通の話をしているなとつくづく思いました。聞いていた方はさぞや退屈だったのではないでしょうか。
ですが、これこそが私の仕事観の根幹であることに変わりがありません。講演では他にもその先にある各論についてもお話ししましたが、自分の胸に刻むためにも冒頭部分についてここに残しておきたいと思います。
・
■ 我々は何のために仕事をするのでしょう?
「あなたは何のために仕事をしているのですか?」
こう問われたら、あなたはどう答えるでしょうか?
・お金のため
(生活のため/家族のため/趣味や交際のため/遊ぶため)
・自己実現のため
(夢を叶えたい/なりたい自分になりたい)
それはどれも正しいと思います。私にもそのような気持ちがあることは否定しません。でも一番大きな動機ではありません。では何のために?と問われたらこう答えます。
「誰かの役に立つため」
当たり前すぎる答えかもしれませんが、ただ普通にそう思います。
逆に言うと「仕事をする」ということは「誰かの役に立つことをする」ということだと思います。だから、そう思えない仕事をしていると人の心はすさんでゆきます。自分は何のために生きているのか、その目的を見失ってしまうのです。
すぐに仕事を辞めてしまう人は不幸な人だと思います。自分が誰かの役に立っていると思えないのです。もしかしたら、むしろ誰かに迷惑をかけている、もしくは不幸にしているとすら思っているかもしれません。
あるいはこういうケースもあるかもしれません。人は仕事に自己実現を求めます。なりたい自分になりたい。かつて私もそうでした。だから、なりたい自分になれていないことが焦りとなり、環境を変えることで実現できるのではないかと考えるのです。
当時の自分に欠けていたのは、自己実現の先に何があるかという考えでした。自己実現を果たすことで結果的に人の役に立つことができなければ、やはりその人の人生は迷路に入り込むことになると思います。
たとえば独立することが夢だったとしても、独立した先の目的意識が、社会や誰かの役に立つという目的につながっていなければ、独立した瞬間にその人は路頭に迷ってしまいます。ただ、お金のためだけに仕事をすることになるのです。
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■ 我々はどこを向いて仕事をしているのでしょう?
では、我々はどこを向いて仕事をしているのでしょうか?
仕事をする目的が「誰かの役に立つため」だとしたら、答えは簡単です。我々は依頼主の方を向いて仕事をしなくてはなりません。そんなこと当たり前じゃないかと思いますか?しかし、意外とこれは常に胸に刻んでいないと忘れてしまいがちなことなのです。
会社に勤めておられればなおさらな事です。個人ならできることも、企業になると企業論理や利益が優先される場面も多々出てきます。また、上司がいれば上司の意見や指示に従わなくてはならない場面も出てくるでしょう。それは勤め人であれば仕方がないことだと思います。
ただここで胸に手を当ててみてください。
実は上司の指示に従っているのではなく、上司の顔を見ながら仕事をしてしまっていることはないでしょうか?人間は誰しも承認欲求がありますから、褒められると嬉しいものです。自分に直接評価を下す上司に気に入られたいと思うのは当然のことです。
ただ先ほどの「誰かの役に立つ」という意味は、「上司の役に立つ」という意味ではないのです。
それは私の事務所でも日常茶飯事で起こることです。スタッフ達は皆優秀ですが、往々にして私に認めてもらいたいと思うがあまり、私の方を見て仕事をしてしまいます。
私がそう言ったわけではないのに、時に私が過去に承認した判断基準をもとに物事を決めようとしてしまいます。そしてそれを我が事務所のルールであるかのように錯覚してしまうのです。我々の依頼主は毎回、趣味や性格も異なるのにもかかわらずです。
これを私は「思考停止」と呼んでいます。
私ではなく、我々はどこを向いて仕事をしているのかを考えなくてはならないのです。常にゼロベースで、です。私のさらにその先にいる、依頼主(あるいは利用者)に対する思いやりや想像力、言い換えると「当事者意識」こそが設計力を育むのだと思います。
ほかにも、建築家であればメディアや社会的評価の方を向いて仕事をしてしまうこともあります。同じ業界人から「すごい」と言われたい、「いいね」されたい。これもまた承認欲求です。また現場に立たされれば、目先のトラブルの解決や職人さんの手間、工期やコストの問題などが優先されてしまうこともあるでしょう。
そんなときは必ずこれを思い出すようにしています。思い出すだけでなく、声に出して関係者とそれを共有します。
「我々はどこを向いて仕事をしているのか」
どんなトラブルも、これに優先されるものはありません。美しい家を作るという行為も、結果的に依頼主に喜んで頂くためであって、メディアや誌面を賑わせるためではありません。逆に言えば、これさえ踏み外さなければ、その人は間違いなく依頼主に信頼され、感謝される存在になれると思います。
依頼主に感謝されると、「自分は何のために仕事をしているのか」という冒頭の問いに対する明確な答えが自分に返ってきます。自分は人の役に立っているのだと実感することができます。
人にとって、自分が誰かから求められる存在であるということほど嬉しいものはありません。それこそが仕事の本質であると私は思います。
