13. 07 / 25

にんげんだもの

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sekimoto

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> 思うこと
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現場監理は間違い探し.で,間違いは適切な時期に探してあげないと,のちのち致命的なことになる.最悪なのは竣工検査の段階になって間違いに気づくというパターンで,そうなるとどうしようもなくなることも多い.

今日はスタッフに任せて現場はパスしようと思っていたのだけれど,やっぱり行って良かった.今この時期に指摘しないと手遅れになる食い違いを,まとめて発見することができた.

でも,これはけして大工の手落ちではない.ミスという意味では手落ちなのだけれど,ミスをしない人間なんていないわけで,ミスをいかに未然に防げるかという部分に我々の図面密度の部分がかかっているといつも思う.

ということで近年の我々の図面は現場ミスの回避という使命を帯びて,その密度は年々上がる一方.びっしり描き込まれた図面には,最初から細かい施工指示レベルの記載があるので,現場には大変喜ばれるのだけれど,あまりに細かすぎて現場も見落とすほど.だから責められないのだ.

我々は常に完璧を目指しているのだけれど,未だに満点を取ることができない.なぜなら人間はミスをするからだ.でもある意味,人間が生活する容れものとしては90点くらいでちょうど良いのかもしれないと思うことがある.なぜならそこに住む人間も完璧ではないからだ.

だからある意味,現場でミスをしてくれるとちょっとほっとする.もちろん,そのミスからリカバーする方法はその場で考えるのだけれど,その瞬間ヨゴシというか,なんとなく我々の観念的な完璧空間がちょっと崩れて,人を許容する空間になるような気がする.

そうそう,誰だってミスはあるものね.にんげんだもの.
生活の空間はそういう具合でちょうど良い気がする.

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sekimoto

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> 大学
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今日は大学2年生前期の設計,最後の授業がありました.今年は6年任期の6年目,前期の授業を担当するのはこれで最後となります.「住宅」と「パブリックスペース」を教えるのもこれが最後.なので今期は自分ができる指導を出し切って,悔いの残らない半期にしたいという思いが強くありました.

今回私が受け持ったクラスの学生達は,一言で言うと「雑草」のような,と言ったら語弊があるでしょうか.飛び抜けた才能の集まりというよりは,どんぐりの背比べ.でも皆泥臭く,粘り強くこちらの指導に耳を傾け,1日に何度も何度も指導を受けにやってくるため,毎回の設計指導は深夜にまで及びました.

でも彼らとのエスキース(設計指導)はとても楽しく,私も毎週大学に行くのが楽しみでした.また仕事をしながらも,「あいつら大丈夫かな」とか「どう指導したらもっと良くしてあげられるだろう」ということをいつも考えていました.彼らの作品は私の作品でもあり,すべての学生達と一緒に悩んで作り上げてゆく,というプロセスそのものに「建築」があったようにも思います.

今日の授業の終わりには,学生達から寄せ書きの色紙をサプライズでプレゼントしてもらいました.これまで教えてきて,こんなことは初めてのことでびっくりしました.帰りの電車の中でちょっと読んでいたら,ちょっと泣きそうになってしまってあわてて仕舞いました.彼らはこんなことを書いていました.

「これまで設計はあまり好きではなかったけど,先生とのエスキースで設計が好きになりました」「自分の作品を自分が一番好きにならなくてはいけないということを先生から学びました」「いつも丁寧に話を聞いてくれてそれが一番嬉しかった」

あぁ…自分の言葉のひとつひとつがしっかりと学生達にも届いていたんだと思うと本当に嬉しくて涙が出ます.一方ではこんなことも.「熱心に指導してもらったのに,最後にがっかりさせてしまった」「自分の努力や考えが足りず申し訳なかった」 

どうしてそんなこと思うんだろう?がっかりした学生なんて一人もいないのに!でもそれは私が彼らに十分な指導をしてやれなかった(かも)と思っている引け目と似ているのかもしれませんね.

それにしてもこんなにびっしり書き込まれた寄書きを私は初めて見ました.私が彼らに注ぎ込んだものと同じくらいの熱い思いを返してもらった気がします.これからつらいことがあっても,これを見たら大抵のことは乗り越えられそうです笑.

本当にどうもありがとう!短い間でしたが,半期間お疲れさまでした.

13. 07 / 16

役割

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sekimoto

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> 思うこと
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自分が思う自分の姿と,人が思う自分の姿との間には常に一定の距離感がある.たまに人から思わぬ自分評をもらって戸惑うことがある.自分はそうではないと思っているのにそうだと思われたり,しっかり者だと思われたり,あるいはその逆だと思われたり.

人の目に映る自分の姿は,社会から求められている自分の正確な立ち位置を示している.社会はその人にその役割を演じてもらいたがっている.だからその役割は裏切ってはいけない.自分がどう思おうが,結局は自分の評価と存在価値は人が決めるものだからだ.

その人の適正や本質のようなものはなかなか自分には見えないものだ.それを見ている第三者の目は実に的確に,時に残酷に,その人の本質を捉えている.ある意味我々の設計という仕事も,我々の目を通したクライアント像の投影行為だとも言える.

そしてクライアントもまた,我々の設計にそれぞれのイメージを投影し,それぞれの思惑と期待を膨らませ我が事務所へとやってくる.そこで語られる”私”という人物像は,とても私と同一人物とは思えない.けれども不思議なことにそれらの傾向は一定しており,私が受け入れようが拒もうが,どうやら他人から見た私は,自分が思っている私ではないらしいということがよくわかる.私はその役割に忠実でありたいと思う.

求められる自分に徹するということ.それが仕事である.少なくとも私に社会に求められる要素があるとすれば,それは大変ありがたいことだと思う.

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sekimoto

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> 大学
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昨日は日本大学2年生前期の第2課題「パブリックスペース」の全体講評会がありました.我がクラスの学生達も,それぞれの考えで最後まで悩み抜いて案をまとめていた姿が印象的でした.

要領が悪いのかいつも私の設計指導は他クラスと比べてもダントツに遅いのですが,今期は学生の熱意に押されて23時~0時近くまでやっていたこともあり(もっとも他学年や他クラスの学生も見ていたからなのですが),非常勤講師として任期最後の年ということもあるのですが,ちょっとした思い入れあるクラスとなりました.

ネタバレとなりますが,今回のパブリックの全体講評会は,山中先生をはじめ講師陣の間で「いかにして講評会を盛り上げるか」ということで,用意周到に演出を試みました.

講師だけではなく学生達による人気投票,講評会後の打ち上げというのもそうですが,司会の山中先生の各講師からのコメントの引き出し方や,褒め言葉をぐっと呑み込んでの厳しいコメント,あえて他の講師と違う意見をぶつけるなど,講師陣も意識して言葉を選んでいたことに学生達はどこまで気づいたでしょうか.

また講評会には出られなかった次点作品も並べて,打ち上げの席で他の講師や友人達からコメントをもらうというのも良い試みだったと思います.こんな斬新な講評会というのは,私が学生時代にはあり得なかったことです.

一方で,華やかな講評対象作品とは別に,選ばれなかったけれども本人なりにとてもがんばっていた作品,苦労していた作品というのももちろんたくさんありました.そういう人に細やかにフォローしきれなかったことが悔やまれるのと,そして講評会に出たけれど,思うような評価をもらえず悔しい思いをした人もいたと思います.

一般論ですが,これまでの経験上,1~2年生でダントツだった学生が3~4年生でもダントツであるということも(もちろん本人次第ですが)希で,どこかで逆転現象が出てきます(特に男は高学年に上がるほど伸びる傾向あり).そしてそれをまた乗り越えて,返り咲いてゆく人もまたたくさんいます.

そろそろ計画/構造・環境などの進路を迫られる時期と聞いていますが,積極的に構造・環境系に進むのであれば望ましいことですが,計画系を”あきらめて”構造・環境系に進むという選択だけはしないで欲しいと思います.何かに”あきらめて”進路を決める人は,将来もすべて何かに”あきらめて”道を決める人になるからです.

設計好きなら設計に行けば?シンプルにそう思います.
「昔はお父さんもプロ野球選手になりたかったんだけどな」と当時その努力もしなかったのに,語る大人にだけはならないでください.

まだ前期の設計の授業は残っていますが,最後まで楽しくやりましょう!
(以下は我がクラスの優秀作品)

[caption id="attachment_8096" align="alignnone" width="560" caption="大城義弘案"][/caption]

[caption id="attachment_8097" align="alignnone" width="560" caption="大津晋隆案"][/caption]

[caption id="attachment_8098" align="alignnone" width="560" caption="太田みづき案"][/caption]

[caption id="attachment_8099" align="alignnone" width="560" caption="金子由香里案"][/caption]

[caption id="attachment_8100" align="alignnone" width="560" caption="大野史織案"][/caption]

[caption id="attachment_8095" align="alignnone" width="560" caption="学生投票風景"][/caption]

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sekimoto

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> 建築・デザイン
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昨日はJIAセミナーで「伊東豊雄氏x山本理顕氏」の対談に行ってきました.とても面白かったので,一部内容を抜粋して紹介したいと思います.(私の記憶で咀嚼して書いているので,その通りの発言ではありません)

伊東豊雄氏

「僕は海外留学なんてしなくて良かったと思ってる.英語がうまくなっちゃったら作る建築も変わってただろうね.内と外をあいまいにする建築は日本人じゃないとできない.海外で講演すると通訳の人がうまく訳してくれるんだけど,あいまいな表現で言ったことをすぐ断定口調に変換しちゃって,合ってるんだけど違うみたいな.それにいつも違和感を感じる」

「うちに入ってくるスタッフでも,建築は基礎の上に建ってるってことすらおぼつかないのが多くて,そのくせコミュニティの話とかになると蕩々と語り出すんだよ.それにもすごく違和感がある.大学は2年生くらいで一度実際に家を建てさせる経験とかさせるべき.でも大学制度に物申すみたいなことは時間の無駄だから,自分で建築塾を作ることにした」

「みんなの家とか,うちの担当スタッフは「こんな楽しい仕事はない」て言うわけ.現場行くのも楽しみで,出来上がってからあんなに感謝されたこともこれまでなかった」

「ケンカするより相手の言うことを呑み込んだほうが面白いものができる可能性があると思う.建築家は迎合が苦手だから,上から目線で我が道を行くみたいになるけど,それじゃあ社会からどんどん取り残されて,しまいに仕事もなくなって,それでも建築家はそれでもいいんだっていう.でもそれは違うでしょと.もっと社会に綱渡りみたいに飛び込んで行かなかったら建築家はだめなんだと思う」

山本理顕氏

「群馬の町役場ではコンペで決まったのに町長が変わっちゃって,この案じゃダメだっていう.だから会いに行って提案の趣旨を説明したんだけど「うるせえ」って.それでクビになっちゃった.監理もできなくなっちゃったんだよ.設計者が上に物申すなんて想定になかったんだろうね.ところが韓国で同じくメディアが騒いで,デザインが改変されそうになって市長に手紙を書いたんだよね.そうしたら感激したって返事が来て.山本さんの案で行くって言ってくれたんだよ.なんなんだろう,この違いはって思った」

「何に対して我々は仕事しているんだろうってことをいつも考える.普通は発注者なんだろうけどそうじゃない.それは最終的に施設を使う利用者や入居者,もっと言うと地域社会に対してだと思ってる.だからそう思ってない発注者(行政)とはいつもぶつかることになる」

「建築士の定期講習ってあるじゃない.あれ行ったんだよね.そうしたらモニターに知らないオヤジが出てきてさぁ,教科書開いて説明するわけ.ここ試験に出ますとか言って.あんな屈辱的なことないよね.おまえに建築教わりたくないよって.誰だよおまえって」

「海外だとディプロマと言って,大学卒業したら建築家の資格が与えられるわけでしょう.つまり教育側にその権限があるんだよね.日本にはないんだよ.国の枠組みの中に建築士制度があって,それにあわせて大学のカリキュラムが組まれてる.この授業を何コマやらないと建築士試験が受けられないみたいなことになってる」


目の前の社会的矛盾に,正面から断固として異を唱えてゆくのが山本理顕氏だとすると,そんなの無駄とばかりにひらりとかわす,あるいは一緒に泥にまみれるのが伊東豊雄氏.その噛み合わない対話が両者の違いを浮き彫りにしていた.これまで私もよくわかっていなかった二人の対極的な仕事のスタンスと,根底で共有されているビジョンがとても印象的でした.