建築の世界ではオープンデスクという慣習がある.
いわゆるインターンというやつで,学生が設計事務所などに通い,報酬はもらえないけれどその代わりに勉強をさせてもらうというもの.ステイタスとしては研修生といったところだろうか.
もちろん一方では普通に設計事務所でバイトする(報酬付き)という選択肢もあるわけだから,貴重な時間を使って無報酬というのでは割に合わないと考える学生もいるだろう.ただうちのような事務所の場合バイトすら雇えないケースがほとんどで,そういう事務所での職業体験にはやはりオープンデスクしかないのかもしれない.
うちも今年も一名の学生を受け入れ,そろそろ1ヶ月が経とうとしている.CADの基本操作なども覚え,基本的には他のスタッフと同じように仕事をしてもらっている.うちのスタッフも”新人”の存在は大いに刺激になっているようだ.
中でもうちの紅一点である三浦は,同世代の女性が来たということですっかり意気投合.話し相手ができてなんだか毎日楽しそうである.相乗効果で事務所にもいつになく活気があるようにも感じる.
僕とはちょうど同時期に計画をまとめるコンペがあり,その担当者として一緒に案をまとめてきた.大学での設計課題と異なり,実際の敷地にクライアントがいて,生々しいリアルな要望事項が並んでいる.建築法規の制約もびっしりだ.共にプランを何案も出し合いながら議論を重ね,役所調べにも同行させてリアルに建てるということはどういうことなのかを学んでもらった.
最後は模型.「模型は苦手!」という学生を,模型に長けたスタッフがマンツーマンで基本的な技術やノウハウを叩き込み,最初は精度に欠けるものだったものが,最後には「これ君が作ったの?」というくらいスキルの高い模型を作るようにまでなった.これだけでも,彼女にとってはこの夏の大きな収穫だったのではないかと思う.
先日はそのプレゼンも無事終わり,あとは結果を待つのみ.
大学では課題が終わればそれでおしまい.けれども我々の仕事はここからがはじまり.けれども結果が伴わなければそこでおしまい.そんな一部始終もまた見届けてもらいたいとも思う.
あと大学始業までの数週間は,後期授業等の準備にあててもらおうと場所だけを提供し,これまで通り事務所に通ってもらうことにした.報酬はないけれど,休み明け同級生に再会した際,ちょっとだけ自分が大人になったように感じてもらったら嬉しい.
以前プランがなかなか進まない話を書いた.その後はといえば,なんとか道筋をみつけて「ヨシ!」と心の中で小さくつぶやけるくらいの案にはなりつつある.
毎回プランを納得のいく形でまとめるというのは,プロとしては当然といえば当然のことなのだけれど,でもこれはプロだろうが学生であろうが結局は同じことで,そんな局面に出くわした時どうやったら乗り越えられるかということを日々意識していないと,その時にただあたふたと自信喪失する事態にもなりかねない.
よくそういうときは「手を動かせ」と我々は言う.ただ腕組みして天井を眺めているよりも,手を動かしていれば何かヒントが得られるはずだと.もちろんそれは正しい.正しいけれど常に正しいかと言われればそうでもない,と僕は思う.
だって頭に何にも浮かばないのに真っ白なスケッチブックにただ向き合うなんて,こんなに苦痛なことはないもの!これはきっと文筆業の方でも同じだろう.ちょっと気分転換…といっては,後ろめたく違うことをやりはじめてしまうパターンになりかねない.
今回実感したのは,こういうときの「話す」ことの有効性である.
自分の中で堂々巡りしている悩みも,親しい友人などに話すとおのずと結論が見えてくることがある.今回もあまりに糸口が見えないので,スタッフをつかまえ目の前に座らせては,何が問題なのか,どこに違和感を覚えているのかを訥々と語るという作業を繰り返した.
不思議なもので,毎回語り終える頃には「だからきっとこういうことなんだろうな」という結論じみたことが見え始めていたりするからおもしろい.あんなに行き詰まっていたというのに.またそこで素朴な一言をもらったりすると「やっぱりそうか」と,またひとつ外堀が埋められたりもする.
つまり「話す」ことは手を動かすのと同じくらい有効な”エスキース”であるということだ.さび付いて硬直していたギアに油を差す行為にも近いかもしれない.また自分以外の誰かを巻き込むことで,モチベーションを上げられるという効果もあるだろう.
そう考えると,よく大学などでは学生がまっさらなエスキース帳を持ってきては「なんとかしてください!」というパターンが多いのだけれど,それを怠慢とばかりに突き放すのは必ずしも得策ではないのだとも言える.手が動かない学生には,まずは口を動かさせるというのも指導のひとつだろう.
今回はいろいろスタッフにも”ご指導”頂いて少し着地点が見えてきた.実にありがたい.一人で事務所をやっている人も多いと思うけれど,仕事量の問題というよりクリエイションの問題において,僕は絶対に一人ではできないだろうなとつくづく思うのだった.
[caption id="attachment_1658" align="alignnone" width="560" caption="大地の皮膚|エル・アナツイ"][/caption]
仕事もなく,家族も出かけ,久しぶりにひとりまっさらな日曜日.
さてこんな日は何をして過ごすべきか.仕事だけはとりあえず選択肢から外しておこう.
というわけで,子どもがいたらオチオチ出かけられない美術館へとひとり出かけることにした.まずは以前から気になっていた埼玉県立近代美術館で開催中のアフリカのアーティスト,エル・アナツイ展へ.
アフリカの土着性を感じさせながらも,アナツイの作風は驚くほど洗練されている.
大量の缶詰や空き瓶のキャップを途方もなくつなぎ合わせ,一枚のテキスタイルのように紡ぎ上げる作品群にはただただ圧倒された.
ただそれがけして作家ひとりの制作物ではなく,町工場のように人々が黙々と作業を続けた先に到達しているという事実にもまた目から鱗だった.ある意味彼の手法は「民芸」的とも言えるのかもしれない.
たとえば建築へのアプローチにもふたつの道があると思う.フラッシュアイデアから瞬間を切り取る一発芸のようなアプローチと,素朴な素材を使い平凡ながらもコツコツと手数を重ねることによって圧倒的なマッスを形成してゆこうとするアプローチ.
アナツイのそれは明らかに後者によるもので,そして僕はそういうアプローチが嫌いじゃない.たとえば学生や一部の建築家などは,どうしても見栄えのする一発芸的なアプローチを好む傾向にあるように思う(僕もかつてそうだった).
けれど不器用ながらこういうアプローチもあるということ,そしてそれは時にすべてを凌駕するほどの効果を発揮することもあるのだ,ということを今回あらためて実感したような気がした.
次に向かったのは東京オペラシティで開催中の「家の外の都市の中の家」展.
これは思いのほか良かった.
我々は住宅設計と向き合いながらも,いつも「都市」について思いを巡らせている.
わずか30年の周期で新陳代謝を続ける住宅群と,その集積としての都市.
細分化し高騰化する土地と,その反動でローコスト化する住宅(土地>建物).
住宅と住宅のあいだに生まれる,使い途のない意味不明な隙間….
展示はベネチアビエンナーレ国際建築展の帰国展ということもあり,それら日本の住宅や都市を取り巻く特異性についてわかりやすく抽出し提示していた.(キーワードの「ヴォイド・メタボリズム」はまさに東京という都市を象徴した言葉だ)
ただそれらは問題点でもあるのだろうが,抽出の仕方によっては大いに建築の主題となりうることもわかった.実際に巨大模型として展示された「ハウス&アトリエワン」「森山邸」などには,それらに対する重要な回答や提案が含まれているようにも思えた.これからは少し都市と住宅との関係についても見方が変わってきそうだ.
ちなみに,前述のアナツイとの比較で言えば,こちらはあきらかに前者のアプローチ.
切れ味鋭い瞬間芸であろうが,ただそう見せておいて,その中のプロセスには膨大な思考の痕跡があったであろうことが容易に推察できるところが逆に魅力的でもあった.
ふたつの異なる対照的な作品群を目の当たりにし,手法について,また都市や住宅について,いろいろと考えさせられた一日だった.
[caption id="attachment_1662" align="alignnone" width="560" caption="第12回ヴェネチアビエンナーレ日本館展示風景"][/caption]
仕事もなく,家族も出かけ,久しぶりにひとりまっさらな日曜日.
さてこんな日は何をして過ごすべきか.仕事だけはとりあえず選択肢から外しておこう.
というわけで,子どもがいたらオチオチ出かけられない美術館へとひとり出かけることにした.まずは以前から気になっていた埼玉県立近代美術館で開催中のアフリカのアーティスト,エル・アナツイ展へ.
アフリカの土着性を感じさせながらも,アナツイの作風は驚くほど洗練されている.
大量の缶詰や空き瓶のキャップを途方もなくつなぎ合わせ,一枚のテキスタイルのように紡ぎ上げる作品群にはただただ圧倒された.
ただそれがけして作家ひとりの制作物ではなく,町工場のように人々が黙々と作業を続けた先に到達しているという事実にもまた目から鱗だった.ある意味彼の手法は「民芸」的とも言えるのかもしれない.
たとえば建築へのアプローチにもふたつの道があると思う.フラッシュアイデアから瞬間を切り取る一発芸のようなアプローチと,素朴な素材を使い平凡ながらもコツコツと手数を重ねることによって圧倒的なマッスを形成してゆこうとするアプローチ.
アナツイのそれは明らかに後者によるもので,そして僕はそういうアプローチが嫌いじゃない.たとえば学生や一部の建築家などは,どうしても見栄えのする一発芸的なアプローチを好む傾向にあるように思う(僕もかつてそうだった).
けれど不器用ながらこういうアプローチもあるということ,そしてそれは時にすべてを凌駕するほどの効果を発揮することもあるのだ,ということを今回あらためて実感したような気がした.
次に向かったのは東京オペラシティで開催中の「家の外の都市の中の家」展.
これは思いのほか良かった.
我々は住宅設計と向き合いながらも,いつも「都市」について思いを巡らせている.
わずか30年の周期で新陳代謝を続ける住宅群と,その集積としての都市.
細分化し高騰化する土地と,その反動でローコスト化する住宅(土地>建物).
住宅と住宅のあいだに生まれる,使い途のない意味不明な隙間….
展示はベネチアビエンナーレ国際建築展の帰国展ということもあり,それら日本の住宅や都市を取り巻く特異性についてわかりやすく抽出し提示していた.(キーワードの「ヴォイド・メタボリズム」はまさに東京という都市を象徴した言葉だ)
ただそれらは問題点でもあるのだろうが,抽出の仕方によっては大いに建築の主題となりうることもわかった.実際に巨大模型として展示された「ハウス&アトリエワン」「森山邸」などには,それらに対する重要な回答や提案が含まれているようにも思えた.これからは少し都市と住宅との関係についても見方が変わってきそうだ.
ちなみに,前述のアナツイとの比較で言えば,こちらはあきらかに前者のアプローチ.
切れ味鋭い瞬間芸であろうが,ただそう見せておいて,その中のプロセスには膨大な思考の痕跡があったであろうことが容易に推察できるところが逆に魅力的でもあった.
ふたつの異なる対照的な作品群を目の当たりにし,手法について,また都市や住宅について,いろいろと考えさせられた一日だった.
[caption id="attachment_1662" align="alignnone" width="560" caption="第12回ヴェネチアビエンナーレ日本館展示風景"][/caption]
GWごろに種を植えるも,生育が思わしくなくて気をもんでいた事務所のゴーヤのグリーンカーテンも,秋風が吹き始めた今頃ようやく最盛期を迎えている.
もしゃもしゃとツタが窓を覆っている様子は傍目からもなかなか楽しく,また仕事中はいつもロールスクリーンを半分くらい下ろしているのだけれど,今はその必要もなく天然のカーテンとなってくれている.葉を透かして入ってくる光もなかなかに快適で,来年は今年の反省をもとにもっと早くから窓に茂らせたいところだ.
ところどころにぶら下がっているチビゴーヤがかわいい!
週明けから延々とスケジュール調整。すでに数ヶ月先までの週末がびっしり。そこは住宅設計を生業とする者の宿命。週末は進行中のプロジェクトの奪い合いとなる。施主との打ち合わせ、検査や引き渡し、そしてオープンハウス…。
またここのところ立て続けに頂いた設計依頼を整理して、設計スケジュールの組み立て。普通に勤めている方なら、数年先まで予定が入るというのは息が詰まることかもしれないけれども、根無し草のような我々のような職種の場合はとってもありがたいことだ。
貧乏ひまなし.スケジュールを埋めていくことに一種の快感を覚える.
またここのところ立て続けに頂いた設計依頼を整理して、設計スケジュールの組み立て。普通に勤めている方なら、数年先まで予定が入るというのは息が詰まることかもしれないけれども、根無し草のような我々のような職種の場合はとってもありがたいことだ。
貧乏ひまなし.スケジュールを埋めていくことに一種の快感を覚える.
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