
少し時間が経ってしまいましたが、先週水曜日は六本木の国際文化会館にて、建築家・伊礼智さんの設計セミナーのゲスト講師として呼んで頂き、伊礼さんと共に約3時間ほどのセミナーをやらせて頂きました。
実務者向けのもので、また受講料も1万円以上もしていたのでこの場では告知しませんでしたが、全国から50人近い方がご来場下さいました。
構成はまず伊礼さんが1時間、そして私が1時間話した後に、建築知識ビルダーズ編集長の木藤さんをファシリテーターに、伊礼さんとクロストークをさせて頂きました。
最後のクロストークでは、会場から回収した質問シートが山ほどあり、これらの質問に一問一答式でそれぞれお答えさせて頂きましたが、こういう筋書きのないトークが一番盛りあがりますね。時間が足りず、あともう1時間やりたかったくらいです。
◇
例えば、そこではこんな質問がありました。
「現在一人で仕事をしていますが、スタッフは雇った方が良いでしょうか?」
これに対する答えは、私も伊礼さんも「絶対スタッフはいた方が良い!」でした。時間がなくて、お答えもさらっとしかできませんでしたが、この場を借りて私がスタッフは不可欠だと思う理由を書かせてもらいたいと思います。
ひとつに、仕事を客観的に進めることが出来るということがあります。
人は他人には「もっとこうすれば良いのに」とアドバイスができるのに、自分のことになるとどうして良いかわからなくなるものです。
仕事をチームでやるようになると、お互いがお互いの仕事や思考を客観的に見れるので、自分にはないものを発見したり、間違いや勘違いを未然に防ぐことが出来ます。
また瓢箪から駒のような斬新なアイデアというものは、天から降ってくるものではなく、私の場合常に対話から生まれます。スタッフと議論したり話を聞いてもらったりすることで、アイデアが確信に変わります。それは私は一人ではできないことだと思っています。
次に、強い意志を持つことが出来るということがあります。
人間は弱いもので、ひとりだとどうしても現実に流されてしまったり、逆境に陥ると抜け出せなくなりがちです。スタッフがいると、私の場合は弱みを見せたくないので、いつも強気で振る舞うことになります。「大丈夫、なんとかなる!」という言葉は、きっと自分への言葉なのでしょうね。
また仕事が正しくない方向に向かおうとしているとき、本質を見失いかけているとき、そんな時にスタッフを叱り飛ばす言葉は、同時に自分を奮い立たせてくれます。矜持を持って仕事をしよう!という前向きな気持ちになれます。

伊礼さんは私が尊敬し、目標とする建築家のひとりです。そんな伊礼さんの答えの一つ一つもまた、私と同じような思考の延長線上にあるように思え、大いに勇気を頂くことができました。
伊礼さんからは「(私の)45歳は建築家が一番伸び盛りの時期」「自分のセミナーには自分が認めている人しか呼ばない。関本さんはその一人」とのお言葉を頂けたことがとても嬉しく、これからめげそうになるたびに思い出したいと思います笑
ご参加下さった皆様、ありがとうございました!

写真:塚本浩史(3枚とも)
昨日は中学までを過ごした桶川で小学校の同窓会がありました。小学校卒業以来約33年ぶりの集まりでした。
私はのちに建築の道に進みましたので、大学やその後の留学、そして独立とどんどん道が枝分かれして細くなってゆきましたが、私を作った一番根っこの部分や幹の部分はこの時代に作られたのだなとしみじみ実感しました。こういうのを原点というのでしょうね。
当時私は広い庭のある家に住んでいました。
田舎でしたので、庭が広いこと自体は珍しいことではありませんでしたが、我が家の場合は少し特殊でした。当時の私もそれは自覚していましたが、それを人に言われるのがとても嫌でした。子どもにとって友達と違うということは、それだけでコンプレックスを感じるものなのです。
それでも親しい友人たちとは、その庭でいつも遊んでいたことが楽しい思い出としてあり、昨日もその友人たちと思い出話に花が咲いたのですが、意外だったのは「俺も行ったことがある」と、それ以外の人たちも一斉に主張しはじめたことです。
挙げ句には、同窓会でも顔が思い出せない他クラスの者や、女の子たちまで皆が私の家に「行ったことがある」と言い出し、私の家の池に落ちたことなどを語りはじめるのでした。
私にはそんな多くの友人を家に招いた記憶はなく、あくまでごく限られた友達と遊んだ記憶しかなかったので、しばし混乱しました。
でも30年以上が経ち顔も思い出せない者もいる中で、みんなの中では「でかい家に住んでいた」という記憶と共に私を覚えていてくれたんだなと思うと、それがなぜか嬉しく、私のアイデンティティにもなっていたのだということにも気付かされました。
今は住宅設計の仕事をしていることなど話すと、皆からは「期待を裏切らないね」と言われましたが、はたして彼らが私に期待をしていたかどうかはともかく、彼らの中で私がもう一度”でかい家の関本くん”として上書きされた瞬間だったかもしれません。
でも彼らは知りません。当時でかい家と言われたコンプレックスから、今では私は「小さな家」のスペシャリストになっているということを。自分の育った境遇も含めて、それをアイデンティティとして生きる意味のようなものを、昨日は考えさせられたのでした。
私はのちに建築の道に進みましたので、大学やその後の留学、そして独立とどんどん道が枝分かれして細くなってゆきましたが、私を作った一番根っこの部分や幹の部分はこの時代に作られたのだなとしみじみ実感しました。こういうのを原点というのでしょうね。
当時私は広い庭のある家に住んでいました。
田舎でしたので、庭が広いこと自体は珍しいことではありませんでしたが、我が家の場合は少し特殊でした。当時の私もそれは自覚していましたが、それを人に言われるのがとても嫌でした。子どもにとって友達と違うということは、それだけでコンプレックスを感じるものなのです。
それでも親しい友人たちとは、その庭でいつも遊んでいたことが楽しい思い出としてあり、昨日もその友人たちと思い出話に花が咲いたのですが、意外だったのは「俺も行ったことがある」と、それ以外の人たちも一斉に主張しはじめたことです。
挙げ句には、同窓会でも顔が思い出せない他クラスの者や、女の子たちまで皆が私の家に「行ったことがある」と言い出し、私の家の池に落ちたことなどを語りはじめるのでした。
私にはそんな多くの友人を家に招いた記憶はなく、あくまでごく限られた友達と遊んだ記憶しかなかったので、しばし混乱しました。
でも30年以上が経ち顔も思い出せない者もいる中で、みんなの中では「でかい家に住んでいた」という記憶と共に私を覚えていてくれたんだなと思うと、それがなぜか嬉しく、私のアイデンティティにもなっていたのだということにも気付かされました。
今は住宅設計の仕事をしていることなど話すと、皆からは「期待を裏切らないね」と言われましたが、はたして彼らが私に期待をしていたかどうかはともかく、彼らの中で私がもう一度”でかい家の関本くん”として上書きされた瞬間だったかもしれません。
でも彼らは知りません。当時でかい家と言われたコンプレックスから、今では私は「小さな家」のスペシャリストになっているということを。自分の育った境遇も含めて、それをアイデンティティとして生きる意味のようなものを、昨日は考えさせられたのでした。
大学前期の第一課題である「サードプレイス」の提出がありました。中には心配していた学生もいましたが、最後はなんとか形にして提出したようでほっと胸をなで下ろしました。
即日で採点をして、A~C(たまにD)の採点を付けてゆきますが、Aよりも評価の高い学生にはSを付けます。採点で言えば90点に相当する評価で、学生なら一度は取ってみたいと思うあこがれの評価です。だいたい受け持ちのクラス(20人くらい)でSは2人くらいでしょうか。つまりSは10人に1人くらいということになります。
今日Aを付けた学生から、こんな素朴な質問をもらいました。
「先生、Sを取るにはどうしたら良いですか?」
どうしたら…難しい質問です。
思うに、Sを取る学生の案には特徴があるように思うのです。それはイメージがクリアでブレがないということ。そして何より”リアル”だということです。
イメージがクリアで、リアルであるということは学生課題に限らず建築ではとても大切なことで、モヤモヤした考えでやっていると、最後までモヤモヤした案になります。こういう案は人に伝わりません。
小説に例えるとこういうことになります。
小説家の多くは書く前にプロットを組み立てます。テーマ、状況、登場人物、そしてなんとなくこういう話にしようというあらすじのようなものを考えます。建築で言えば、どんな建物にするか、どんな利用者がどんな風にそこで振る舞うのかを考えるようなことです。
小説家はそこで筆を走らせながら、登場人物の仕草やちょっとした言い回し、窓から見える景色、雨の音に至るまで事細かにディテールを掘り下げてゆきます。そこを丁寧に描くからこそリアリティが生まれるのです。リアリティが生まれると、人は登場人物に共感したり、思い入れを持つようになります。架空の人物なのに、あたかも実在の人物であるかのように感じるのです。
そんな人物に不幸があれば、我々は本を読みながら涙を流します。
建築も全く同じ事なのです。「ここで本を読むんです」じゃなくて「木漏れ日の落ちる縁側に寝転がって、本を読みながらうたた寝をするんです」と言った方が、人はそこにより深く感情移入をすることが出来ます。
そうしたらそこに表現しなくてはいけないのは、「木漏れ日を落とす落葉樹」であり「風が抜ける縁側」であり「無防備でいられる守られ感のある空間」ということになります。もう設計で何をすれば良いか、プレゼンでなにを表現すれば良いか答えは明白です。なんなら、その本は太宰治なのかスラムダンクなのかまでもイメージできれば完璧でしょう。
建築はディテールが大切なのです。
まだそこにはないものを、あたかもそこにあるかのように、そこにあったらさぞ素敵だろうなと相手に思わせるように伝えるのが建築設計なのです。
今の学生に圧倒的に足りないのは想像力です。妄想力と言っても良いかもしれない。これは一朝一夕には身につきません。とりあえず、本を読むところからはじめて下さい。
即日で採点をして、A~C(たまにD)の採点を付けてゆきますが、Aよりも評価の高い学生にはSを付けます。採点で言えば90点に相当する評価で、学生なら一度は取ってみたいと思うあこがれの評価です。だいたい受け持ちのクラス(20人くらい)でSは2人くらいでしょうか。つまりSは10人に1人くらいということになります。
今日Aを付けた学生から、こんな素朴な質問をもらいました。
「先生、Sを取るにはどうしたら良いですか?」
どうしたら…難しい質問です。
思うに、Sを取る学生の案には特徴があるように思うのです。それはイメージがクリアでブレがないということ。そして何より”リアル”だということです。
イメージがクリアで、リアルであるということは学生課題に限らず建築ではとても大切なことで、モヤモヤした考えでやっていると、最後までモヤモヤした案になります。こういう案は人に伝わりません。
小説に例えるとこういうことになります。
小説家の多くは書く前にプロットを組み立てます。テーマ、状況、登場人物、そしてなんとなくこういう話にしようというあらすじのようなものを考えます。建築で言えば、どんな建物にするか、どんな利用者がどんな風にそこで振る舞うのかを考えるようなことです。
小説家はそこで筆を走らせながら、登場人物の仕草やちょっとした言い回し、窓から見える景色、雨の音に至るまで事細かにディテールを掘り下げてゆきます。そこを丁寧に描くからこそリアリティが生まれるのです。リアリティが生まれると、人は登場人物に共感したり、思い入れを持つようになります。架空の人物なのに、あたかも実在の人物であるかのように感じるのです。
そんな人物に不幸があれば、我々は本を読みながら涙を流します。
建築も全く同じ事なのです。「ここで本を読むんです」じゃなくて「木漏れ日の落ちる縁側に寝転がって、本を読みながらうたた寝をするんです」と言った方が、人はそこにより深く感情移入をすることが出来ます。
そうしたらそこに表現しなくてはいけないのは、「木漏れ日を落とす落葉樹」であり「風が抜ける縁側」であり「無防備でいられる守られ感のある空間」ということになります。もう設計で何をすれば良いか、プレゼンでなにを表現すれば良いか答えは明白です。なんなら、その本は太宰治なのかスラムダンクなのかまでもイメージできれば完璧でしょう。
建築はディテールが大切なのです。
まだそこにはないものを、あたかもそこにあるかのように、そこにあったらさぞ素敵だろうなと相手に思わせるように伝えるのが建築設計なのです。
今の学生に圧倒的に足りないのは想像力です。妄想力と言っても良いかもしれない。これは一朝一夕には身につきません。とりあえず、本を読むところからはじめて下さい。
17. 03 / 24
路地の敷地
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sekimoto
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> 思うこと
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小さい子って、クレヨン握りながらこんなお家があったらいいなとか、中にはこんなお部屋があってとか言いながらお絵描きしますよね。
今思うと、あれって立派な設計行為だったんだなと思います。プロになった今でも考えていることは同じなんですから。
この路地をすぅっと抜けて、そしたらこんな家が見えてきて、外壁はこんな感じで、そうだここには樹を植えよう。妄想は建築のはじまり。
17. 03 / 16
家ってなんだろう
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sekimoto
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> 思うこと
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ビルダーズの木藤編集長と益子アトリエに訪問後、帰ってオープンデスクの学生に建築家の益子義弘先生の話をすると、案の定知らないとの答えが。
そこで益子先生の著書『家ってなんだろう』を渡すと、ずっと黙々と読んでいました。平易な文章に引き込まれたようです。
わが母校の建築教育には、残念ながら益子先生のような建築家の名前は授業でも設計課題でも挙がることはありません。そのような設計アプローチは学生向きではないのかもしれませんが、小難しい建築理論を語るよりも大切な設計理念があることを、学生にこそ知ってもらいたいと思うのです。
