20. 12 / 31

ほしいのは時間

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sekimoto

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> 仕事
> 思うこと



この暮れに一年を総括することでも書こうかと思うものの、今年はいろんなことがありすぎて考えもまとまらない。今年はなんといっても、新型コロナウィルスの蔓延によって、生活様式がいろんな意味で大きく変わった年でもあった。

私をとりまく様々なことも変わったし、それらのいくつかは残念だったこと(対面で会えないこととか)もあったけれど、それすらも日常の中に取り込まれて、テレワークやオンライン会議、オンラインセミナーなどが当たり前になった年でもあった。新しいモノやコトが好きな私にとっては、これまでの無意味なしがらみから離れて、自由に活動できた良い一年だったとも思う。

また今年は例年になく設計依頼やご相談が相次いだ年でもあった。何が起こったのかは自分でもよくわからない。「建もの探訪」などにも2件ほど登場した年でもあったので、その影響はあったと思うものの、けしてそのOAを見た人ばかりではなかった(むしろ半数以下だったかもしれない)。10年以上前から依頼したいと思っていたという方も少なからずいて、継続することの尊さのようなものを感じた。

また本業からも離れて、所属する諸団体のお役目のようなものも急増した年でもあった。そのうちのいくつかは、役職を伴って一定の責任を背負うものも。本業をしっかり回しながら、こうしたお役目も疎かにしないで活動することには神経を使う(もちろん時間も)。本業の足も引っ張るし、お金にならないという意味でも一般的にはメリットがあるとは思えないこうした取り組みの数々も、自らの社会活動としてやはり外せないものになっている。

それに加えて、、セミナーに執筆活動と、もう体がいくつあっても足りない!という状況。毎日分刻みで動いているので、事務所の中でも私はいつも小走りだ。車を運転していても、わずか10分でも短縮できるなら迷わず有料道路を選ぶ。今一番欲しいのは「時間」。

そんな、何の示唆にもならないとりとめない総括。この年末年始はゆっくりと、と月並みなことを書きたい衝動があるものの、やはりゆっくりはしていられないのだろう、、。

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皆さま、今年一年お世話になりました。
どうか良いお年をお迎えください!






20. 12 / 03

高速テトリス

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sekimoto

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> 思うこと
> 生活


テトリスってありますよね。いろんな形のブロックが上から落ちて来て、反射神経で回転させながら、下のブロックの隙間にはめてゆくというゲーム。

最初のステージはゆっくりで、一つ一つ考えながらブロックを落としてゆけますが、ステージをクリアするたびにブロックはどんどん早くなり、最後には自分の処理能力を超えて、天井までブロックが積み上がりゲームオーバーです。

私が今立つステージは、どうにも見たことのない早さでブロックが落ちて来るステージのようです。しかも形も不揃いときてる!これまでなら瞬時に詰んでいることでしょう。

しかし経験というのは素晴らしいものです。
今の私は、テトリスの世界大会に出られるんじゃないかと思います。

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sekimoto

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> 思うこと
> 生活



コインパーキングで出庫する際、お金を払って領収書を取ろうとすると、別の人の領収書が残っていることがある。イラッとする。領収書は必ず出るものではなく、自分で領収書ボタンを押して出すものだ。だからこの人はわざわざ領収書ボタンを押しておきながら、領収書を取らずに去った人ということになる。

なぜ押した?そしてなぜ取らない!?

私が手を伸ばした時にあるその領収書、自分のだけ取って去るのも忍びなく、仕方なくその取り残された領収書は丸めてポケットにツッコむ。やはりイラッとする。なぜ他人のゴミを自分のポケットにしまわなくてはならないのか!

ちょっと待て。必要ないのにそこは押すな!領収書ボタンのピンポンダッシュは取り締まりの対象にして頂きたいのである。

20. 11 / 21

コロナと共に

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sekimoto

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> 思うこと
> 生活


コロナが第三波。それがどうした、としか言えない。これ以上どうすれば良いかわからないから、結局私の暮らしはいつも通りだ。

我々の暮らしはすでにコロナと共にある。ウィズコロナというやつだ。夜の街を呑み歩くこともないし、会合やセミナーだってオンラインだ。外出の時にはマスクを着用。帰宅したら手洗いか消毒。すでにそれが日常の一部になっている。

そんなコロナ禍のローカルルールがある。たとえば「家族は大丈夫」というルール。家族は大丈夫だから家の中ではマスクを外して良い、みたいな。家族だって毎日通勤や通学しているわけだから、感染リスクは他人と変わらないはずなのに。

たまには旅行にも出かける。食事にも行く。十分に注意しながら、といってもマスクを付けて移動する以外にできることはないわけで。近頃では、お店側で先回りをして感染対策もしてくれている。そこで我々は「家族」と「感染対策を行われているお店」に行くから大丈夫だと、ここでも心の中にローカルルールを作るわけだ。

我々のような設計事務所も、「スタッフは大丈夫」というローカルルールを暗黙に心の中に持っていなければ成立しない。もし感染者がいたら、マスクをしていたってこの狭い密室ではアウトなわけだし。事務所の中ではみんなマスクをしているが、それも「マスクをしているから大丈夫」という自己暗示によって、お互いのローカルルールを確認しあっているだけにすぎない。

身も蓋もないことを言えば、マスクをしていても感染するときは感染する。すべては確率論の話で、たとえば東京都で一日に500人感染したといっても、確率論で言うと0.00005%の感染率ということになる。逆に言うと99.99995%の人は一日に感染していないともいえる。

だから大丈夫だと言いたいのではない。
コロナが第三波。それがどうした。私はこれまで通り、コロナと共に生きる。それしかないではないか。


俳優の伊藤健太郎さんが、ひき逃げの容疑で逮捕されたという報道が流れ、ショックを受けている。私は特に伊藤さんのファンだったというわけではない。ただ彼が出演していたドラマなどはよく見ていたし、才能ある活躍する俳優さんだとは思っていた。

冒頭のショックを受けたというのは、「まさかあの彼が(そんな悪いことするなんて)」のショックではなく、人が順風満帆の人生から転げ落ちるどころか、突然道に空いた穴に垂直降下する瞬間を目の当たりにしてしまったというショックに近い。道ばたで目の前で人が銃で撃たれたみたいな。

もちろん今回の一件で大けがをした被害者もいるわけで、逃げてしまったという一連の行動も含めて彼をかばうことは一切できないけれど、でもたびたび報道される芸能人の不倫であったり、禁止薬物使用の報道とは私は少し性格が違う気がする。

先の不倫や薬物などは、本人がいけないとわかっていながらも続けてしまった結果であり、いつかこうなることも頭のどこかでは予見していただろうから、それだけにその因果は本人が受け止めなくてはいけないし、責任も重いと思う。

けれど今回の一件のように、とっさに起きてしまったことについて、つい怖くなって立ち去ってしまったというのは、誰でも持つ人間の心の弱さによって、いつでも誰にでも起こりうることのようにも思える。

自分の人生を振り返ってみても、さすがにひき逃げはないにしろ、友達から借りていたものを傷つけてしまったのに黙って返したとか、自分に非があったのに謝らないで立ち去ってしまったとか、あまり人には言いたくない咎めを受けるべき過去の出来事というのはある。きっと誰しも一つや二つはあるのではないか。

それとこれとは別だと言う人もいるかもしれないけれど、私は同じのように思えてならない。だから恐ろしい。明日は我が身なのだ。

私ももしかしたら明日にでも現場の帰りに自分の車がバイクとコツンと接触して、本来なら踏むべきブレーキを、一瞬の心の迷いで踏みそびれてしまうということが絶対にないとは言い切れない。ガツンなら止まるかもしれないが、コツンなら気がつかなかったふりをしてしまうかもしれない。冷静な理性ならやらないことも、動転しているとどうなるかは自分でもわからないのだ。

彼は活躍する俳優であったことから、翌日から彼のニュースは日本中のメディアで報じられ、今大変なバッシングを受けている。それはもしかしたら私だったのかもしれない。こういう報道を見る度にそう思う。だから、心の弱い私は彼のことを咎めることはできない。ただただ、震え上がるのだ。