
アールトの自邸のように、ツタに覆われた住宅というのは憧れで、自邸ではテイカカズラを外壁に這わし、1階の事務所の壁はとうに越えて、2階そして3階へとどんどん伸び続けていった。このモシャモシャがとても気に入っていた。
ところが家族にはいたく不評で、いい加減切ってくれと何度言われたことか。それでも聞き流してきたのだけれど、来週から外壁塗装の工事が始まることになり、そこに家族からのさらなる陳情も届き、とうとう観念して木部にかかるツタをバッサリ切り落とすことにした。

落としてみるとサッパリした。サッパリはしたのだけれど、どうも落ち着かない。まじめか!やっぱりモシャモシャの方が良かった。
ロックミュージシャンを目指していた長髪の若者が、田舎の親に言われてバッサリ髪を切り、就活を始めたみたいでとても寂しい。
塗装工事が終わったら、また伸ばすぞ!

今年はうちの事務所からは年賀状を出さなかった。一応その旨は昨年の年賀状で宣言済みだったものの、いざ出さないとなるとこれまで頂いていた方に失礼にならないだろうか?といろいろと心配になった。
ただ実際には、昨年末は特に忙しかったこともあるけど、暮れが近づくにつれて「そろそろ年賀状発注しなくちゃ」「切手買わなくちゃ」からはじまって、出す人のリストの精査、宛名ラベルや切手貼り、一言コメント書きとやらなくちゃいけないことがいっぱい!昨年末はそれらすべてを放棄できたことで、これがどんなに楽だったことか。
そうしたら、年が明けて届いた年賀状のまぁ少なかったこと!なんだか逆にホッとしてしまった。やっぱりみんな同じだったんだ。写真の左側は昨年の年賀状、右側は今年の年賀状(たぶん100枚くらい)。その量は約半分!年々減り続けていたけど、今年は一気にガクンと少なくなった。
それでもご丁寧に頂いた方には本当に頭が下がる思い。それなのに、お返事も出せなくて本当にごめんなさい!
◇
そんななか思うことがいくつかあった。
例年通り届いた年賀状は、可愛らしいイラストや凝ったデザインのもの、丁寧に手書きのコメントを入れて下さっている親しい方からのものもあって、こちらはほっこりしながら嬉しく読ませて頂いた一方、画像ひとつない紋切り型の挨拶のみが印刷された企業からのものも少なからずあった。
頂けるのはありがたいと言いたいところなのだけれど、もう何年もお付き合いが途絶えていたり、そもそもこんな業者知らない、、というものも結構あって、こんなに一通の年賀状の重みが上がっている昨今でも、こんな無駄な経費の使い方をしている企業があるんだという点に驚く。
無駄なんて言っては失礼かもしれないけれど、「送る」という行為だけにとらわれて全く心のこもっていないハガキは、営業になるどころか不要なDMに近いとすら思う。
一方では、昨年の私のように「来年からはもう出しません」ということを宣言したものも。これについては、こちらもすでに実行しているので「おぉ、あなたも。もちろん大丈夫ですよ!」と心で思うのだけれど、その理由として「地球環境に配慮して」「SDGsの達成のために」など壮大な環境意識を謳っているものも結構多かった。
あの、そんなに大げさなことなんでしょうか、、?
地球のために年賀状出さないとか本気で言ってる?ってへそまがりの私はつい思ってしまう。いっそ正直に「経費削減のため」「忙しくて無理」「ぶっちゃけ、めんどくさい」と書いてくれた方がまだ好感が持てる(めんどくさいは言い過ぎか)。
私は年賀状出すことが環境破壊だとは思わない。それを言うならもっと削減できることあるでしょうって思う。
最近では絶滅危惧種になりつつあるけど、年末にカレンダー置いてく問題もなんとかしてほしい。新手のいやがらせですか?とすら思う。いまどきカレンダー壁に掛けないでしょう。掛ける場合は相当吟味するし、なんなら自分で買う。あと社名入りの手帳とか!まじでいらない。使ってる人見たことない。
昔は年末に受け取りを拒めなかったカレンダーや手帳類を大量に捨てていた。これが、心が痛むこと傷むこと!いらないものをお得意様に捨てさせておきながら、自分はやるべきことやったみたいに思う悪しき慣習だ(しかも昭和の)。そんなときこそ「SDGs」と書かれたレッドカードを颯爽と突きつけたい。
でもただでさえやらなくちゃいけないことが増え続けているこのご時世に、仕事を納めてもなお年賀状の呪縛に囚われるとしたら、そんなものは潔くやめてしまえば良いとシンプルに思う。
大事なのは心や気持ち。それを表現できるなら、新年の挨拶はメールでもLINEでもブログでも良いんじゃなだろうか。そんなことを思ったこの年始め。

このお正月は京都奈良に行ってきました。奈良には観光で来るのは30年ぶりくらいかもしれません。激混みの京都と打って変わって、奈良はのんびりしていてとても良かったです。
奈良では法隆寺の五重塔をあらためて見てみたくて訪ねました。心柱を通した制振構造や木造の物理的な強度もさることながら、後年に建てられたほかの絢爛な五重塔よりも素朴で純粋な佇まいに、ずっと見ていて飽きませんでした。

奈良では急に思い立って慈光院にも立ち寄りました。誰もいなさすぎて、やってないのかと思ったほど。それがとても良かったです。
寺院でありながら、片桐石州による境内全体を茶席として設えた空間演出と、当第一の文化人が集った場所ということが空間全体から感じられて、しみじみと良い空間体験をさせて頂きました。
奈良はまたゆっくり訪ねたいです。


これまで家族旅行といえば子供が中心に回っていましたが、息子も成人し、ともに同じ目線で建築を見て、写真を語り、お酒が呑めるというのは今回とても楽しかったことです。
必要に応じて別行動をし、夜は一人で夜の街に消えていく息子。あ〜楽だ!10年前の自分に言ってやりたい、いつかこういう旅ができるようになることを。
そして数年後の自分にも言われることでしょう。そんな旅も、あと◯回でおしまいだよと。




