
現在進行中のお施主さんの中に,鉄道の運転手さんがいる.
日々運行する線路沿いにずっと気になる家があったそうで,「あの家の方も自分達のように建築家にお願いしたんだろうな」と思っていたらしい.ところがつい最近になってうちのサイトを開いたところ,実はそれもうちが設計した住宅だったことが判明したそうだ.
その住宅は「空の家」といって,鉄道のすぐ脇の敷地に2007年に竣工した.鉄道の騒音を防ぐため,周囲にガルバリウムの”殻”をまとったような不思議な外観をしている.実際僕もその沿線を利用する際には,車窓から目をこらしてその住宅を探すのだけれど,でも見えるのは本当に一瞬なので,注意していないとすぐに見逃してしまう.
上の写真はずいぶん前に撮ったものだけれど,ちょうど電車がその住宅に差しかかるところでシャッターを切った.でもデジカメのシャッターが落ちるのには時間がかかるし,正直撮れている自信がなかったのだけれど,確認したらちょうどばっちり写っていた.
しかも,なにやら子どもがこっちに向かって手を振っている!こんな劇的な瞬間が撮れるとは思わなかったので,思わず感動してしまった.
ちなみにこの住宅,この鉄道の運転手さんの間では知る人ぞ知る,ちょっと有名な住宅らしい.東武東上線の上福岡駅と新河岸駅の間,川越方面に乗った場合は進行方向右側です.こちらにお出かけになる際は,どうかお見逃しなく!
空の家 |PHOTOS
https://www.riotadesign.com/works/07_sora
[caption id="attachment_3465" align="alignnone" width="372" caption="空の家|2007"]

ここ数年,大学1年生後期の課題として『シェアハウス』というものに取り組んでいる.シェアハウスというのは,従来の集合住宅のようにひとつの部屋にすべてが装備されているのではなく,寝る時以外はキッチンや水回り,ダイニングや玄関などを共有し,空間をみんなで”シェア”する住宅のことだ.これが首都圏を中心に,若者の間で人気が高くなってきているという.
そう聞くと,我々は思わず昔ながらの”学生寮”を想像してしまうのだけれど,現代のシェアハウスは感覚が全く異なる.単にお金がないということではなく,また団体が結束を高めるために合宿生活を行っているというのとも違う.自立した普通の学生や社会人などが,自ら好んでシェアハウスに入居しているのだ.
正直,個人的にはそういう居住形態は気疲れしてしまいそうだけれど,最近の学生の傾向や社会の動きを見ていると,むしろ今後主流になっていくのかもしれないとも思ってしまう.それはシェアする感覚,共有感覚が昔とは異なってきているのを感じるからだ.
それが端的に現れているのは,Facebookやツイッターといったソーシャルメディア(SNS)の発達と爆発的な拡がりかもしれない.
今や,少なくとも自分の身の回りではアクティブか否かは別として,これらを全く使っていないという人はむしろ少数派になりつつある.こと学生に至っては,皆お互いがお互いをフォローし合って,24時間常に情報が飛び交っている.その緻密な情報網と使いこなし方を見ていると,彼らにとってプライバシーという概念はもはや時代遅れなのかもしれないとも思ってしまう.
これまでインターネットは,個人でホームページを作る時代からはじまって,掲示板,ブログへとその使われ方も変化してきた.それを管理する人がいて,固有のアドレスもある.ここまでは僕は”所有”感覚だと思う.
でもSNSはこれらとは全く概念が異なる.そこに書かれていることはブログと同じでも,そこに投稿された時点でそれはすでに”共有”感覚に足を踏み入れている.
そこにはヒエラルキーがなく,お気に入りのサイトを順番にネットサーフィンする感覚ではもはやない.そこに訪れるのではなく,皆が常にそこにいる.呑み会の席で語られる個人的な話題と,その話題に隣の席からいつでも入っていけるような居酒屋感覚.それがSNSであり,それを居住に置き換えると「シェアハウス」になるのではないかと思う.
ネットのこうしたやりとりやシェアハウスのような共同生活は危険だという人もいる.けれども過剰なプロテクトはその網をかいくぐろうとする人達を生む.でもすべてを白日に晒してしまうと,むしろそこには秩序や良識が生まれる.きっと人は壁をめぐらして孤立するよりも,社会的なつながりの中でゆるく守られていたい生き物なのだろう.そしてそれは思いのほか健全なコミュニケーションのあり方なのかもしれない.
シェア感覚というのは,もともと村社会からはじまった日本的な感覚だとも言える.シェアハウスに限らず,今後個人住宅を考えてゆく上でも,この感覚は大きなキーワードになるのではないかと思う.
そう聞くと,我々は思わず昔ながらの”学生寮”を想像してしまうのだけれど,現代のシェアハウスは感覚が全く異なる.単にお金がないということではなく,また団体が結束を高めるために合宿生活を行っているというのとも違う.自立した普通の学生や社会人などが,自ら好んでシェアハウスに入居しているのだ.
正直,個人的にはそういう居住形態は気疲れしてしまいそうだけれど,最近の学生の傾向や社会の動きを見ていると,むしろ今後主流になっていくのかもしれないとも思ってしまう.それはシェアする感覚,共有感覚が昔とは異なってきているのを感じるからだ.
それが端的に現れているのは,Facebookやツイッターといったソーシャルメディア(SNS)の発達と爆発的な拡がりかもしれない.
今や,少なくとも自分の身の回りではアクティブか否かは別として,これらを全く使っていないという人はむしろ少数派になりつつある.こと学生に至っては,皆お互いがお互いをフォローし合って,24時間常に情報が飛び交っている.その緻密な情報網と使いこなし方を見ていると,彼らにとってプライバシーという概念はもはや時代遅れなのかもしれないとも思ってしまう.
これまでインターネットは,個人でホームページを作る時代からはじまって,掲示板,ブログへとその使われ方も変化してきた.それを管理する人がいて,固有のアドレスもある.ここまでは僕は”所有”感覚だと思う.
でもSNSはこれらとは全く概念が異なる.そこに書かれていることはブログと同じでも,そこに投稿された時点でそれはすでに”共有”感覚に足を踏み入れている.
そこにはヒエラルキーがなく,お気に入りのサイトを順番にネットサーフィンする感覚ではもはやない.そこに訪れるのではなく,皆が常にそこにいる.呑み会の席で語られる個人的な話題と,その話題に隣の席からいつでも入っていけるような居酒屋感覚.それがSNSであり,それを居住に置き換えると「シェアハウス」になるのではないかと思う.
ネットのこうしたやりとりやシェアハウスのような共同生活は危険だという人もいる.けれども過剰なプロテクトはその網をかいくぐろうとする人達を生む.でもすべてを白日に晒してしまうと,むしろそこには秩序や良識が生まれる.きっと人は壁をめぐらして孤立するよりも,社会的なつながりの中でゆるく守られていたい生き物なのだろう.そしてそれは思いのほか健全なコミュニケーションのあり方なのかもしれない.
シェア感覚というのは,もともと村社会からはじまった日本的な感覚だとも言える.シェアハウスに限らず,今後個人住宅を考えてゆく上でも,この感覚は大きなキーワードになるのではないかと思う.

また新しい計画のエスキースがはじまった.
エスキースというのは,エスキース帳にラフ・プランニングを描いてゆくプロセスのこと.一般的に敷地は大きければ大きいほど,自由度は高いが難易度は増す.自由度という変数が多すぎて,選択肢を絞ってゆけないからだ.
無数にある選択肢の中から,それを絞ってゆくのはクライアントの要望だったり,敷地の条件だったり,自分の意志だったりするわけだけれど,プランニングが固まり振り返ってみると,自分が一体何に悩んでいたのかわからなくなるくらい明確な線がそこには引かれている.そう,疑いの余地もないくらいに.けれどもその道はけして平坦ではないのだ.
大学では学生達も苦労している.プランニングがまとまらなくて,すがりつくような目で皆指導の席へとやってくる.不思議なもので,プランニングの当事者から離れて指導側にまわると,本人には見えていないいろんなことが実によく見えるのだ.
この学生のゴールはもうすぐそこに迫っている.目の前に見えている扉の位置をさりげなく指し示してあげているというのに,見つからないと言っては元来た道をまた引き返してしまう.あぁ,なんと歯がゆいことか!
でもひとたび自分の問題になると,いとも簡単にその道筋を見失ってしまう.
プランニングの迷宮入りは毎度のことだ.そこにはプロも学生もない.集中して入り込んでは,しばし鉛筆を置き俯瞰的に眺めてみる.気分転換をしてはまた戻ってくる.はまりそうではまらない.僕の後ろの”誰か”もそんな僕の心許ないエスキースを眺めては,きっと歯がゆく思っているに違いない.「あっちがう.そうそこ!」
それを受信できるアンテナは,やっぱり鉛筆しかないんだろうな.

毎年秋になると家族で旅行に出かける.一般的に旅のテーマといえば,海,山,グルメに温泉といろいろあるけれど,我が家の場合は必ずアートか建築が軸になる.素晴らしい作品や空間に触れると,おいしいものを食べた時と同じくらい心が満たされる.
もっとも,毎回それにつき合わされる子どもはどう思ってるかはわからないけれど.ただ物心ついた時からそういうところにばかり連れて行かれるし,最近では自分から美術館や博物館に行きたいと言い出すこともあるので,既に家族旅行とはそういうものだと思っているかもしれない.
今回は静岡の三島にあるクレマチスの丘まで足を延ばした.クレマチスの丘には,ヴァンジ彫刻庭園美術館やIZU PHOTO MUSEUMなどの美術館がクレマチスの咲く庭園と共に敷地内に点在している.
中でもイタリアの彫刻家,ジュリアーノ・ヴァンジの彫刻がならぶ庭園は美しく,また天気も良くて最高に気持ちが良かった.人も少なかったし,こうして屋外で彫刻を楽しめる場所というのは開放的で,やはり美術館の中よりずっと楽しめる.ヴァンジの表現力と,彫刻の表情が実に良くて,ついつい引き込まれてしまった.
ほかにも御殿場で立ち寄った,内藤廣さん設計による「とらやカフェ」や「とらや工房」も素晴らしかった.全体の構成は素っ気ないくらいシンプルに,でも寄って見ていくとため息が出るくらい細やかな配慮が行き届いていて,内藤さんらしい建築だった.
内藤さんの建築には一言でいえば品がある.人としての品性は建築ににじみ出るものだとあらためて感じた.
最近思うことは,建築単体ではなく,建築と環境がいかに引き立てあえる関係をつくれるかということ.特にとらや工房は,そういう意味において”反則”と思うくらいその佇まいや環境が素晴らしかった.逆に言うと,その環境づくりをするのが建築家の仕事なのかもしれない.内藤さんの仕事と,クレマチスの丘で見た建築群と庭園との関係にもそれを感じ取ることができた.
番外編では,とらや工房の敷地内に建つ旧岸邸(設計・吉田五十八)も見学できたり,退屈気味だった子どもとは東山湖で釣りをしたりと盛りだくさんの旅だった.ちなみに冒頭の写真はヴァンジ庭園で叱られ,ふてくされて佇む息子.その表情と手前の彫刻との対比がなかなかいい.
[caption id="attachment_2819" align="alignnone" width="418" caption="ヴァンジ彫刻庭園美術館|クレマチスの丘"]

[caption id="attachment_2813" align="alignnone" width="418" caption="壁をよじ登る男|ジュリアーノ・ヴァンジ"]

[caption id="attachment_2806" align="alignnone" width="418" caption="とらや工房|設計:内藤廣"]

[caption id="attachment_2814" align="alignnone" width="560" caption="IZU PHOTO MUSEUM|内装・庭:杉本博司"]

[caption id="attachment_2815" align="alignnone" width="560" caption="旧岸信介別邸|設計:吉田五十八"]

一流のサッカー選手は、他人のプレーを一目見て盗むという。
人聞きは悪いけれど、「盗む」という行為はかなり高度な行為だと言える。実際我々はサッカーのすごいプレーを見たところでそれを真似することはできないのだから。それを見て自分のプレーにできる人というのは、それなりのスキルとセンスを併せ持つ人だとも言える。
大学では、学生は人と"かぶる"ことを極端に嫌う傾向がある。過去に同様の作品があったり、建築家の作品があったりすると、その時点でそのアイデアを捨て去ってしまう。僕に言わせれば、それを見たところでそれを自分のものにできるわけではないし、結局は違うものになるのだから構わず進めてしまえばいいのに、と思う。
誤解を恐れずに言えば、我々は建築を見に行くのに少なからず何かを盗みに行っている。盗むものがなければ窃盗未遂で終る。そのかわり我々は「つまらない建築だ」などとと毒づくことになるわけだけど。
目で見た、体験した空間を消化して自分の空間のエッセンスにできる人のことを、我々は「建築家」と呼んでいるのかもしれない。
人聞きは悪いけれど、「盗む」という行為はかなり高度な行為だと言える。実際我々はサッカーのすごいプレーを見たところでそれを真似することはできないのだから。それを見て自分のプレーにできる人というのは、それなりのスキルとセンスを併せ持つ人だとも言える。
大学では、学生は人と"かぶる"ことを極端に嫌う傾向がある。過去に同様の作品があったり、建築家の作品があったりすると、その時点でそのアイデアを捨て去ってしまう。僕に言わせれば、それを見たところでそれを自分のものにできるわけではないし、結局は違うものになるのだから構わず進めてしまえばいいのに、と思う。
誤解を恐れずに言えば、我々は建築を見に行くのに少なからず何かを盗みに行っている。盗むものがなければ窃盗未遂で終る。そのかわり我々は「つまらない建築だ」などとと毒づくことになるわけだけど。
目で見た、体験した空間を消化して自分の空間のエッセンスにできる人のことを、我々は「建築家」と呼んでいるのかもしれない。
