連日のこの報道、たまんないなと思う。

これは他の日大卒の人はわかると思うけれど、日大は学部間の温度差と同様に、本部と学部とにも大きな温度差があって、日大アメフト部の悪質タックル問題ですらも私にとっては対岸の火事みたいなものだった。

今回の日大理事逮捕も、申し訳ないけど私にとってはどうでも良いことで、わが日大理工と一緒にされては困るとすら思う。

ただ今回のこの騒動で一点だけ許せないことがある。それは今回の報道で明るみに出た「業者選定のためのプロポーザルで都内の設計会社が1位になるよう評価点を改ざん」という点についてだ。設計なめんな、て思う。

プロポーザルに参加した各社の上層部は、もしかしたらこれが出来レースであることを知っていたのかもしれない。あるいはそうではなかったのかもしれないが、実際にプロポーザルのために真剣に建築に向き合った社員達はいたはずで、何日も徹夜をして仕上げた提案が、このような愚にもつかないようなことで、内容すらも考慮されずに却下されたのだとしたらたまらない気持ちになるだろう。

当選した事務所の担当者だって今回の報道にさぞや心を痛めているに違いない。建築に向き合うというのはそういうことなのだ。朝から腹が立って仕方がない。

今回の報道で、私と同じ日大理工の関係者は、瞬時に”あのこと”を連想したに違いない。だとしたらすべて辻褄が合うのだから。あくまで妄想に過ぎないかもしれないけれど、そんなことを思うだけでとにかく腹が立って仕方がない。建築なめんな、て思う。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021100700403&g=soc&fbclid=IwAR22az82-v3COtTbfnzk4ZWZ6uZzbhlGWcSr_INQjJRmVcihrC_SGeojdjA

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sekimoto

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> 思うこと
> 生活


人生、皿まわし。バースデーケーキの上に毎年一本ずつのローソクと、その上にさらに皿がまわりはじめる。

毎朝目覚めると、寝ぼけた頭で「今日は何だっけ?」と考える。そっか、あれとこれと、あとあれもやらなくちゃ。忘れないうちに枕元のメモに書き留めて一日がはじまる。昔なら数ヶ月に一度くらいのイベントや重要な打合せが、今では毎日のように、時に一日にいくつもある。

かつてなら一枚の皿だけをぎこちなく慎重に回していたというのに、今ではコツを覚えた。自分の皿が回せるようになると、隣から「こっちも回してよ!」とお声がかかる。お望みとあらば、と引き受けているうちに、今では自分でも数え切れないほどの皿がまわっている。

それをたまにふと冷静に眺めて怖くなる。どの皿も落としてはいけない!と思うと、おそろしくて仕方がない。

大量にまわる皿の中には、グラグラと不安定なもの、いまにも止まって落ちそうなものもある。新しい皿をまわしながら、あっちの皿、こっちの皿にも気を配る。両手両足、それでも足りなければ口も使って、器用な姿勢で皿をまわしつづける。

今では一緒に皿を回してくれる仲間やスタッフも増えた。ステージいっぱいに回り続ける大小様々な皿は壮観そのものだ。皿をまわすたびに起こる喝采は、私の折れかかった心を奮い立たせる。

こんな綱渡りのような皿まわしはいつまで続くのだろう。そろそろしんどい。しかし皿はまわり続ける。そして本日、50枚目の皿がまわりはじめた。

自分史上最多を更新。
おめでとう、自分。おつかれさま、自分。

夏休み二人目のオープンデスクは、芝浦工大3年の中島桃さん。

行ったことはないけれど、北欧にすごく興味があるということで、「北欧、オープンデスク」のキーワードで検索したらリオタデザインがヒットしたのだとか。そんな検索でヒットすること自体がびっくりですが、こんな子もはじめて。

いつものように設計課題に向き合ってもらう一方で、ちょっとした建築見学も。夏休みはどこにも行けなかったそうなのでかなり嬉しかったようです。元オープンデスクの学生も合流して、束の間の楽しいひとときでした。

これはオープンデスクに思うことですが、学生に実務を教えることには意味はないと思いますが、実務の現場にしかない建築の真実というものはあるような気がします。この学生さんも、大学ではけして言われることのなかったことばかりを指摘されてずいぶん戸惑っていましたが、最後は生活感の見えるプランを描き上げてくれました。

建築を考える上で一番大切なことは、ハートで考えることです。それは本には書かれてはいないのです。ルールに従うのではなく、自分の気持ちに正直に従うことが、正しい決断と自身の幸せにつながる。私はそれをフィンランドで学んだのですが、たぶん最後に話したそんなことが彼女には一番深く響いたような気がします。



21. 07 / 31

設計とは

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sekimoto

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> 思うこと


日常には困難が転がっている。たいがいが、思い通りにならないことばかりだ。

困難に直面したとき、あなたならどんな行動を取るだろうか。困難を乗り越えるためにあらゆる手段を尽くし、解決への努力を惜しまないという人もいれば、何もしない、もしくは何も出来ない(どうしたらよいかわからない)という人もいる。

設計やデザインという仕事に携わる人は、この問題解決スキルが高い人が多い。そもそもこの仕事というのは、問題や困難が持ち込まれて、それをなんとかしてほしいというのが依頼そのものであることが多いので、問題解決が出来ない人は本質的にこの仕事には向かないとも言える。

それにしても、日々設計に向き合っていると、設計とは人生そのものだとすら思えてくる。人生において起こるすべての困難は設計においても同じように起こるからだ。理想と現実、お金の問題、きれいごともあればドロドロしたものもある。他者への思いやりもあれば、自分自身のエゴもある。

問題の解決方法も様々で、現実的で安易な解決もあれば、理想的だけれどあまりにハードルの高い解決もある。あなたならそんなときどんな解決を選ぶだろうか。

設計やデザインという仕事に携わる人は、そんなとき安易な解決を選ばない。「こうありたい」「こうあるべき」という理想に向かってまっすぐと像を結べるような、そんな選択を重ねて行くのが我々の仕事の本筋だからだ。

だからなのか、建築家やデザイナーはポジティブな人が多い。そもそも我々の仕事は「建築家(デザイナー)になりたい」と強く願い続けなければなれない職業だし、そのために安易な進路を選ばなかった人が多いからだとも思う。

人生にポジティブな人は魅力的だ。そういう人と一緒にいると楽しくなる。自分もどこか、ここではない場所に連れて行ってもらえるような気がするからだ。

設計とは選択であり、解決であり、決断である。前向きな人生への入口であり、手段であり、そして目的でもある。やっぱり、設計とは人生そのものなのだろう。


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sekimoto

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> 仕事
> 思うこと



「紬の家」と名付けた住宅を昨日無事引き渡しました。法延べ床面積で100坪超、計画から竣工まで二年半の時間を要したプロジェクトでした。

計画の詳細はここでは語りませんが、かつてない規模、そしてこれまで経験のない素材や仕様も多く、特殊条件に戸惑いながらもなんとか着地させたというプロジェクトでした。

この案件で得た学びは数多くありましたが、この仕事において強く意識をさせられたのは、設計者が担うべき責任と判断についてです。



一般的に我々設計者は依頼者のご要望をお聞きし、それを設計によって具体的な形にしてゆきます。その過程ではプランニングや仕上げなど、建て主さんのご意見を聞きながら進めてゆくことになります。

今回の計画も原則としては先のような手順を踏んでいますが、今回のような規模の計画になると、些末な細部にまで建て主さんのご意見を聞いているわけにはいかなくなります。そうしたときに問われるのが、先の設計者としての責任と判断です。

建築行為には大変な費用がかかりますので、いざ出来上がってみたら「思っていたのと違う」と言われてもやり直しはききません。そのために我々に必要になるのは建て主さんへの確認ということになるわけですが、時にそれがエスカレートすると、その仕様の可否そのものの判断をも、建て主さん側に委ねてしまうことにもなりかねません。

それは建て主さんのご意見をお聞きしたといえば聞こえは良いのですが、単なるクレームを避けたいがあまりの設計者の責任放棄になっているケースはないでしょうか?「だって、建て主さんがそうおっしゃったので」そう言えば許されるという甘えが、少なからずそこには含まれているような気がするのです。


我々がこれまでに手がけてきた住宅は、この20年でおよそ100件あまりになります。我々は住宅設計のプロフェッショナルであり、美意識や技術力、情報量すべてにおいて、一般の人よりは上でなくてはいけないとも思っています。

ところが多くの建て主さんが建てる家は、一生に一度きりです。そして我々の事務所にご相談に来た段階では、まだ一度も建てたことのない状態でいらっしゃることがほとんどなのです。

そんな一度も家を建てたことのない建て主さんに対し、「間取りはどうしたらいいですか?」「仕上げは?」「色は?」とプロがこと細かくお伺いを立てるというのは、実はおかしいことなのではないかと私は思います。

かといって建て主さん側も、はなから「お任せします」と我々に投げられてしまうのも困ります。これは逆に建て主さん側の責任放棄です。

「建築士が勝手にやったこと」と言う人が世間にいますが、一度も図面を見ていない、もしくは関心を持っていなかったとしたら、やはりこれも先の優柔不断な設計者と同罪ということにならないでしょうか。


私は建て主さんとの理想的な関係は、必ず我々がイニシアチブを取り、常に提案ベースで一歩先を行く”道先案内人”であることだと思っています。

「どうしますか?」ではなく「○○が良いと思いますが、どうですか?」もしくは「こういう理由で、○○がベストだと考えたのでそのようにしました」という我々なりの結論ありきの対話です。

もちろん、建て主さんはそれに対して違和感や反論があれば、相手がプロであろうとも躊躇なく口にすべきです。これはお互いが最後に言い訳をせず、フェアに家づくりをするための最低限のルールだと思うからです。


この「紬の家」は、建て主さんと言い尽くせぬほどの膨大な対話を積み上げていったプロジェクトでした。ですが一貫していたのは、我々が建て主に成り代わって「判断する」というスタンスです。たとえ、建て主さんが要望を出したとしても、我々がそこに違和感を感じたときは首を縦に振りませんでしたし、建て主さん側も同様にそうでした。

物事がスムーズに決まってゆかないジレンマはありましたが、長い長いトンネルを抜けた先に待っていたのは、それらがすべて結晶化し、役割を全うしたという爽快感だった気がします。

「思ったことはすべて伝えたけれど、結論に後悔はありません。最後まで投げ出さずに向き合ってくれたことに感謝します」とおっしゃって頂けたその一言に、この二年半の苦労がすべて報われた気がしました。