
井上洋介さんのオープンハウスへ。
井上さんの住宅を見るといつも建築家の仕事というものを考えさせられる。急カーブをブレーキも踏まずに突っ込んで行くような大胆さがなければ人を感動させることはできない。でもそこに悪魔のような繊細さがなければただの無謀運転、コーナーに激突してそこでおしまい。
その超絶的なドライビングテクニックを見に、掛け値なしに「すげー」ってただ言うためだけに、F1レースを見に行くような気分でいつも出かける。
この空間を求めたのは誰だろう?発注主は建主であったとしても、こんな空間は想像もつかなかったに違いない。建築とは常に発注主からは離れたところにある。要望がこうだったからこうなった、という説明はただの言い訳に過ぎない。
物価高騰も職人不足もみんな言い訳だ。だってこんな建築ができるんだもの。きっと壮絶な苦労があったことは想像に難くないけど、これができるならすべて忘れられる。だって、建築ってそういう仕事でしょ。そう言われたような気がしました。
今日も勇気を頂き、ありがとうございました。



昨日は建築家の佐藤重徳さんの「住宅の骨格」展へ。丸山弾さんとも会場でばったり。次々と関係者が集まってきていました。
重徳さんは、会うといつも「山みたいな人」だと思います。黙ってそこにいる感じ。でも呼びかければやまびこのように確実に返ってくる。それはご自身が元山岳部の主将だったということにも関係するのかはわかりませんが、実際今回の個展でもご自身の仕事を山登りに例えて解説されていました。
骨格というと、例えば内藤廣さんのように、整然とした架構を意匠として表明するような建築を想像しますが、重徳さんの建築は全く違います。むしろ構造は見えない。それは心の中にある、そんな感じがします。それがこぼれ出て全体を整合させる規範になっている。
よく筋を通すという言い方があります。あるべき序列や道理を飛び越えた行動を筋違いと言ったりもしますが、重徳さんの建築にはそれがない。人としてまっすぐの場所に立っている。だから清々しいのだと思います。やっぱり「山みたい」って思います。
会えばそんな説教は一切なし。そこにはいつも温かな心配り。いつかそんな風になれたらと思うのですが、私には一生無理かもしれません、、。いつも居住まいを正して頂く、人としてとても尊敬する建築家です。



自宅のトイレにある日「点検」ランプが灯った。ん、故障か?そう思ってマニュアルを読むと、設置してから10年経つと自動的に点灯するものだという。ランプを消すためには、メーカーに連絡をして点検をしなくてはいけないらしい。
点検といったって、トイレは普通に使えているし、ほんとに点検なんているのかいな。ちょうど工務店の設備屋さんが別件で来ることになっていたので、ついでに見てもらうと別におかしいところはないという。けれどランプを消すためにはメーカーを呼ぶ必要があり、それにはお金がかかるという。なにそれ?だ。
そこでメーカーを呼ぶとする。すると「異常はありませんが、最近ご不便はありませんか?」そんなサービスマンの問いかけに、「そういえば最近… 」はいそこのあなたロックオン!
最近ではこんな機能がついていまして、しかも節電、今ならオトク!のたたみかけに、「じゃあ、お一つ頂こうかしら」「まいどあり!」の流れになるに違いない。
点検は呼ぶつもりはない。ないけれど、このランプ気になる。お金を払うから消してほしい(じゃあ呼べよ)

飯塚豊さんの第7期工務店設計塾。今日は実作見学会がありました。30名ほどの塾生を、朝からリオタデザイン設計の「越屋根の家」「自邸OPENFLAT」をご案内、その後飯塚豊さんの浦和S邸へと足を伸ばしました。
各回45分の見学時間を駆け足でご紹介。もう少しじっくり見て頂きたいところもありましたが、それはまたの機会ですね。
3件目の飯塚さんの住宅はあまり知られていない住宅かもしれないのですが、2006年の竣工とのことで飯塚さんにとって独立後3件目の家とのこと。しかしこれがとても良かったのです。過去私が見た飯塚さんの住宅の中で、もしかしたら一番心を掴まれた住宅かもしれません。
、、なんて書くと怒られちゃうかもしれませんが、実のところ今日ご案内した「自邸OPENFLAT」も2007年の竣工ながら、私の住宅で一番良いとおっしゃる方も少なくなかったりします。
なんでなんでしょうね。今の方がお互い脂が乗っていて絶対的に質の高い設計をしているはずなのに。
ひとって何度も同じ納まりや素材を使っていると慣れてくるというか、洗練する一方で緊張感が抜けてくるんでしょうか。惰性とは言わないまでも既視感があったり、本人も楽にコントロールしている感じがあったり。
でも駆け出しの頃って必死なんですよね。ハンドル握る手にも汗びっしょりみたいな。
危ない危ない!って傍目にはハラハラするんだけど、本人は必死だから結果的に綱渡りを渡りきれちゃう。でも渡り終わって後ろ振り向いたら、ゾッとしてもう二度と渡れなくなるみたいな。
飯塚さんの住宅は、飯塚さんのような大ベテランでも、駆け出しの頃があったんだという初々しさとポテンシャルの高さが感じられて、とても貴重なものを見せて頂いたような気がします。
そういう意味では、私の自邸と最新作の越屋根の家も、リオタデザインのビフォーアフターみたいで、今日の参加者も貴重なタイムトラベルをされたのではないでしょうか?
参加者の皆さん、大変お疲れさまでした!充実した一日でした。新建新聞社の皆様も段取り大変ご苦労さまでした。




今年はうちの事務所からは年賀状を出さなかった。一応その旨は昨年の年賀状で宣言済みだったものの、いざ出さないとなるとこれまで頂いていた方に失礼にならないだろうか?といろいろと心配になった。
ただ実際には、昨年末は特に忙しかったこともあるけど、暮れが近づくにつれて「そろそろ年賀状発注しなくちゃ」「切手買わなくちゃ」からはじまって、出す人のリストの精査、宛名ラベルや切手貼り、一言コメント書きとやらなくちゃいけないことがいっぱい!昨年末はそれらすべてを放棄できたことで、これがどんなに楽だったことか。
そうしたら、年が明けて届いた年賀状のまぁ少なかったこと!なんだか逆にホッとしてしまった。やっぱりみんな同じだったんだ。写真の左側は昨年の年賀状、右側は今年の年賀状(たぶん100枚くらい)。その量は約半分!年々減り続けていたけど、今年は一気にガクンと少なくなった。
それでもご丁寧に頂いた方には本当に頭が下がる思い。それなのに、お返事も出せなくて本当にごめんなさい!
◇
そんななか思うことがいくつかあった。
例年通り届いた年賀状は、可愛らしいイラストや凝ったデザインのもの、丁寧に手書きのコメントを入れて下さっている親しい方からのものもあって、こちらはほっこりしながら嬉しく読ませて頂いた一方、画像ひとつない紋切り型の挨拶のみが印刷された企業からのものも少なからずあった。
頂けるのはありがたいと言いたいところなのだけれど、もう何年もお付き合いが途絶えていたり、そもそもこんな業者知らない、、というものも結構あって、こんなに一通の年賀状の重みが上がっている昨今でも、こんな無駄な経費の使い方をしている企業があるんだという点に驚く。
無駄なんて言っては失礼かもしれないけれど、「送る」という行為だけにとらわれて全く心のこもっていないハガキは、営業になるどころか不要なDMに近いとすら思う。
一方では、昨年の私のように「来年からはもう出しません」ということを宣言したものも。これについては、こちらもすでに実行しているので「おぉ、あなたも。もちろん大丈夫ですよ!」と心で思うのだけれど、その理由として「地球環境に配慮して」「SDGsの達成のために」など壮大な環境意識を謳っているものも結構多かった。
あの、そんなに大げさなことなんでしょうか、、?
地球のために年賀状出さないとか本気で言ってる?ってへそまがりの私はつい思ってしまう。いっそ正直に「経費削減のため」「忙しくて無理」「ぶっちゃけ、めんどくさい」と書いてくれた方がまだ好感が持てる(めんどくさいは言い過ぎか)。
私は年賀状出すことが環境破壊だとは思わない。それを言うならもっと削減できることあるでしょうって思う。
最近では絶滅危惧種になりつつあるけど、年末にカレンダー置いてく問題もなんとかしてほしい。新手のいやがらせですか?とすら思う。いまどきカレンダー壁に掛けないでしょう。掛ける場合は相当吟味するし、なんなら自分で買う。あと社名入りの手帳とか!まじでいらない。使ってる人見たことない。
昔は年末に受け取りを拒めなかったカレンダーや手帳類を大量に捨てていた。これが、心が痛むこと傷むこと!いらないものをお得意様に捨てさせておきながら、自分はやるべきことやったみたいに思う悪しき慣習だ(しかも昭和の)。そんなときこそ「SDGs」と書かれたレッドカードを颯爽と突きつけたい。
でもただでさえやらなくちゃいけないことが増え続けているこのご時世に、仕事を納めてもなお年賀状の呪縛に囚われるとしたら、そんなものは潔くやめてしまえば良いとシンプルに思う。
大事なのは心や気持ち。それを表現できるなら、新年の挨拶はメールでもLINEでもブログでも良いんじゃなだろうか。そんなことを思ったこの年始め。
