12. 08 / 23

もはやアート

author
sekimoto

category
> 社会



いつも前を通るたびに思うのですが,埼玉県庁の耐震改修​ひどくないですか?
まさに満身創痍,もしくは地球外生命体に包囲されたSF映画のようです.

せめて色を塗ったらアートになりそう​!
ここ数年,大学1年生後期の課題として『シェアハウス』というものに取り組んでいる.シェアハウスというのは,従来の集合住宅のようにひとつの部屋にすべてが装備されているのではなく,寝る時以外はキッチンや水回り,ダイニングや玄関などを共有し,空間をみんなで”シェア”する住宅のことだ.これが首都圏を中心に,若者の間で人気が高くなってきているという.

そう聞くと,我々は思わず昔ながらの”学生寮”を想像してしまうのだけれど,現代のシェアハウスは感覚が全く異なる.単にお金がないということではなく,また団体が結束を高めるために合宿生活を行っているというのとも違う.自立した普通の学生や社会人などが,自ら好んでシェアハウスに入居しているのだ.

正直,個人的にはそういう居住形態は気疲れしてしまいそうだけれど,最近の学生の傾向や社会の動きを見ていると,むしろ今後主流になっていくのかもしれないとも思ってしまう.それはシェアする感覚,共有感覚が昔とは異なってきているのを感じるからだ.

それが端的に現れているのは,Facebookやツイッターといったソーシャルメディア(SNS)の発達と爆発的な拡がりかもしれない.

今や,少なくとも自分の身の回りではアクティブか否かは別として,これらを全く使っていないという人はむしろ少数派になりつつある.こと学生に至っては,皆お互いがお互いをフォローし合って,24時間常に情報が飛び交っている.その緻密な情報網と使いこなし方を見ていると,彼らにとってプライバシーという概念はもはや時代遅れなのかもしれないとも思ってしまう.

これまでインターネットは,個人でホームページを作る時代からはじまって,掲示板,ブログへとその使われ方も変化してきた.それを管理する人がいて,固有のアドレスもある.ここまでは僕は”所有”感覚だと思う.

でもSNSはこれらとは全く概念が異なる.そこに書かれていることはブログと同じでも,そこに投稿された時点でそれはすでに”共有”感覚に足を踏み入れている.

そこにはヒエラルキーがなく,お気に入りのサイトを順番にネットサーフィンする感覚ではもはやない.そこに訪れるのではなく,皆が常にそこにいる.呑み会の席で語られる個人的な話題と,その話題に隣の席からいつでも入っていけるような居酒屋感覚.それがSNSであり,それを居住に置き換えると「シェアハウス」になるのではないかと思う.

ネットのこうしたやりとりやシェアハウスのような共同生活は危険だという人もいる.けれども過剰なプロテクトはその網をかいくぐろうとする人達を生む.でもすべてを白日に晒してしまうと,むしろそこには秩序や良識が生まれる.きっと人は壁をめぐらして孤立するよりも,社会的なつながりの中でゆるく守られていたい生き物なのだろう.そしてそれは思いのほか健全なコミュニケーションのあり方なのかもしれない.

シェア感覚というのは,もともと村社会からはじまった日本的な感覚だとも言える.シェアハウスに限らず,今後個人住宅を考えてゆく上でも,この感覚は大きなキーワードになるのではないかと思う.