12. 08 / 15

夏休み

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sekimoto

category
> 子ども
> 生活



さて,短かくも楽しかった夏休みが終わろうとしています.

この休み,子どもがぎこちなく段ボールでピンボールを作ろうとして​いたので,黙って見ておれず,一緒にホームセンターに行​って材料を買ってくることにしました.一緒にカナヅチで​叩いたりノコギリで切ったりと,久しぶりにこっちも夏休​み気分で工作を楽しみました.子どもの好きなポケモンの​キャラクターを配置してできあがり!

手前味噌ですがこれ​が良くできていて,レバーを輪ゴムではじくディテールなど自画自賛,各ポケットにもうまい具合に球が入り大人がやってもなかなか楽しめるゲー​ムになりました.

 
あとはこの休み,毎日のように子どもと川に行っていました.家からちょっとのところにはきれいな川が何本も流れています.このあたりは自然豊かな埼玉に住んでいて良かったと思えるところです.

上の写真,左は近所の川で川遊び,右は渓谷にBBQと釣りに行った時の様子.どちらでも魚がいっぱい捕れて子どもも大喜びでした.



1日はプールにも行ったので,体中が真っ赤でひりひりです.子どもも成長して少しずつ冒険や危険な遊びもできるようになってきて,少しずつ”子ども”から,対等な”遊び相手”になりつつあるのを感じます.おかげでこちらもクタクタですが,久しぶりに夏らしい充実した夏休みとなりました.子どもにも感謝です.

さて,遊んだ後はちゃんとお勉強も!

オリンピックを見ていて思うことがある.
それは世界のトップアスリートには”型”があるということ.それはその競技を究めた者だけが持つ特殊な体の使い方,長い時間と鍛錬を経てようやくそこに行き着いたともいえる終着点,いわば「究極の合理性」のようなものだ.

ビギナーは見よう見まねから入る.本人はそのつもりでも,実際の体の使い方には無駄が多く,正しく力が伝わらない.だから余計に肩の力が入ってしまう.無駄な動きのないプレーはやっぱり美しい.

私の続ける弓道もそうだ.弓道にも型がある.そして頑なにその型通りに射ることが良しとされる.自己流は評価されず,癖が出てきたら徹底的に矯正される.癖のない射形が最も美しく,また結果的に最も当たるからだ.

癖とは人間の業のようなもので,なくて七癖,人はそれをして時に「個性」と呼ぶ.ある場面では個性はより尊ばれる.「個性を尊重する」と言えばほとんどの場面で前向きな発言と捉えられるだろう.ところがある場面では癖や個性というものは行く手に大きく邪魔をする.ある道を究めようとする時,人は自分の癖に「個性」と名付けた瞬間に,その人の成長はある意味止まってしまうような気がする.

建築やデザイン,アートは特に個性が尊重される世界だ.個性的であることが良しとされる.またそれは時に「作風」とも呼ばれ,その人の大きな武器にもなる.ところが多くの人はここではき違えてしまう.個性的であることがゴールなのだと思ってしまう.

一流と呼ばれる建築家や美術家の作品には,そこにある共通点を見いだすことができる.それはやはり”型”のようなもの,あるいは「究極の合理性」と呼べるようなものかもしれない.

究極の合理性とは,単に便利とか経済的であるとか,そういうことではなく,例えば一本の樹木のようなものかもしれない.そこには水を吸い上げ,光合成を行い,養分を隅々まで行き渡らせ花や実をつける完結したシステムがある.そこには一切の無駄がない.

ところが桜と蜜柑の木が異なるように,そこには大きな個体差が存在する.我々はそれをして「個性」と呼びたい.無秩序で思いつきのような行為は,どこまで行っても「でたらめ」でしかなく「個性」ではないのではないか.オリンピックをため息をついて観戦しながら,ついそんなことを考える.

オリンピック選手たちの演技や競技にほとんど優劣はない.
ほんのわずかな心の隙間,あるいは積み重ねた経験値や実力差のようなものが,ほんのちょっと作用してメダルの色が変わる.彼らはそのほんのわずかな違いのために日々の鍛錬を怠らない.それは自我を捨てて自分を越えてゆこうとする試みとも言える.だから美しく,心が揺さぶられるのだろう.

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sekimoto

category
> 生活
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スタッフが博多方面に行ったおみやげを買ってきてくれた.
もう一人の福岡出身スタッフによると,それは博多を代表するお菓子で,それを買ってくるとはさすがだと賞賛している.週末一人で仕事をしていた時にふとそれを思い出し,このおみやげのお菓子を一つ頂くことにした.

パッケージを見ると「博多~れもん」という名前が飛び込んできた.へぇ,レモン味のおまんじゅうなんて面白い.一口食べると,確かにレモンの味がする.へぇおいしい!

週明けにこの話をした.「このあいだの,なんとかレモンおいしかったよ!」
ところがスタッフ一同「??」という顔をしているので,「だから博多土産の…」と言うと「もしかして,”博多通りもん”のことですか?」通りもん?え,レモンじゃないの?

僕は負けじと,いや実際にレモンの味がしたし!と応戦するものの,するわけないとスタッフ全員から冷たい視線を浴びたので,じゃあもう一度食べてみよう!と食べてみると,あれ?やっぱりレモンの味しない…汗.

人間の刷り込みってオソロシイ.カレーって書いてあったら,僕はカレー味のおまんじゅうを食べながらきっと汗を流していたに違いない.そして今日スタッフに指摘されなかったら,ずっとこれは何の疑いもなく「レモン味」だと思い込んでいたし,博多に行く人にはこの「レモン味」のおまんじゅうをリクエストし,そのありもしないお菓子のために街中を走り回らせていたことだろう.

でもレモン味のおまんじゅうって逆に斬新だと思うけれど.
作りませんか?博多の新名物.

12. 08 / 01

そっち系

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sekimoto

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> 建築・デザイン
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建築におけるディテールのありかたについて,時折考えさせられる.

先日,某著名建築家さんのオープンハウスにお邪魔させて頂いた.さすが,建築としては非常によくできた意欲作だった.でも細かいところを見ていくと…結構アレ?と思うところがいくつかあって,非常に気になってしまった.

こういう場合,たぶんそういう指摘をしちゃいけないんだろうな,と思う.つまりそんな(取るに足らない)細かいところよりも,建築のコンセプトであったり,大きな意味での空間の気持ちよさや面白さが勝つのであって,そんな重箱の隅をつつくようなことを言うのは無粋であると.

でも,どうなんだろう.空間性もなくて,細部もないようでは論外だけれど,空間性があるのだから,もう少し先まで突きつめればもっと良いものになるのに,もったいないとつい思ってしまう.そしてそうした空間にちょっとした違和感や,嫌悪感のようなものすら感じてしまう.

例えば建築のディテールを語る時,大きな意味での「素材の使い方」という意味と,もっと細かい意味での(枠廻りなどの)「素材の取合い方」という意味がある.それに加えて「プロポーション」の問題もあるだろう.

前者は直感的,感覚的なものであるのに対して,後者はより論理的,経験的な要素が強い.僕が気になるのはむしろ後者のことで,これがおろそかな事務所は,若いスタッフに「任せきり」になっていることが多いような気がする.

どうしてそうなるかというと,建築家がそういうところに興味がないからだ.つまらない.前述のようにそういうことをやるのはスタッフの仕事であって,自分は建築のコンセプトにより力を注ぎたい,「作品」を作りたいと思っているからだ.前述の違和感や嫌悪感は,そういうところに起因しているような気がする.

そういう仕事を見ると,この事務所は「そっち系」なんだなと思う.「そっち系」の仕事は「わぁ」とは思うけれど心には響かない.深みや心のひだに入り込んでくる情感のようなものがない.

私がオープンハウスに行って,いつも鳥肌が立つような感動を覚える事務所の仕事は,細部まで実に配慮が行き届いている.それは単に「納めている」だけではなく,人間の心理や感覚,生理をきちんと読み取って,適切なスケールでそれを形にしている.それは単なる利便性が高い実用的な空間というものとは異なる.しっとりと体に馴染むような空気感がそこにはあるのだ.

若い頃はそれがわからなかった.もしかしたら,むしろ退屈に映っていたかもしれない.けれども今はよくわかる.自分の目指す仕事はやっぱり「そっち系」ではないのだなと再認識する.

12. 07 / 24

超社交性

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sekimoto

category
> 子ども
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子どものアイデンティティって,どこから来るんだろうといつも思う.
よく子どもが問題を起こすと,親の育て方が悪いと批判されることがある.一方で礼儀正しい子どもは,きっと親のしつけが良いのだとも言われる.確かにその通りのこともある.けれども,必ずしもそうではないこともある.

たとえば親がだらしない性格だと子どももだらしなくなるかというと,意外としっかりした子どもになることもある.逆に親があまりに几帳面な性格だと,子どもがたまらず脇道に逸れてゆくというケースもあるような気がする.夫婦の関係もそうで,だらしない夫にはしっかり者の奥さんが寄り添ってくれる.家族というものは,閉じた関係の中でお互いバランスを取り合おうとするものなのかもしれない.

うちの子の社交性はずば抜けている.いくら子どもだからとはいえ,ここまでオープンな性格の持ち主に日常で出会うことは滅多にない.うちは夫婦そろって人見知りをする方なので,親の背中を見て育ったとは到底考えにくい.

まず信じがたいことは,自分の知らない人たちが集まる場所でも進んでついて来たがることだ.そしてその場で片っ端から知らない大人にも声をかけるし絡んでゆく.基本的に人が好きなのだろう.公園などでもどんどん知らない人の輪に入ってゆくし,旅先や買物でも,ちょっと目を離した隙にはもう友達を作っている.逆にちょっと人見知りをする子だとどん引きである.でも彼にはその感覚はわからないらしい.

先日は止めるのも聞かずに近所のおばさんと犬の散歩に出かけてしまった.奥さんの実家の近くにも友達がいるので,どこに行っても遊び相手には事欠かない.これは才能だと思う.ある意味,コミュニケーションの天才である.

前述のように,これは教えられるものではない.実際自分にはできない.この点については我が子を尊敬するし,憧れもする.そして「三つ子の魂百まで」との言葉通り,この傾向はすでに物心ついた時からあったし,それを今まで失わずに来たのは彼にとって今後も財産になるだろう.

これは彼にとって長所.ただこういう一部に飛び出た才能を持つ者の常として,それ以外はもう目を覆わんばかりの実情もあり・・.それを受け止めてゆくというのも親としての試練なのかもしれない.昨日は彼の9歳の誕生日だったので,ふとそんなことをあらためて考えてみた.

もっとも,本人は誕生日だというのに奥さんの実家の友達との遊びに夢中で結局帰ってこなかった.将来の奥さんは大変だろうな・・・.