またあらたなプランニング始動.
今回はうってかわって広い敷地.ひとつ前にやっていた敷地の10倍はあるかも.スケール感が追いつかない.配置がうまくいかず,迷いが消えない.そしてこうしてブログなど書いている.もちろん現実逃避である.
これまで,もう何十件の住宅をプランニングしてきただろう.結果から言えばプランニングがまとまらなかったことなんて一度もない.そしてどのプランニングでも自分なりに納得のゆく解決をしてきたつもりだ.けれども,そのどの住宅でも最初にはいつも同じことを思う.
ダメ!ムリ!!
ああ,こうして産みの苦しみがはじまる.おそらくどんなヒットメーカーだって,ひとつの曲をつくる時には頭をかきむしっているに違いない.そして心ではこう叫んでいる.
ダメ!ムリ!!
ああ,プレゼンまでにいつもの自信に満ちたプランができているとは到底思えない.
ああ,逃げ出したい!けれども数週間後にはきっとこう思っていることだろう.
オレって天才かも!?
これもいつものパターンである.
今回はうってかわって広い敷地.ひとつ前にやっていた敷地の10倍はあるかも.スケール感が追いつかない.配置がうまくいかず,迷いが消えない.そしてこうしてブログなど書いている.もちろん現実逃避である.
これまで,もう何十件の住宅をプランニングしてきただろう.結果から言えばプランニングがまとまらなかったことなんて一度もない.そしてどのプランニングでも自分なりに納得のゆく解決をしてきたつもりだ.けれども,そのどの住宅でも最初にはいつも同じことを思う.
ダメ!ムリ!!
ああ,こうして産みの苦しみがはじまる.おそらくどんなヒットメーカーだって,ひとつの曲をつくる時には頭をかきむしっているに違いない.そして心ではこう叫んでいる.
ダメ!ムリ!!
ああ,プレゼンまでにいつもの自信に満ちたプランができているとは到底思えない.
ああ,逃げ出したい!けれども数週間後にはきっとこう思っていることだろう.
オレって天才かも!?
これもいつものパターンである.

久しぶりに新しい作品をサイトにアップしました.
こちらよりご覧下さい >>[これまでの作品]
○RIVERHOUSE(N邸・浦安市)昨年9月竣工
敷地18坪/川辺の変形地に建つ家
○FILTER(U邸・練馬区)昨年12月竣工
敷地22坪/高い天井と大開口を持つ都市住宅
※おしらせ※
FACEBOOKにも近況をアップしています.
アカウントを持っていらっしゃる方はどうかお気軽にコンタクトして下さい.
http://www.facebook.com/rsekimoto
11. 07 / 04
RIVER HOUSE
author
sekimoto
category
> 建築・デザイン
Warning: Undefined array key 1 in /home/riotadesign/riotadesign.com/public_html/wp-content/themes/rd/blog/cat_sekimoto.html on line 48

昨年9月に竣工したRIVER HOUSEを先日ようやく撮影させて頂きました.
(撮影:後関勝也|バウハウスネオ)
川沿いに建つこの住宅は,敷地わずか18坪,延床面積でも25坪ほどの狭小住宅ですが,二層の吹抜けと変形した土地形状により奥行きと高さ,そして外へとつながる開放感を獲得しています.
場所は浦安ですが,幸い先の震災でもほとんど被害を受けませんでした.
前面に公園がありまだ工事中なのですが,こちらが整備されると広い”庭”もできる予定.狭くてもすべてを逆手にとって,広々した生活空間を獲得した好例だと思います.特に夜景がきれいで,最近では近所の”名所”になっているとか.
また近々作品集にもアップの予定です.お楽しみに!



11. 06 / 21
建築とは…?
author
sekimoto
category
> 建築・デザイン
Warning: Undefined array key 1 in /home/riotadesign/riotadesign.com/public_html/wp-content/themes/rd/blog/cat_sekimoto.html on line 48
以前とあるクライアントとの面談が終わり,席を立とうとした時唐突に質問を受けた.
「関本さんにとって,建築とはなんですか?」
うっ,いきなりのど直球.しかも気を抜いた瞬間にやってきたストライクに一瞬ひるんで,とりあえず浮かしかけた腰をもう一度落ち着かせた.その時は少し動転して,なんと答えたかよく覚えていないのだけれど,一瞬しどろもどろになってしまった自分が情けなくて,それ以来その問いを考え続けている.
実のところ学生のときから「建築ってなんだろう?」と漠然と考え続けてきた.今の学生にも同じような問いをしたことがあるし,自分なりにぼんやりとイメージするものがあるのは確かだけれど,いざそれを言葉として取り出そうとすると違和感だけが残るような気がして,なかなか口に出せずにいた.
今あえて言葉にするとすれば,建築は「コミュニケーション」そのものだと思う.
クライアントとの打合わせはもちろんだけれど,図面を描くのも,模型をつくるのも,現場に行くのも,すべてはコミュニケーションだ.また言葉もそうだし,メディアもそう.僕がこうしてブログをせっせと書いているのも,建築の一部とも言えるかもしれない.すべては自分の考えを相手に伝えたい,相手のことを理解したい.それに尽きる.それこそが建築のはじまりなのだと思う.
さらに言えば,我々は直接依頼してくださったクライアントのみならず,その地域の人々や通りすがりの人たちも巻き込んでゆきたい.その家の前を偶然通りかかった人たちが一瞬なごんだり,足を止めて見上げてくれるようなことがあれば,そこには立派なコミュニケーションが成立していると思う.
ひとりの人間が周りを巻き込んでゆくように,一件の小さな住宅が街並みや通りすらも変えてしまうことがある.我々が目指すゴールは常にそこにあるのだと思う.
「関本さんにとって,建築とはなんですか?」
うっ,いきなりのど直球.しかも気を抜いた瞬間にやってきたストライクに一瞬ひるんで,とりあえず浮かしかけた腰をもう一度落ち着かせた.その時は少し動転して,なんと答えたかよく覚えていないのだけれど,一瞬しどろもどろになってしまった自分が情けなくて,それ以来その問いを考え続けている.
実のところ学生のときから「建築ってなんだろう?」と漠然と考え続けてきた.今の学生にも同じような問いをしたことがあるし,自分なりにぼんやりとイメージするものがあるのは確かだけれど,いざそれを言葉として取り出そうとすると違和感だけが残るような気がして,なかなか口に出せずにいた.
今あえて言葉にするとすれば,建築は「コミュニケーション」そのものだと思う.
クライアントとの打合わせはもちろんだけれど,図面を描くのも,模型をつくるのも,現場に行くのも,すべてはコミュニケーションだ.また言葉もそうだし,メディアもそう.僕がこうしてブログをせっせと書いているのも,建築の一部とも言えるかもしれない.すべては自分の考えを相手に伝えたい,相手のことを理解したい.それに尽きる.それこそが建築のはじまりなのだと思う.
さらに言えば,我々は直接依頼してくださったクライアントのみならず,その地域の人々や通りすがりの人たちも巻き込んでゆきたい.その家の前を偶然通りかかった人たちが一瞬なごんだり,足を止めて見上げてくれるようなことがあれば,そこには立派なコミュニケーションが成立していると思う.
ひとりの人間が周りを巻き込んでゆくように,一件の小さな住宅が街並みや通りすらも変えてしまうことがある.我々が目指すゴールは常にそこにあるのだと思う.
11. 06 / 18
コンセプトは必要か
author
sekimoto
category
> 建築・デザイン
Warning: Undefined array key 1 in /home/riotadesign/riotadesign.com/public_html/wp-content/themes/rd/blog/cat_sekimoto.html on line 48
先日あった建築家同士の飲み会での話.
同世代の知人の建築家は,できあがった自分の建築に対していわゆるコンセプトを語るのが苦痛だと言っていた.コンセプトなんて書かなくてもいい.彼は建築メディアはなぜコンセプトを語らせたがるのか,と辛辣なメディア批判に息を巻いていた.
この問題にはらむ矛盾や,もっともらしい意見があることも承知の上で言うならば,僕は彼の考えに同意する.コンセプトを歯切れ良く語れる建築なんて,僕も”うすっぺらい”と思う.
ただ誤解のないように言うと,コンセプトは必要ないのではない.建築の方向性を決定づける考え方は絶対的に必要だ.それがなかったら,それは建築ですらないからだ.
けれども建築のプロセスは一本の太い道からはじまり,そこから枝分かれしたり,回り道をしながら最終的なゴールへと行き着く.一本の道でまっすぐ作られた建築は排他的ともいえる.そうではないものをすべて排除する.そこには迷いがないのか,あるいは隠しているのか.そこには嘘がある.そんな建築は身を置いてみればすぐにわかる.
しかし建築メディアは自己完結した一本道を示した方がわかりやすいから,結局そういう建築ばかりが誌面に並ぶことになる.それは罪深いことなのだ,そう彼は言いたかったのだと思う(でも彼は酔っていて,皆の集中砲火を浴びて少し気の毒だった).
僕の好きなアールトや内藤廣さんの建築に共通しているのは,常に普遍的な空間と迷いが同時にそこにあるということだ.その迷いの”ひだ”が我々を包みこむ.そんな空間に僕は救いを感じる.
昨日は尊敬する建築家の益子義弘先生にも,お酒を呑みながらそんな話をしてみた.
先生はコンセプトの話には触れず「よい建築とはまた帰って来たくなる建築だと思う」とおっしゃった.その一言ですべてが腑に落ちた気がした.
同世代の知人の建築家は,できあがった自分の建築に対していわゆるコンセプトを語るのが苦痛だと言っていた.コンセプトなんて書かなくてもいい.彼は建築メディアはなぜコンセプトを語らせたがるのか,と辛辣なメディア批判に息を巻いていた.
この問題にはらむ矛盾や,もっともらしい意見があることも承知の上で言うならば,僕は彼の考えに同意する.コンセプトを歯切れ良く語れる建築なんて,僕も”うすっぺらい”と思う.
ただ誤解のないように言うと,コンセプトは必要ないのではない.建築の方向性を決定づける考え方は絶対的に必要だ.それがなかったら,それは建築ですらないからだ.
けれども建築のプロセスは一本の太い道からはじまり,そこから枝分かれしたり,回り道をしながら最終的なゴールへと行き着く.一本の道でまっすぐ作られた建築は排他的ともいえる.そうではないものをすべて排除する.そこには迷いがないのか,あるいは隠しているのか.そこには嘘がある.そんな建築は身を置いてみればすぐにわかる.
しかし建築メディアは自己完結した一本道を示した方がわかりやすいから,結局そういう建築ばかりが誌面に並ぶことになる.それは罪深いことなのだ,そう彼は言いたかったのだと思う(でも彼は酔っていて,皆の集中砲火を浴びて少し気の毒だった).
僕の好きなアールトや内藤廣さんの建築に共通しているのは,常に普遍的な空間と迷いが同時にそこにあるということだ.その迷いの”ひだ”が我々を包みこむ.そんな空間に僕は救いを感じる.
昨日は尊敬する建築家の益子義弘先生にも,お酒を呑みながらそんな話をしてみた.
先生はコンセプトの話には触れず「よい建築とはまた帰って来たくなる建築だと思う」とおっしゃった.その一言ですべてが腑に落ちた気がした.
