12. 02 / 27
車窓から 2
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sekimoto
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> 建築・デザイン
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現在進行中のお施主さんの中に,鉄道の運転手さんがいる.
上板橋に停車している電車を朝出庫する際に,いつも気になっていた工事中のテナントがあったそうで,「なんだろう.北欧雑貨のお店かな?」と思っていたらしい.ところがつい最近うちのブログを開いたところ,実はそれもうちが設計したカフェだったことが判明したそうで・・・.
という,似たようなエピソードをちょっと前に書いたのを,覚えている人は覚えているかもしれませんが.1月22日のブログ・『車窓から』
偶然は重なるもので,きっとこの先もこのお施主さんの行く先々で気になった建築には,すべてリオタデザインがついてまわることでしょう.我々も東上線沿線における”デザインのサブリミナル効果”を今後もますます展開してゆきたいところです.
カフェ・crannは本日無事保健所検査も終わり,家具も入って3月2日の開店にむけてまっしぐらです.

今日は日大理工4年生の卒業設計の公開審査会があり参加させて頂いた.今日は一次審査で,この中から選ばれた10点が明日の二次審査に進むことができるらしい.
ちなみにこの学年は私が大学で教えさせて頂いた最初の学生でもあり,知っている学生も多く,少し感慨にふけりながらも厳しく?審査をさせて頂いた.
全体に言えるのは,我々の頃と違ってCADやグラフィックソフトを多用し,おそらくは直前に出力したものをそのまま貼りつけていることもあり,おしなべて情報が平坦で,こちらが眉間にしわを寄せて読み込んでいかないと,設計の意図や情報がなかなか頭に入ってこないものが多かった.
デジタル情報はこういう時には圧倒的に訴求性に欠ける.むしろ手描き(ハンドドローイング)や,まわりくどい説明は省いた簡潔な説明や形の方が自分の心にはよく響いた.
また自分の設計意図をしっかり相手に伝えようとする努力の跡が見えるものもあれば,全くそれを放棄しているものまであって,後者の場合はもはや図面を見る気もおきず,申し訳ないけれど一瞬で審査が終わったものもあった(実は半分くらいはそうだった).
でも社会に出たらそういうものだ.4年間の集大成を相手に伝えるということに対してどこまで真剣に向き合えたか,というところで明暗は分かれたようにも思う.
ともあれ,学生達の渾身のエネルギーの塊をいささか駆け足気味に眺めて審査票を出してきた.明日の二次審査には参加できないけれど,今年の桜建賞(最優秀賞)を手にするのは誰なのか,勝手に予想などしてみる.一応かつての受賞者として.
(まだ審査途中なので,写真は控えさせてもらいました)
ちなみにこの学年は私が大学で教えさせて頂いた最初の学生でもあり,知っている学生も多く,少し感慨にふけりながらも厳しく?審査をさせて頂いた.
全体に言えるのは,我々の頃と違ってCADやグラフィックソフトを多用し,おそらくは直前に出力したものをそのまま貼りつけていることもあり,おしなべて情報が平坦で,こちらが眉間にしわを寄せて読み込んでいかないと,設計の意図や情報がなかなか頭に入ってこないものが多かった.
デジタル情報はこういう時には圧倒的に訴求性に欠ける.むしろ手描き(ハンドドローイング)や,まわりくどい説明は省いた簡潔な説明や形の方が自分の心にはよく響いた.
また自分の設計意図をしっかり相手に伝えようとする努力の跡が見えるものもあれば,全くそれを放棄しているものまであって,後者の場合はもはや図面を見る気もおきず,申し訳ないけれど一瞬で審査が終わったものもあった(実は半分くらいはそうだった).
でも社会に出たらそういうものだ.4年間の集大成を相手に伝えるということに対してどこまで真剣に向き合えたか,というところで明暗は分かれたようにも思う.
ともあれ,学生達の渾身のエネルギーの塊をいささか駆け足気味に眺めて審査票を出してきた.明日の二次審査には参加できないけれど,今年の桜建賞(最優秀賞)を手にするのは誰なのか,勝手に予想などしてみる.一応かつての受賞者として.
(まだ審査途中なので,写真は控えさせてもらいました)

現在進行中のお施主さんの中に,鉄道の運転手さんがいる.
日々運行する線路沿いにずっと気になる家があったそうで,「あの家の方も自分達のように建築家にお願いしたんだろうな」と思っていたらしい.ところがつい最近になってうちのサイトを開いたところ,実はそれもうちが設計した住宅だったことが判明したそうだ.
その住宅は「空の家」といって,鉄道のすぐ脇の敷地に2007年に竣工した.鉄道の騒音を防ぐため,周囲にガルバリウムの”殻”をまとったような不思議な外観をしている.実際僕もその沿線を利用する際には,車窓から目をこらしてその住宅を探すのだけれど,でも見えるのは本当に一瞬なので,注意していないとすぐに見逃してしまう.
上の写真はずいぶん前に撮ったものだけれど,ちょうど電車がその住宅に差しかかるところでシャッターを切った.でもデジカメのシャッターが落ちるのには時間がかかるし,正直撮れている自信がなかったのだけれど,確認したらちょうどばっちり写っていた.
しかも,なにやら子どもがこっちに向かって手を振っている!こんな劇的な瞬間が撮れるとは思わなかったので,思わず感動してしまった.
ちなみにこの住宅,この鉄道の運転手さんの間では知る人ぞ知る,ちょっと有名な住宅らしい.東武東上線の上福岡駅と新河岸駅の間,川越方面に乗った場合は進行方向右側です.こちらにお出かけになる際は,どうかお見逃しなく!
空の家 |PHOTOS
https://www.riotadesign.com/works/07_sora
[caption id="attachment_3465" align="alignnone" width="372" caption="空の家|2007"]

ここ数年,大学1年生後期の課題として『シェアハウス』というものに取り組んでいる.シェアハウスというのは,従来の集合住宅のようにひとつの部屋にすべてが装備されているのではなく,寝る時以外はキッチンや水回り,ダイニングや玄関などを共有し,空間をみんなで”シェア”する住宅のことだ.これが首都圏を中心に,若者の間で人気が高くなってきているという.
そう聞くと,我々は思わず昔ながらの”学生寮”を想像してしまうのだけれど,現代のシェアハウスは感覚が全く異なる.単にお金がないということではなく,また団体が結束を高めるために合宿生活を行っているというのとも違う.自立した普通の学生や社会人などが,自ら好んでシェアハウスに入居しているのだ.
正直,個人的にはそういう居住形態は気疲れしてしまいそうだけれど,最近の学生の傾向や社会の動きを見ていると,むしろ今後主流になっていくのかもしれないとも思ってしまう.それはシェアする感覚,共有感覚が昔とは異なってきているのを感じるからだ.
それが端的に現れているのは,Facebookやツイッターといったソーシャルメディア(SNS)の発達と爆発的な拡がりかもしれない.
今や,少なくとも自分の身の回りではアクティブか否かは別として,これらを全く使っていないという人はむしろ少数派になりつつある.こと学生に至っては,皆お互いがお互いをフォローし合って,24時間常に情報が飛び交っている.その緻密な情報網と使いこなし方を見ていると,彼らにとってプライバシーという概念はもはや時代遅れなのかもしれないとも思ってしまう.
これまでインターネットは,個人でホームページを作る時代からはじまって,掲示板,ブログへとその使われ方も変化してきた.それを管理する人がいて,固有のアドレスもある.ここまでは僕は”所有”感覚だと思う.
でもSNSはこれらとは全く概念が異なる.そこに書かれていることはブログと同じでも,そこに投稿された時点でそれはすでに”共有”感覚に足を踏み入れている.
そこにはヒエラルキーがなく,お気に入りのサイトを順番にネットサーフィンする感覚ではもはやない.そこに訪れるのではなく,皆が常にそこにいる.呑み会の席で語られる個人的な話題と,その話題に隣の席からいつでも入っていけるような居酒屋感覚.それがSNSであり,それを居住に置き換えると「シェアハウス」になるのではないかと思う.
ネットのこうしたやりとりやシェアハウスのような共同生活は危険だという人もいる.けれども過剰なプロテクトはその網をかいくぐろうとする人達を生む.でもすべてを白日に晒してしまうと,むしろそこには秩序や良識が生まれる.きっと人は壁をめぐらして孤立するよりも,社会的なつながりの中でゆるく守られていたい生き物なのだろう.そしてそれは思いのほか健全なコミュニケーションのあり方なのかもしれない.
シェア感覚というのは,もともと村社会からはじまった日本的な感覚だとも言える.シェアハウスに限らず,今後個人住宅を考えてゆく上でも,この感覚は大きなキーワードになるのではないかと思う.
そう聞くと,我々は思わず昔ながらの”学生寮”を想像してしまうのだけれど,現代のシェアハウスは感覚が全く異なる.単にお金がないということではなく,また団体が結束を高めるために合宿生活を行っているというのとも違う.自立した普通の学生や社会人などが,自ら好んでシェアハウスに入居しているのだ.
正直,個人的にはそういう居住形態は気疲れしてしまいそうだけれど,最近の学生の傾向や社会の動きを見ていると,むしろ今後主流になっていくのかもしれないとも思ってしまう.それはシェアする感覚,共有感覚が昔とは異なってきているのを感じるからだ.
それが端的に現れているのは,Facebookやツイッターといったソーシャルメディア(SNS)の発達と爆発的な拡がりかもしれない.
今や,少なくとも自分の身の回りではアクティブか否かは別として,これらを全く使っていないという人はむしろ少数派になりつつある.こと学生に至っては,皆お互いがお互いをフォローし合って,24時間常に情報が飛び交っている.その緻密な情報網と使いこなし方を見ていると,彼らにとってプライバシーという概念はもはや時代遅れなのかもしれないとも思ってしまう.
これまでインターネットは,個人でホームページを作る時代からはじまって,掲示板,ブログへとその使われ方も変化してきた.それを管理する人がいて,固有のアドレスもある.ここまでは僕は”所有”感覚だと思う.
でもSNSはこれらとは全く概念が異なる.そこに書かれていることはブログと同じでも,そこに投稿された時点でそれはすでに”共有”感覚に足を踏み入れている.
そこにはヒエラルキーがなく,お気に入りのサイトを順番にネットサーフィンする感覚ではもはやない.そこに訪れるのではなく,皆が常にそこにいる.呑み会の席で語られる個人的な話題と,その話題に隣の席からいつでも入っていけるような居酒屋感覚.それがSNSであり,それを居住に置き換えると「シェアハウス」になるのではないかと思う.
ネットのこうしたやりとりやシェアハウスのような共同生活は危険だという人もいる.けれども過剰なプロテクトはその網をかいくぐろうとする人達を生む.でもすべてを白日に晒してしまうと,むしろそこには秩序や良識が生まれる.きっと人は壁をめぐらして孤立するよりも,社会的なつながりの中でゆるく守られていたい生き物なのだろう.そしてそれは思いのほか健全なコミュニケーションのあり方なのかもしれない.
シェア感覚というのは,もともと村社会からはじまった日本的な感覚だとも言える.シェアハウスに限らず,今後個人住宅を考えてゆく上でも,この感覚は大きなキーワードになるのではないかと思う.
11. 12 / 12
アンテナ
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sekimoto
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> 建築・デザイン
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また新しい計画のエスキースがはじまった.
エスキースというのは,エスキース帳にラフ・プランニングを描いてゆくプロセスのこと.一般的に敷地は大きければ大きいほど,自由度は高いが難易度は増す.自由度という変数が多すぎて,選択肢を絞ってゆけないからだ.
無数にある選択肢の中から,それを絞ってゆくのはクライアントの要望だったり,敷地の条件だったり,自分の意志だったりするわけだけれど,プランニングが固まり振り返ってみると,自分が一体何に悩んでいたのかわからなくなるくらい明確な線がそこには引かれている.そう,疑いの余地もないくらいに.けれどもその道はけして平坦ではないのだ.
大学では学生達も苦労している.プランニングがまとまらなくて,すがりつくような目で皆指導の席へとやってくる.不思議なもので,プランニングの当事者から離れて指導側にまわると,本人には見えていないいろんなことが実によく見えるのだ.
この学生のゴールはもうすぐそこに迫っている.目の前に見えている扉の位置をさりげなく指し示してあげているというのに,見つからないと言っては元来た道をまた引き返してしまう.あぁ,なんと歯がゆいことか!
でもひとたび自分の問題になると,いとも簡単にその道筋を見失ってしまう.
プランニングの迷宮入りは毎度のことだ.そこにはプロも学生もない.集中して入り込んでは,しばし鉛筆を置き俯瞰的に眺めてみる.気分転換をしてはまた戻ってくる.はまりそうではまらない.僕の後ろの”誰か”もそんな僕の心許ないエスキースを眺めては,きっと歯がゆく思っているに違いない.「あっちがう.そうそこ!」
それを受信できるアンテナは,やっぱり鉛筆しかないんだろうな.
