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常磐道の柏インター入口近くに「しばやま整形外科」の看板が出ていることは,ずいぶん前から知っていた.今日,柏方面に打合せに行った帰りに再びこの看板を見つけて,ふと寄り道してみようと思った.

「しばやま整形外科」は僕が前職の設計事務所,エーディーネットワーク時代に担当した作品で,竣工は1998年だからもう14年も前の話になる.

この仕事は新宿のOZONEが初めて住宅コンペを主催した,記念すべきOZONEコンペ第一号作品でもある(当時の担当北村さんは今でもOZONEにいらっしゃり,先日指名を受けたコンペで再会した).当時は公募制にしていて,この医院併用住宅の設計コンペには約60社ほどの設計事務所が案を応募した.我々エーディネットワークもそのコンペに参加を決めていた.

ほとんどの案は1階を医院に,2階を住宅にするというベーシックなプランだったのに対し,我々が提出したのは医院棟と住宅棟を別棟にし,敷地も分割,医院は鉄骨造,住宅は木造で解くという型破りなアプローチだった.住宅の居住性や医院の機能性をそれぞれ追求するならばまさしく理想的な計画とも言えたのだけれど,極限とも言えた低予算に対しそれはありえないだろう,とコンペ当選後もずいぶん他の事務所から揶揄されたのを覚えている.

でも我々の提案はダントツだった.予算の問題はなんとかなった.なんとかなったから建っている笑.建築というのは結局そういうもので,理念なきところに建築は建たないのだ.

もちろん相応に歳を取って老朽化している部分や,住みながら改変されている部分はあったけれど,先日棚橋先生にお会いした際も,今でもこのお施主さんとは連絡を取り合い,改装の折りには必ず相談を下さっているとのこと.そんな関係を続けて下さっている前職の先生にも感謝したい.

それにしても,没頭して図面に向かった建築というのは自分そのものなのだなとあらためて思った.14年前,自信もなくただ漠然と不安を抱えて仕事をしていた当時の自分がそこにはいた.ガラス越しに中を覗いてみる.当時僕が図面を引いた家具やサッシュの納まりが,そこに竣工当時から変わらぬ姿で佇んでいた.

経験不足からどうして良いかわからないところもいっぱいあったし,混乱する頭で必死に実施図面を描き,現場監理に当たっていたのだけれど,今見てもびっくりするくらい良くできている.ちゃんと納まっている.へぇあの頃の自分,意外とやるじゃん!(もちろん先生のおかげでもあるんですが)

そしてあの頃の自分に言ってあげたいのは,
「大丈夫,その先にちゃんと今の自分はいるよ」ということだ.
住宅の設計に向かうモチベーションには3つの段階があります.

第一段階は,お施主さんのご要望を叶えること.
最初の面談やプロセスで聞き取ったお施主さんのご要望を,注意深く設計に落としてゆきます.これは仕事として当然であり,最低限の作業とも言えます.これは設計事務所のみならず,ハウスメーカーでも設計施工の工務店でも同じことが行われているはずです.

第二段階は,お施主さんの潜在的な欲求に応えること.
大概の場合,お施主さんは言葉にならない言葉を持っていらっしゃいます.言語化されない,潜在的な欲求をいかに拾い上げて設計に盛り込むか,というのもまたプロには求められることです.逆にそこまでやってはじめてお施主さんに満足して頂くことができるのだと思います.

この第二段階までをきちんと踏まえてやっていれば,まず間違いなくお施主さんからは感謝されるし,結果的にも良いものができます.良心的な設計士さんということで評判も立ち,仕事も途切れず事務所経営もうまくいくはずです.だから本当はそれで良いのだと思います.思いますが,私の心の中ではまだ満たされないものが渦巻いているのです.

第三段階は,建築的なテーマを見いだしたり,自己表現を求めること.
当然のことながら,これは第二段階までは踏まえた上での話です.これは必ずしもお施主さんからは求められていないことです.ある意味余計なことかもしれません.この第三段階に手を出すと,いろんな不都合が生じることがあります.お金が余計にかかったり,利便性が悪くなったり,メンテナンスにも手間がかかるようになることもあります.

おそらくは,自分たちの要望以外のことをされたり,余計にお金をかけて利便性が失われるなんてとんでもないと考える人もいると思います.だから我々はお施主さんの行動や言動をじっと観察して,そういうことに理解を示して下さる方かどうかを常に慎重に判断しています.

繰り返すようですが,住宅の設計は第二段階まででも十分だと思います.第三段階まで進むなんて無駄の極致です.けれどもその領域に設計を進めると,その建物は単なる住宅から「建築」と呼ばれるようになります.我々建築家が本来生業にしているのはこの「建築」を作ることなのです.

でもいくらお施主さんに理解があっても,家庭の事情や,周辺環境や,ご予算によってはそれが叶わないことも多くあります.建築専門誌を賑わす一線の建築家たちは,そういったステージをどのように進めているのでしょう.進んで建築家と心中しようという奇特な方々を引き寄せる才能がなせる業なのか,はたまた無理心中を計るのか・・・.

穏やかな話ではありませんが,少なくともうちの事務所では無理心中は致しません.すべてはお施主さんの心意気次第.しかし,現在も我が事務所にご依頼下さった”奇特な”(失礼!もとい,素晴らしい)お施主さんとの間には「建築」が生まれようとしています.
オリンピックを見ていて思うことがある.
それは世界のトップアスリートには”型”があるということ.それはその競技を究めた者だけが持つ特殊な体の使い方,長い時間と鍛錬を経てようやくそこに行き着いたともいえる終着点,いわば「究極の合理性」のようなものだ.

ビギナーは見よう見まねから入る.本人はそのつもりでも,実際の体の使い方には無駄が多く,正しく力が伝わらない.だから余計に肩の力が入ってしまう.無駄な動きのないプレーはやっぱり美しい.

私の続ける弓道もそうだ.弓道にも型がある.そして頑なにその型通りに射ることが良しとされる.自己流は評価されず,癖が出てきたら徹底的に矯正される.癖のない射形が最も美しく,また結果的に最も当たるからだ.

癖とは人間の業のようなもので,なくて七癖,人はそれをして時に「個性」と呼ぶ.ある場面では個性はより尊ばれる.「個性を尊重する」と言えばほとんどの場面で前向きな発言と捉えられるだろう.ところがある場面では癖や個性というものは行く手に大きく邪魔をする.ある道を究めようとする時,人は自分の癖に「個性」と名付けた瞬間に,その人の成長はある意味止まってしまうような気がする.

建築やデザイン,アートは特に個性が尊重される世界だ.個性的であることが良しとされる.またそれは時に「作風」とも呼ばれ,その人の大きな武器にもなる.ところが多くの人はここではき違えてしまう.個性的であることがゴールなのだと思ってしまう.

一流と呼ばれる建築家や美術家の作品には,そこにある共通点を見いだすことができる.それはやはり”型”のようなもの,あるいは「究極の合理性」と呼べるようなものかもしれない.

究極の合理性とは,単に便利とか経済的であるとか,そういうことではなく,例えば一本の樹木のようなものかもしれない.そこには水を吸い上げ,光合成を行い,養分を隅々まで行き渡らせ花や実をつける完結したシステムがある.そこには一切の無駄がない.

ところが桜と蜜柑の木が異なるように,そこには大きな個体差が存在する.我々はそれをして「個性」と呼びたい.無秩序で思いつきのような行為は,どこまで行っても「でたらめ」でしかなく「個性」ではないのではないか.オリンピックをため息をついて観戦しながら,ついそんなことを考える.

オリンピック選手たちの演技や競技にほとんど優劣はない.
ほんのわずかな心の隙間,あるいは積み重ねた経験値や実力差のようなものが,ほんのちょっと作用してメダルの色が変わる.彼らはそのほんのわずかな違いのために日々の鍛錬を怠らない.それは自我を捨てて自分を越えてゆこうとする試みとも言える.だから美しく,心が揺さぶられるのだろう.

12. 08 / 01

そっち系

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建築におけるディテールのありかたについて,時折考えさせられる.

先日,某著名建築家さんのオープンハウスにお邪魔させて頂いた.さすが,建築としては非常によくできた意欲作だった.でも細かいところを見ていくと…結構アレ?と思うところがいくつかあって,非常に気になってしまった.

こういう場合,たぶんそういう指摘をしちゃいけないんだろうな,と思う.つまりそんな(取るに足らない)細かいところよりも,建築のコンセプトであったり,大きな意味での空間の気持ちよさや面白さが勝つのであって,そんな重箱の隅をつつくようなことを言うのは無粋であると.

でも,どうなんだろう.空間性もなくて,細部もないようでは論外だけれど,空間性があるのだから,もう少し先まで突きつめればもっと良いものになるのに,もったいないとつい思ってしまう.そしてそうした空間にちょっとした違和感や,嫌悪感のようなものすら感じてしまう.

例えば建築のディテールを語る時,大きな意味での「素材の使い方」という意味と,もっと細かい意味での(枠廻りなどの)「素材の取合い方」という意味がある.それに加えて「プロポーション」の問題もあるだろう.

前者は直感的,感覚的なものであるのに対して,後者はより論理的,経験的な要素が強い.僕が気になるのはむしろ後者のことで,これがおろそかな事務所は,若いスタッフに「任せきり」になっていることが多いような気がする.

どうしてそうなるかというと,建築家がそういうところに興味がないからだ.つまらない.前述のようにそういうことをやるのはスタッフの仕事であって,自分は建築のコンセプトにより力を注ぎたい,「作品」を作りたいと思っているからだ.前述の違和感や嫌悪感は,そういうところに起因しているような気がする.

そういう仕事を見ると,この事務所は「そっち系」なんだなと思う.「そっち系」の仕事は「わぁ」とは思うけれど心には響かない.深みや心のひだに入り込んでくる情感のようなものがない.

私がオープンハウスに行って,いつも鳥肌が立つような感動を覚える事務所の仕事は,細部まで実に配慮が行き届いている.それは単に「納めている」だけではなく,人間の心理や感覚,生理をきちんと読み取って,適切なスケールでそれを形にしている.それは単なる利便性が高い実用的な空間というものとは異なる.しっとりと体に馴染むような空気感がそこにはあるのだ.

若い頃はそれがわからなかった.もしかしたら,むしろ退屈に映っていたかもしれない.けれども今はよくわかる.自分の目指す仕事はやっぱり「そっち系」ではないのだなと再認識する.

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〇新国立競技場設計コンクール|http://www.jpnsport.com/

昨日の新聞に大きく見開きの広告がありました.2020年の東京オリンピック招致に向けた新国立競技場建設コンペの告知.建築家のみならず,一般の人も思わず「お!」と思った人は多いかもしれませんが,特設サイトから応募資格を見て思わずびっくり.

|① 次のいずれかの国際的な建築賞の受賞経験を有する者
|1) 高松宮殿下記念世界文化賞(建築部門)
|2) プリツカー賞
|3) RIBA(王立英国建築家協会)ゴールドメダル
|4) AIA(アメリカ建築家協会)ゴールドメダル
|5) UIA(国際建築家連合)ゴールドメダル
|② 収容定員1.5万人以上のスタジアム(ラグビー、サッカー又は陸上
| 競技等)の基本設計又は実施設計の実績を有する者

これを翻訳するとこういうことになります.
「オリンピックに出場できるのは,過去に出場したことのある人か,金メダルを取ったことのある人のみ」

これではドラマは生まれません.この条件を満たす人は,国内の建築家でもごくわずかしかいません.あとは大手の組織事務所でしょうか.それならこんな広告を打つ必要あるの?とも思います.

またサイトの冒頭には「プロセスには市民誰もが参加」ともあります.でもプリツカー賞といったら,建築界のノーベル賞とも言われている賞です.海外のプリツカー賞建築​家の案などに決まったら,どこまで「みんなと一緒につくる」ことができるのか,甚だ疑問が残ります.

これはつまり東京都がオリンピック招致のために打ち上げた政治的プロパガンダ,言い換えれば出来レースなのではないか,との穿った見方もできます.審査委員長に安藤忠雄氏というのも,なんともはや….

オリンピック招致目的でもいいと思います.ただそれならば正々堂々と,オリンピックの精神に基づき,すべての建築士資格を持つ国民から案を募り,頂点に立つ案を決めるというのがフェアなやり方だと思います.標語に掲げる"For All"のAllって,一体誰のことなんでしょう?