11. 12 / 27

やめませんか?

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sekimoto

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> 思うこと


こういうことを言うのはとても気が引けるのですが,この時期営業の方などに会社のロゴ入りの手帳やカレンダーの類をいっぱい頂くのですが,あれを活用されている方ってどのくらいいるのでしょう?

やっぱり手帳くらいは自分の気に入ったものを使いたいし,カレンダーも同様です.使わなければ処分するしかないのですが,中には素敵なものもあるのでとても心が痛みます.

一応皆さん配慮を下さっているようで,昔のようにベタに社名やロゴマークがついているものは少なくなってきたし,中をめくってみるとシンプルで使いやすそうなものもあるのですが,手帳は普通一人一冊しか使いません.カレンダーだって,これ見よがしに何枚も掛けている家など今時少ないのではと思ったりもします.

人とは違うものを持ってくれば,身の回りに置いてもらえる可能性はずっと高まるし,もらった人だって喜ぶと思います.もういいかげん手帳やカレンダーはやめようよという声が,なぜ企業の中で上がらないのでしょうか.とても不思議です.

他によく頂くものの中にはロゴ入りボールペンというものがあります.ただ,余っているのかオニのように置いていかれて困ることもあります.ボールペンは1本でいい!個人的には,ロゴ入りチョコレートをもらったほうがずっと嬉しいです.

手帳の裏表紙に印刷された「この紙は再生紙を利用し,地球環境保全に努めています」の一文を見るたびに,「だったらさあ!」と思わずツっこみたくなるのです.

11. 12 / 14

裏切らない人

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sekimoto

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> 思うこと


人には世間の期待を裏切りたくない気持ちと,裏切りたくなる気持ちがある.いつも人から見られるイメージがあると,なんとなく窮屈でそれと相反することをやりたくなってしまう.

でも人には社会的に与えられた立ち位置というのがある.この人にはこうあって欲しいという思いがあって,中途半端にそのイメージを裏切ってもらいたくないという気持ちがある.それはその人の「社会的な立ち位置」だからだろう。

例えば芸能人は、自分の立ち位置を自覚し,カメラの前ではそのイメージを1ミリもぶらさずそこに立つ.おバカタレントはおバカであり続け,二枚目俳優は二枚目であり続ける.我々はそれをお茶の間から呑気に眺めているけれど,考えてみればこれはすごいプロ意識だと思う.

自分もこの仕事を10年くらいやっていると,なんとなく自分個人や作風のイメージも固まってくる.それは見方を変えれば,時間をかけて構築されたブランドイメージであるとも言えるけれども,時にはそれを思い切り裏切ってやりたい衝動に駆られることもある.

でも結局,依頼者はそこを入口に入ってきているのだとすれば,それを裏切るべきではないのかもしれない.「嬉しい裏切り」という言葉もあるけれど,そこにはすでに「裏切ってもらいたい」という含みがある場合にのみ成立する.本当の意味で裏切られたら大抵の人は怒り出す.これは自分の経験上の話だ.

詰まるところ,プロフェッショナルとは「裏切らない人」ということかなと最近思う.
一流のサッカー選手は、他人のプレーを一目見て盗むという。

人聞きは悪いけれど、「盗む」という行為はかなり高度な行為だと言える。実際我々はサッカーのすごいプレーを見たところでそれを真似することはできないのだから。それを見て自分のプレーにできる人というのは、それなりのスキルとセンスを併せ持つ人だとも言える。

大学では、学生は人と"かぶる"ことを極端に嫌う傾向がある。過去に同様の作品があったり、建築家の作品があったりすると、その時点でそのアイデアを捨て去ってしまう。僕に言わせれば、それを見たところでそれを自分のものにできるわけではないし、結局は違うものになるのだから構わず進めてしまえばいいのに、と思う。

誤解を恐れずに言えば、我々は建築を見に行くのに少なからず何かを盗みに行っている。盗むものがなければ窃盗未遂で終る。そのかわり我々は「つまらない建築だ」などとと毒づくことになるわけだけど。

目で見た、体験した空間を消化して自分の空間のエッセンスにできる人のことを、我々は「建築家」と呼んでいるのかもしれない。
大学の講師室には最新の建築雑誌が平積みされていて,授業前にペラペラとナナメ読みする.ささやかながら,貴重な情報収集の時間でもある.

しかし国内外で高い評価を集める著名建築家の作品を眺めていると,対岸の火事というか,とても同じ建築設計という職業を生業としているとは思えないほど,異次元の作品もたびたびある.僕に言わせると「宇宙人」の所行である.

中には学生がスチレンボードで作った模型がそのまま建ってしまったようなものまで.学生にはリアリティがないから,薄いボードを組み合わせていとも簡単に軽くて透明な浮遊空間を作り出す.我々はそれを賞賛しながらも,一方では覚めた目で「現実には無理だけどね」と言っていたものが,今やリアルにできるようになってきている.

それをイノベーションと呼ぶ人もいるだろう.断熱塗料やLow-Eガラスの普及などによって,本来必要な配慮をしなくても手軽にその建物の性能を担保することも可能になってきた.それを技術革新と位置づけ,デザイン実現への助けとするのも時代を生きる建築家のスタンスかもしれない.

けれども僕はそこに大きな危険性を感じる.物には道理がある.技術の力で道理を無理矢理押さえ込むことで,一方で破綻する現象が起こることはないだろうか.

アルヴァ・アールトは建築にけして新しい素材を使わなかった.少なくとも30年以上市場にあるものだけを使い,古来より使われてきた建築技法を少しだけ応用して,現代に普遍的価値を持つ新しい建築を作ろうとしてきた.

ここ数年の建築技術や素材の革新は,もしかしたら向こう数年で市場から姿を消すものかもしれない.最新の建築デザインは十年後には「なつかしい」と言われているかもしれない.一方で人間が営んできた基本的な生活行為は,数百年,数千年前から基本的にあまり変わっていない.人間の体のつくりもまた数万年の単位でその変化はわずかでしかない.我々はこの時間軸の違いに,もっと正面から向き合うべきではないか.

建築には普遍的な価値が必要だと思う.たとえそれが退屈だと批判されようとも.
その上で「対岸の火事」を野次馬として,ひとりの建築好きとして,楽しく見物するとしよう.

11. 11 / 10

ヒトxヒト

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sekimoto

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> 思うこと


ある人と会ったり集団の中にいると,自分でもびっくりするくらい饒舌になって話が止まらなくなることがある.一方で,ある人や集団の中にいるとちょっとした話をするにも口が重くなり,会話もはずまず貝のようになってしまうこともある.

自分では前者の自分が好きだ.後者の場合は場違いな空気に思わず逃げ出したくなる.

人との相性というのは常に相対的なもので,ある人にとっては最高の相性であっても,ある人にとっては苦手になりうる.その人が持つ本質は変わらないというのに,交わる人や環境によってその人自身の印象も変わってくるし,萎縮したりのびのび行動できたり,結果もそれによって変わってくるというのは実に不思議なものだ.

僕の場合,物心ついた時から人見知りだった自分を少しずつ克服してきた.それでも不特定多数の人が集まる場というのは,今でも苦手で尻込みしてしまう.

でも一旦会場に飛び込めば,えいやっと気合いを入れていろんな人に話しかけるし,名刺交換をしてその場限りの会話を楽しむこともできる.それでも最後は疲れ果ててしまって,二次会のお誘いはたいてい断り家路につくことになる.

一方ではある人と呑んでいると時間が経つのを忘れてしまい,つい根っこが生えて気がつくともう終電ということもよくある.

人には波長があって,結局波長の合う者同士がくっつくようにできている.
同じ時間を過ごすなら,また同じ仕事をして生きていくなら,一人でも多くの波長の合う人に出会いたいし,そういう人との交わりにより多くの時間を費やしたいと思う.

その人の持つ本質は変わらないのではなく,もしかしたらヒトxヒトの組み合わせによって変わってゆくものなのかもしれない.