21. 12 / 16

翻訳者

author
sekimoto

category
> 仕事
> 思うこと



現場でいつも思うのは、監督は職人の翻訳者なんだなということ。職人と監督の会話は未だに何を話しているのかよくわからない。

職人さんが言っていることも、私はいつも意味半分くらいしか理解できなくて、なかば勘で相槌打っている。「そうですね、大丈夫です」なんて言っておきながら、内心ドキドキ。まるで外国人との会話みたい。

そこで監督がすっと入ってくると、“現場語”でゴニョゴニョっと何か言ってまとめあげちゃう。日本語のようにも聞こえるけれど、でもやっぱりよくわからない。監督は私にとっての専属通訳みたいな存在だ。

そして我々は建主さんの翻訳者なんですね。現場では、建主さんはこの現場状況をわかっていないだろうなという場面があって、そんな時我々がそこにすっと入って仲立ちする。そんな時、我々は建主さんにとっての専属通訳になる。

英語なんてろくにできなくても海外旅行はできるように、設計監理者がいなくたって家は建つ。言葉を越えた理解や共感はきっとある。でもやっぱり翻訳者は大事。わかり合えない両者を結ぶ重要な橋渡し役なのだ。

21. 11 / 27

皿洗い

author
sekimoto

category
> 思うこと
> 生活


皿洗いが好きだ。何も考えないで、ただ手を動かしているだけで目の前がどんどん綺麗になってゆく。目の前にお皿が積まれているとつい洗いたくなってしまう。

日々の仕事は戦場そのもの。創作も問題解決も頭は常にフル回転。考える仕事は楽しいけれど、たまにしんどくなる。ルーティーンだけで流れてゆく日はとても平和だ。私も少し優しくなれる。

家では料理はしない。料理は創作だから。
家では戦わない。私は皿洗いがいい。ストレスも一緒に洗い流されてゆく。

21. 11 / 08

分相応

author
sekimoto

category
> 仕事
> 思うこと


「分相応」という言葉を聞くたびに、いつも考えさせられる。

「分相応」の意味を引くと「その人の能力・地位にちょうどふさわしいこと」とある。しかし、その人の能力や地位にふさわしいものって一体何だろう?

家づくりの際にもこの言葉はよく使われる。たとえば収入の安定しない若い建て主さんにとっては、時に我々のような設計事務所に頼むことは、「分不相応(=贅沢)」であるとも考えられがちだ。

けれど、その人がこの先も出世することも所得も上がることもなく、現状維持のまま一生を終えるのであればその通りかもしれないけれど、多くの場合はそうではないだろう。(と信じたい)

人生は常に希望に向かって進むものだ。私はその人にとって今が「分相応」であるかよりも、この先その人がなりたい自分になったとき、それが自分と釣り合っているものであるかどうかのほうがもっと大事なことだと思う。もう少し言えば、その器を先に作ることで、その人はなりたい自分になってゆくのではないだろうか。

子育てにおいても、子供に贅沢をさせるべきではないという意見がある。それは正論だし、ある意味正しいとも思う。苦労もなく簡単に良いものが手に入ったとしたら、その子はそれを手に入れるための努力やプロセスの尊さを学ぶことができないからだ。

しかしこうも言える。それなりに値が張るものには、相応の機能やしっかりと手間をかけた工程があって、作り手の創意工夫やデザインがそこに込められていたりするものだ。

世の中には、そうした本物に触れることでしか得られない学びというものもあると思う。それを贅沢だからといって与えないよりも、時にはそこに下駄を履かせることも教育なのではないだろうか。

人生とは未来への投資そのものだ。身の丈に合った生き方と言えば聞こえは良いけれど、少し背伸びをして、指の先がぎりぎり触れることが出来る選択肢を選び続けることにもまた意味があるように思う。

「分相応」という言葉のもとに、きっと辿り着けたであろう未来を簡単に放棄して欲しくない。余計なお世話だろうけれど、この言葉を聞くたびにいつもそんなことが頭をよぎる。

21. 11 / 07

すべて正解

author
sekimoto

category
> 仕事
> 思うこと


少しまえに面談で言われたことがあって、一般のクライアントさんから見るとうちはとてもデザイン性の高い住宅を作る設計事務所で、性能(断熱など)のことはあまり聞いてはいけない印象があったという。

へぇそうなんだ。とても意外。

うちは断熱のこともちゃんと考えているし、そしてもちろん耐震のことも。進行中のクライアントさんなら皆さんお分かりのことでしょう。

もちろん、我々もデザイン性の高い美しい空間にしたいと思っているけれど、雑誌の表紙を飾るような突き抜けたデザインはあまりやらないので、自分の中ではうちはデザイン的には「ちょっと弱い」とすら思っていたりする。

外から見た印象はずいぶん違うのだとあらためて思った。

また私のブログをよく読み込んで、気に入ってご依頼くださる方も多い。もしかしたら、外から見たら自分はずいぶん「いい人」に見られているのだろうか…。

それを言われると、いつもとてもプレッシャーで、いつ自分の「素性」がバレるかとはらはらする。いつも近くにいるスタッフは、優しくない私をたくさん知っている。「いい人」だけではこの仕事はやっていけないのだ。

いい人だと思っている人には、あとでガッカリされるのが怖くて、わざと意地悪なこと言ってしまうことも。自然体でいようと心がけているけれど、どれが自分の素性なのか、正直自分でもよくわからない。

あなたから見えている私の印象、たぶんそれすべて正解です。

今年に入ってからずっとくすぶっているこの問題。

一時は住宅への設置義務化は見送られるという報道が出たものの、夏を過ぎた頃から住宅にも義務化の方向で検討、という記事が出回り始めている。つい昨日の朝日新聞にも出ていた。

CO2排出削減などが背景にあるこの問題だけれど、記事などでよく語られる設置義務化のハードル(イニシャルコストや売電単価の低下)ももっともだけれど、設計者目線で言わせてもらうと「そこじゃない」と思う。

建て主さんからのご要望で、屋根にソーラーの検討をした設計者なら誰でもわかると思うけれど、屋根にソーラーパネルを載せてメリットが出る住宅はおもいのほか少ない。

郊外のゆったりした敷地に南面の平屋でも建てれば話は別だけれど、都内の狭小地で斜線制限を逃げながらいじましい形の屋根を架けた場合、ソーラーパネルなんて何枚も載らない。

しかも、パネルには規格寸法があるので、屋根はそれなりにあるようでも、微妙な寸法足らずで余白だらけの非効率な設置計画になることもしばしばだ。良識ある設計者なら「今回はやめた方が良いですよ」と進言するところである。

また、敷地の南側に隣家の迫るような敷地条件であれば、我々はあえて建物を南面せず、北向きに建ててハイサイドから光を取り込むような住宅の提案をすることもある。そんな場合、北向きの屋根にもパネルは義務化されるのだろうか。

また屋根は傾斜屋根ばかりだと思ってもらっても困る。木造でもフラットルーフの提案をすることも多い。フラットルーフでもソーラーは載せられるけれど、割高だし、パラペットからの離隔を考えるとやはり何枚も載せられない。都市部の住宅に無理に載せる設備ではないことはすぐにわかる。

またフラットルーフを活かして、屋上緑化をしたり、ルーフテラスを設けるというケースもある。そんな住宅でも、パネルは一律に義務化されるのだろうか。

CO2削減はいいことだ。しかし高校の校則じゃあるまいし、住まい手や設計者の考え、敷地の特性などを一切無視して、一律に”義務化”するというのは国民をばかにしている。そして建築なめんな、て思う。