17. 11 / 05
恩師との再会
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sekimoto
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小学校の同窓会があり、恩師の先生と実に33年ぶりの再会をした。
小学校6年生の担任は茂木先生という先生で、小学校から大学までを通して、恩師を一人挙げろと言われたら、この茂木先生の名前が真っ先に出てくるほど、私にとっては印象深く、尊敬していた先生だった。
この先生にはたくさん褒めてもらった記憶がある。とにかく褒めるのが上手い先生だった。取るに足らないことでも、クラスみんなの前で褒めてくれたし、それは私だけではなくみんなに対してもそうだったと思う。
一方で怒るときも怖かった。この先生にお尻を叩かれたことのない生徒はいないと思う。でも手を挙げるのは必ずお尻だけ。今ではそれでも体罰と言われてしまうのだろうか。当時は先生に怒られると、自分たちは本当に悪いことをしたのだと思ったし、だから叩かれても当然だとも思っていた。
一方でクラスでいじめ問題が起こった時には、涙をぽろぽろ流しながら生徒に訴えた。それを見て僕らも、心底悪いことをしてしまったのだと悟った。情熱的で、愛情に溢れた先生だった。
小学校を卒業し、年賀状のやりとりも途絶えたあとも、ことあるごとに先生のことを思い出した。今頃どうしているのだろう?自分の近況を報告したい気持ちもあった。でも卒業して30年も経っていて自分のことなど覚えているはずがないし、連絡をする勇気もなかった。そもそも、今どこに住んでいるかもわからないのだ。
今回の同窓会では、私はクラス幹事を引き受けたことによって、結果的に幹事として先生に連絡を取らなくてはならないことになった。それは私にとっては千載一遇のチャンスになった。
卒業アルバムに残されていたご実家の電話番号だけを頼りに、勇気を振り絞って電話をかけた。誰かに電話をするのに、こんなに緊張したのも久しぶりのことだった。そしていくつかのやりとりの末、ようやく先生に辿り着くことが出来た。
◇
再会も全くお変わりがなかった。当時20代だった先生は小学生から見たら立派な大人だったし、その印象は当時そのままに、一方の私は今その歳をはるかに越えてしまっていることに驚く。
先生との会話はわずかではあったけれど、昔話にも花が咲いた。みんなも先生との再会が嬉しかったようだ。私のことも覚えていて下さった。そうか、自分は先生にずっと褒めてもらいたかったのかもしれないとその時思った。
生徒は先生に褒められた記憶だけは、いつまでも決して忘れないものだ。苦境に陥ったとき、それがその人にとって最大の励みになる。今では自分も教える立場に置かれながらも、自分の未熟さを省みるばかりだ。
先生に会えて、本当に良かった。


突然額装された写真が届いた。送り主は古い友人である根津修平からだった。私の本の出版祝いにとのこと。彼らしい熱い長文のメッセージも添えられていた。
湖の彼方の森には塔のようなものが見える。普通であればこれが日本なのか、外国なのかすらも判別できる人はいないかもしれない。けれども私にはすぐにわかった。
場所はフィンランド中部、塔はアルヴァ・アールト設計によるムーラメの教会(1929)の先端だ。
しかもこれはどこから撮影されているかというと、ムーラッツァロにある「夏の家」と呼ばれるアールトの別荘の湖畔から。どうしてそれがわかるのかというと、それを教えたのは私だからだ。

◇
修平と出会ったのは17年前、留学していたヘルシンキでだった。彼はフリーの写真家で、お互い根無し草のような立場だったこともあり、すぐに意気投合して無二の親友となった。
お互いあり余る時間をもて余し、当時は二人でフィンランドの建築巡りをした。行き先は私が決めて、彼が写真を撮る。それに私がテキストを載せて、私のホームページに定期的にアップしていた。
https://www.riotadesign.com/FA/Fin_Arch.htm
こういうお金にもならないようなことばかりやっていたけれど、それが今にすべてつながっているような気もする。
私が創刊号の現地コーディネーターを務め、彼にも当時アシスタントとして協力してもらった「Xknowredge HOME」という雑誌はその後廃刊になってしまったけれど、あれから17年後、同じ出版社から自らの本を出すことになるとは誰が想像できただろう。
彼からの写真を見ていたらいろんなことを思い出してしまった。私の原点ともいえる写真。初心を忘れないよう、事務所の目立つところに飾っておきたいと思う。

17. 08 / 01
亀がたまごを
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sekimoto
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亀がたまごを産みました。びっくりです。
我が家にはもう5年くらい飼っている亀がいます。自宅のガレージにある日迷い込んできた迷い亀です。出会いからしてちょっと不思議な亀でした。以来自宅で飼ってきましたが、亀の生態には驚かされることばかりです。
まず”のろまな亀”とよく言いますが、亀早いです。知ってます?亀って走るんですよ。たまにスイッチが入ると、びっくりするような早さで走るんです。
足が短いので、歩く度にお腹が床についてコツコツ音がするんですね。ちょうど女性がハイヒールで歩くような音がします。だから走ると、コツコツコツコツ~!ですね。けたたましい音が廊下に鳴り響きます。
それと空間認識能力がはんぱないです。自宅の隅々まで、どこに隠れられるかを知り尽くしています。毎日がかくれんぼです。いなくなると、だいたい2~3箇所のお気に入りスポットがあるのですが、そこにいないと迷宮入りしかけます。どこにも見当たらず、数週間後に埃だらけで現れたりするので、おまえどこ行ってたんだ状態です。
また暗い廊下でうずくまっていたりすることもあるので、スーパーマリオのようにたまに蹴っ飛ばしてしまいます。すると鳴くんですよ。亀ってびっくりしたときに頭を引っ込めるんですが、その時に「ひっ!」ていう感じで鼻から息を吸うんですね。その時に「キュッ」ていう音がします。これがなかなか可愛い。蹴っ飛ばしておいて可愛いとは申し訳ないですが。
冬には洗面所の隅で動かなくなります。冬眠ですね。本当にスイッチが切れたようになるんです。冬の間は一切エサを口にしません。でも春になるとまたスイッチが入る。本当に不思議です。
さてそんな我が家の亀(ちなみに名前などという高級なものはありません。家族からただ”カメ”と呼ばれています)が、ここ数週間挙動不審で、やたらと家中歩き回ったり、かと思えばエサを急に食べなくなったり、病気かなと思っていたら産みました。たまごを。しかも2つも!5年近く飼ってはじめての出来事です。
それでうちの亀は雌だったということがわかった訳なのですが、雄がいないので卵も残念ながら孵化することはありません。
たまごを産んだあとは、それまでの忙しない動きが嘘のようにピタリと動かなくなってしまいました。よほど体力を消耗したのでしょうか。少し心配です。

17. 07 / 26
百日紅
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庭に百日紅(さるすべり)を植えてもう5年くらいになるでしょうか。3年目くらいまでほとんど花が付かず、このまま枯れてしまうのではと危惧していましたが、昨年あたりから花を咲かせはじめ、今年は満開となりました。
苦節5年…人生を感じさせてくれます。
それでも雨が降るとこのヘコみっぷり。
良いときばかりじゃないさ。人生いろいろ。
そんな百日紅。

昨日は中学までを過ごした桶川で小学校の同窓会がありました。小学校卒業以来約33年ぶりの集まりでした。
私はのちに建築の道に進みましたので、大学やその後の留学、そして独立とどんどん道が枝分かれして細くなってゆきましたが、私を作った一番根っこの部分や幹の部分はこの時代に作られたのだなとしみじみ実感しました。こういうのを原点というのでしょうね。
当時私は広い庭のある家に住んでいました。
田舎でしたので、庭が広いこと自体は珍しいことではありませんでしたが、我が家の場合は少し特殊でした。当時の私もそれは自覚していましたが、それを人に言われるのがとても嫌でした。子どもにとって友達と違うということは、それだけでコンプレックスを感じるものなのです。
それでも親しい友人たちとは、その庭でいつも遊んでいたことが楽しい思い出としてあり、昨日もその友人たちと思い出話に花が咲いたのですが、意外だったのは「俺も行ったことがある」と、それ以外の人たちも一斉に主張しはじめたことです。
挙げ句には、同窓会でも顔が思い出せない他クラスの者や、女の子たちまで皆が私の家に「行ったことがある」と言い出し、私の家の池に落ちたことなどを語りはじめるのでした。
私にはそんな多くの友人を家に招いた記憶はなく、あくまでごく限られた友達と遊んだ記憶しかなかったので、しばし混乱しました。
でも30年以上が経ち顔も思い出せない者もいる中で、みんなの中では「でかい家に住んでいた」という記憶と共に私を覚えていてくれたんだなと思うと、それがなぜか嬉しく、私のアイデンティティにもなっていたのだということにも気付かされました。
今は住宅設計の仕事をしていることなど話すと、皆からは「期待を裏切らないね」と言われましたが、はたして彼らが私に期待をしていたかどうかはともかく、彼らの中で私がもう一度”でかい家の関本くん”として上書きされた瞬間だったかもしれません。
でも彼らは知りません。当時でかい家と言われたコンプレックスから、今では私は「小さな家」のスペシャリストになっているということを。自分の育った境遇も含めて、それをアイデンティティとして生きる意味のようなものを、昨日は考えさせられたのでした。
私はのちに建築の道に進みましたので、大学やその後の留学、そして独立とどんどん道が枝分かれして細くなってゆきましたが、私を作った一番根っこの部分や幹の部分はこの時代に作られたのだなとしみじみ実感しました。こういうのを原点というのでしょうね。
当時私は広い庭のある家に住んでいました。
田舎でしたので、庭が広いこと自体は珍しいことではありませんでしたが、我が家の場合は少し特殊でした。当時の私もそれは自覚していましたが、それを人に言われるのがとても嫌でした。子どもにとって友達と違うということは、それだけでコンプレックスを感じるものなのです。
それでも親しい友人たちとは、その庭でいつも遊んでいたことが楽しい思い出としてあり、昨日もその友人たちと思い出話に花が咲いたのですが、意外だったのは「俺も行ったことがある」と、それ以外の人たちも一斉に主張しはじめたことです。
挙げ句には、同窓会でも顔が思い出せない他クラスの者や、女の子たちまで皆が私の家に「行ったことがある」と言い出し、私の家の池に落ちたことなどを語りはじめるのでした。
私にはそんな多くの友人を家に招いた記憶はなく、あくまでごく限られた友達と遊んだ記憶しかなかったので、しばし混乱しました。
でも30年以上が経ち顔も思い出せない者もいる中で、みんなの中では「でかい家に住んでいた」という記憶と共に私を覚えていてくれたんだなと思うと、それがなぜか嬉しく、私のアイデンティティにもなっていたのだということにも気付かされました。
今は住宅設計の仕事をしていることなど話すと、皆からは「期待を裏切らないね」と言われましたが、はたして彼らが私に期待をしていたかどうかはともかく、彼らの中で私がもう一度”でかい家の関本くん”として上書きされた瞬間だったかもしれません。
でも彼らは知りません。当時でかい家と言われたコンプレックスから、今では私は「小さな家」のスペシャリストになっているということを。自分の育った境遇も含めて、それをアイデンティティとして生きる意味のようなものを、昨日は考えさせられたのでした。
