オリンピックを見ていて思うことがある.
それは世界のトップアスリートには”型”があるということ.それはその競技を究めた者だけが持つ特殊な体の使い方,長い時間と鍛錬を経てようやくそこに行き着いたともいえる終着点,いわば「究極の合理性」のようなものだ.
ビギナーは見よう見まねから入る.本人はそのつもりでも,実際の体の使い方には無駄が多く,正しく力が伝わらない.だから余計に肩の力が入ってしまう.無駄な動きのないプレーはやっぱり美しい.
私の続ける弓道もそうだ.弓道にも型がある.そして頑なにその型通りに射ることが良しとされる.自己流は評価されず,癖が出てきたら徹底的に矯正される.癖のない射形が最も美しく,また結果的に最も当たるからだ.
癖とは人間の業のようなもので,なくて七癖,人はそれをして時に「個性」と呼ぶ.ある場面では個性はより尊ばれる.「個性を尊重する」と言えばほとんどの場面で前向きな発言と捉えられるだろう.ところがある場面では癖や個性というものは行く手に大きく邪魔をする.ある道を究めようとする時,人は自分の癖に「個性」と名付けた瞬間に,その人の成長はある意味止まってしまうような気がする.
建築やデザイン,アートは特に個性が尊重される世界だ.個性的であることが良しとされる.またそれは時に「作風」とも呼ばれ,その人の大きな武器にもなる.ところが多くの人はここではき違えてしまう.個性的であることがゴールなのだと思ってしまう.
一流と呼ばれる建築家や美術家の作品には,そこにある共通点を見いだすことができる.それはやはり”型”のようなもの,あるいは「究極の合理性」と呼べるようなものかもしれない.
究極の合理性とは,単に便利とか経済的であるとか,そういうことではなく,例えば一本の樹木のようなものかもしれない.そこには水を吸い上げ,光合成を行い,養分を隅々まで行き渡らせ花や実をつける完結したシステムがある.そこには一切の無駄がない.
ところが桜と蜜柑の木が異なるように,そこには大きな個体差が存在する.我々はそれをして「個性」と呼びたい.無秩序で思いつきのような行為は,どこまで行っても「でたらめ」でしかなく「個性」ではないのではないか.オリンピックをため息をついて観戦しながら,ついそんなことを考える.
オリンピック選手たちの演技や競技にほとんど優劣はない.
ほんのわずかな心の隙間,あるいは積み重ねた経験値や実力差のようなものが,ほんのちょっと作用してメダルの色が変わる.彼らはそのほんのわずかな違いのために日々の鍛錬を怠らない.それは自我を捨てて自分を越えてゆこうとする試みとも言える.だから美しく,心が揺さぶられるのだろう.
それは世界のトップアスリートには”型”があるということ.それはその競技を究めた者だけが持つ特殊な体の使い方,長い時間と鍛錬を経てようやくそこに行き着いたともいえる終着点,いわば「究極の合理性」のようなものだ.
ビギナーは見よう見まねから入る.本人はそのつもりでも,実際の体の使い方には無駄が多く,正しく力が伝わらない.だから余計に肩の力が入ってしまう.無駄な動きのないプレーはやっぱり美しい.
私の続ける弓道もそうだ.弓道にも型がある.そして頑なにその型通りに射ることが良しとされる.自己流は評価されず,癖が出てきたら徹底的に矯正される.癖のない射形が最も美しく,また結果的に最も当たるからだ.
癖とは人間の業のようなもので,なくて七癖,人はそれをして時に「個性」と呼ぶ.ある場面では個性はより尊ばれる.「個性を尊重する」と言えばほとんどの場面で前向きな発言と捉えられるだろう.ところがある場面では癖や個性というものは行く手に大きく邪魔をする.ある道を究めようとする時,人は自分の癖に「個性」と名付けた瞬間に,その人の成長はある意味止まってしまうような気がする.
建築やデザイン,アートは特に個性が尊重される世界だ.個性的であることが良しとされる.またそれは時に「作風」とも呼ばれ,その人の大きな武器にもなる.ところが多くの人はここではき違えてしまう.個性的であることがゴールなのだと思ってしまう.
一流と呼ばれる建築家や美術家の作品には,そこにある共通点を見いだすことができる.それはやはり”型”のようなもの,あるいは「究極の合理性」と呼べるようなものかもしれない.
究極の合理性とは,単に便利とか経済的であるとか,そういうことではなく,例えば一本の樹木のようなものかもしれない.そこには水を吸い上げ,光合成を行い,養分を隅々まで行き渡らせ花や実をつける完結したシステムがある.そこには一切の無駄がない.
ところが桜と蜜柑の木が異なるように,そこには大きな個体差が存在する.我々はそれをして「個性」と呼びたい.無秩序で思いつきのような行為は,どこまで行っても「でたらめ」でしかなく「個性」ではないのではないか.オリンピックをため息をついて観戦しながら,ついそんなことを考える.
オリンピック選手たちの演技や競技にほとんど優劣はない.
ほんのわずかな心の隙間,あるいは積み重ねた経験値や実力差のようなものが,ほんのちょっと作用してメダルの色が変わる.彼らはそのほんのわずかな違いのために日々の鍛錬を怠らない.それは自我を捨てて自分を越えてゆこうとする試みとも言える.だから美しく,心が揺さぶられるのだろう.
