最近本が読めなくなった。忙しくて読めないというより、体力が落ちたのか仕事が終わって一息ついている時にはもはや活字を読む余裕がないことや、いざ読み始めても数行で眠くなってしまい気づけば寝落ちしている。
そんな“積ん読”が常態化しているなか、またひとつハードル高そうな本を買ってしまった。
『建築のラグジュアリー』加藤耕一著(東京大学出版会)
見るからに分厚く、活字は小さく、そして内容も難しそう。それなのに手を出してしまったのは、SNSなどでの評判に加えて、タイトルの「ラグジュアリー」が意味するところに興味が惹かれたからだ。
読み始めるとそんな先入観は吹き飛び、面白くて、時間はかかったけれど最後まで心折れずに読みきることができた。何より、著者である加藤耕一さんのおっしゃるところの「ラグジュアリー」に深く共感した。それはここ最近ずっと思っていながら、なかなか言語化できなかった感覚に輪郭を与えるものでもあった。
本書を一部引用するとこうだ。
「私たちの身の回りにある建築のラグジュアリーといえば、ラグジュアリーなホテルやレストランなどを思い浮かべることが多いだろう。(中略)そうしたラグジュアリーも良いのだが、それが長い時間を生き続けることが可能な建築空間かどうか」
「高級品だがすぐに飽きられて使い捨てられてしまうラグジュアリーと、使い手に愛され、何度も修理しながら長く、場合によっては世代を超えて使い続けられるようなラグジュアリー」
「敬意と愛着によって長く使われる価値こそが、建築におけるラグジュアリー」
最近私が惹かれる建築に共通する要素はまさにそうした価値観であったし、自分の仕事に対してもまさにそういう価値を残せるものにしたいとも思う。
我々のような設計事務所の残す仕事というのは、一般の人からすると、よく言えば「普通の家とは少し違う差別化のある住宅」ということになるのかもしれないけれど、視点を変えれば、それは「一般の人たちを置き去りにした贅沢な富裕層向けの住宅」であるとも思われがちだ。
もちろん、正しくそういう方たちに向けて作られるものもあるので、けしてそれを否定するわけではないけれど、当の我々は時にそうした「豪邸」というカテゴリに自分たちの仕事を当てはめられることに対して、強い違和感を感じることもある。
時には「贅沢は敵」だと言わんばかりに、構造そのものをむき出しで見せたり、化粧材としては見なされない下地材のような素材を使ったりして、それをいかに豊かに美しく見せるかに心を砕いたりする。我々はそれこそが「ラグジュアリー」だと思っているからだ。
本書ではそれを「時間」と「物質」に分けて説明する。経年変化など建築の長い時間軸を考慮して選ばれた素材によって、時間をかけて丹念に作られたものには敬意や愛着が宿り、そうした建築は時間が経ってもその価値は損なわれず、むしろ深みを増すと。
一方の性能や機能のみで作られたものは、その時には社会やクライアントの使い勝手に適合するけれど、時間の経過とともに次第に陳腐化し、アップデートの要請によりあっけなく壊されたり、人の手に渡ったりする。
例えば、ここにきて1950〜60年代の近代の名建築群が、次々に解体の危機に瀕している。現代の使い勝手に合わなかったり、断熱や省エネルギーといった環境性能上の問題が取り質されるわけだけれど、そこに流れてきた長い時間は、それを使ってきた市民にも深い思い入れや愛着を宿してきたに違いない。
わずか半世紀で物質が朽ち果ててしまったわけでなければ、設備の更新や用途の転用などによって再び息を吹き込むことは可能だし、それこそが真の建築のラグジュアリーだとも言える。先に訪れた伊賀の旧上野市庁舎(SAKAKURA BASE)でもそれを強く感じた。
私が好きな建築にはいつも細やかなディテールがあり、それを見ただけでそれがどれほどの苦労や逡巡を経て作られたものかがわかる。その瞬間に、私はその向こう側に人間くさい途方もないドラマを感じる。
それは例えるならば、甲子園の舞台で試合に勝った(負けた)選手たちが流す涙に、ついこっちもうるっとしてしまう感情にも似ている。ここまで来るのにどれだけ頑張ったことだろう、というストイックな相手の姿勢に敬意を感じるのだ。
それは人が一生懸命に作ったものは壊せない、傷つけられないという愛着にもつながる。愛着と敬意は表裏一体なのだ。その瞬間に建物は「建築」になる。建築とは尊い精神がつくったラグジュアリーな殿堂である、ともいえるのかもしれない。
長く抱えていた問いに一定の答えを見出したような、この秋に出会った良い一冊だった。
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