身の丈に合った選択をする。身の丈に合ったものを身につける。「身の丈に合った」というのは日本人の美徳のひとつで、過度な贅沢を戒める言葉だ。
けれど、我々のような設計事務所に相談にいらして、結果的にそれを諦めるときにも、この言葉はよく使われる。「身の丈に合った家にすべきだと考え直した」「身内から身の丈に合わないと咎められた」など。
それはまるで、設計事務所に設計を依頼することが「身の程知らずの贅沢」であるかのようだ。そのたびに、そうじゃないのに、と思う。
そもそも、その「身の丈」というのは、いつの時点の身の丈なのだろう。
我々がつくり出す身の丈は、いわば「近い未来の身の丈」だ。自分が本当に住みたいと思う家を建てる。それによって多少の背伸びをすることになったとしても、新しい環境がその人の気持ちや行動を変え、暮らしそのものを少しずつ変えていくこともある。
人は今の身の丈に合わせて家をつくるだけではない。新しい家に暮らしながら、その家に似合う自分になっていくこともあると思う。
それが、その人にとっての「あるべき身の丈」ではないだろうか。我々がつくる家もまた、そんな少し先の身の丈を見据えてつくっている、ともいえる。
我々と家づくりをして、建てなければ良かったという人には幸いまだ出会ったことはない。むしろ家を建てたことで、暮らしだけでなく、その人自身の何かが確実に変わっていく姿はこれまで何度も見てきた。
これは建築に限らず、デザインを生業とする仕事は皆そうなのだと思う。
今ではなく、少し先の未来。
こうありたい、と願う気持ち。
そこに寄り添い、まだ形になっていない未来を少しだけ先取りして見せること。それが我々の仕事なのだと思う。そして「あるべき身の丈」を手に入れた人は、やがて本当にその身の丈に合った暮らしをつくりあげていく。
どうかその住まいが、身の丈に合った住まいでありますように。
けれど、我々のような設計事務所に相談にいらして、結果的にそれを諦めるときにも、この言葉はよく使われる。「身の丈に合った家にすべきだと考え直した」「身内から身の丈に合わないと咎められた」など。
それはまるで、設計事務所に設計を依頼することが「身の程知らずの贅沢」であるかのようだ。そのたびに、そうじゃないのに、と思う。
そもそも、その「身の丈」というのは、いつの時点の身の丈なのだろう。
我々がつくり出す身の丈は、いわば「近い未来の身の丈」だ。自分が本当に住みたいと思う家を建てる。それによって多少の背伸びをすることになったとしても、新しい環境がその人の気持ちや行動を変え、暮らしそのものを少しずつ変えていくこともある。
人は今の身の丈に合わせて家をつくるだけではない。新しい家に暮らしながら、その家に似合う自分になっていくこともあると思う。
それが、その人にとっての「あるべき身の丈」ではないだろうか。我々がつくる家もまた、そんな少し先の身の丈を見据えてつくっている、ともいえる。
我々と家づくりをして、建てなければ良かったという人には幸いまだ出会ったことはない。むしろ家を建てたことで、暮らしだけでなく、その人自身の何かが確実に変わっていく姿はこれまで何度も見てきた。
これは建築に限らず、デザインを生業とする仕事は皆そうなのだと思う。
今ではなく、少し先の未来。
こうありたい、と願う気持ち。
そこに寄り添い、まだ形になっていない未来を少しだけ先取りして見せること。それが我々の仕事なのだと思う。そして「あるべき身の丈」を手に入れた人は、やがて本当にその身の丈に合った暮らしをつくりあげていく。
どうかその住まいが、身の丈に合った住まいでありますように。
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