数ヶ月前に一冊の本を手に取った。
『アイノとアルヴァ アアルト書簡集』

トータルで522ページもある大作。普段は忙しくてなかなか読書の時間も取れない、そんな私だったけれど、少し読んではページを閉じ、そしてしばらく放置を繰り返して、約2ヶ月くらいかかって読破した。けれど一度読み始めるとなかなか止まらなくなる。

あまりに長く、そして高価な本でもあるので誰でも気軽に読める本ではないかもしれないけれど、読まずじまいではあまりにもったいない本なので、この場をお借りして以下全力レビューをしてみたい。


『アイノとアルヴァ アアルト書簡集』
ヘイッキ・アアルト=アラネン 著/上山美保子 訳(草思社)
https://amzn.asia/d/6rm7YKr



昨年にかけて上映されていた映画『アアルト』では、これまで知られていなかったアルヴァやアイノの素顔や側面がいくつも紹介されていて私も衝撃を受けた。

アアルトの建築作品は過去にいくつも巡ったことがあるし、史実としてのアアルトの生涯のこともなんとなく知っていたけれど、その時々でアルヴァとアイノがどんな会話を交わし、どんな関係性で仕事をしていたかなんて知る由もなかった。

またこれまで、「アイノは生涯にわたってアルヴァを支え」的な日本人が好みそうなストーリーばかりがフューチャーされていたような気もするのだけれど、もう少し生々しい(ある意味人間らしい)アアルト夫妻の姿が垣間見えたのもとてもリアルだった。


この本は、そんな映画のなかでもたびたびダイアローグで登場していたアルヴァとアイノとがお互いに交わした往復書簡(手紙)を翻訳して公開したものだ。

いくら著名人だからといって、死後に生前に交わした夫婦の手紙(ラブレターのような内容も多数あり)の内容を全文公開するなんてどう考えてもあり得ない。この本のなにがすごいって、まずはそこがすごいと思う。(私なら絶対イヤだ、、)

著者はヘイッキ・アアルト=アラネン氏。ミドルネームに”アアルト”が入っていることからわかるように、れっきとしたアアルトの孫である。

お母さんはアルヴァとアイノの長女であるヨハンナ・フローラ・マリア・アンヌンジアタ(書中ではモッシやハンニ、ハンナ=マイヤという名前で登場する)。その母が残した祖父母の膨大な量の書簡を整理しただけでなく、時代背景や交友関係の情報を補足してくれているのでとても読みやすく、史実の裏側でどんなやりとりが夫婦で交わされていたのかを知る、非常に貴重な歴史資料にもなっている。

アアルトについては、これまでヨーラン・シルツといった建築評論家らの筆で分析的に語られることが多かったのだけれど、この本では当事者の言葉で語られていて、しかも気心知れた家族にあてた手紙だから、言葉も平易でとてもわかりやすい。

これまでアアルトの言葉はどこか謎めいていて、抽象的でわかりにくいものが多かったのだけれど、こんなにわかりやすい言葉で語っているアアルトというのがとにかく新鮮で、みんなが知らないアアルトの素顔を自分だけが知っているような、どこか優越感のようなものすら感じてしまう。それもこの本の魅力のひとつだろう。


この本の楽しみ方はいくつもある。

脚色された小説ではなく事実に基づいたドキュメントなので、たとえば読む人によってはそこに夫婦愛や男女同権のリベラリティの精神を受け取るだろうし、建築好きならコルビュジェやF.L.ライト、グロピウス、モホリナジといった歴史上の巨匠建築家や美術家らとの親密な交流ぶりに胸が躍るかもしれない。

一方私のようにマニアックなアアルト好きの見方としては、これまで都市伝説的に語られてきたアアルトを巡るあれこれの”うわさ話”を事実ベースで回収できる発見の書にもなる。

たとえば、アルヴァはディスレクシア(生まれつき読み書きに困難がある症状)だったという話を聞いたことがあったのだけれど、それはこの本の中でも触れられていたり(P.50「アルヴァの学校での成績があまり芳しくなかったのは、軽度の失読症だったことにも関係していて」)。

アルヴァが大学を卒業してすぐにユヴァスキュラで自分の事務所をつくって独立したのも、過剰な自信家だった側面があったから(P.51「建築の勉強を始めたときから、建築家として成功するために必要な特性は備わっている、と確信を持っていた」)とか。

はたまた、マイレア邸を建てる際には「当初はライトの落水荘を連想するような場所を探そうと川の景色を求めた」(P.277)とか。

これまでどの本にも触れられていなかったような些細な史実が知れると、とたんにアアルトが身近に感じるようになるから不思議なものだ。


アイノに脚光を当てたくだりもとても面白い。これまでアアルトと言えばアルヴァのことだと我々は考えてきたわけだけれど、当時の建築界の認識は「アイノとアルヴァ」であり、二人は分かちがたく二人で仕事をしていたパートナーであったという事実を裏付ける記述もいくつも出てくる。

この本ではさらに、アルヴァに出会う前のアイノについても詳しく触れられている。女学生仲間とイタリアに卒業旅行にでかけたくだりなど当時の時代背景がわかってとても興味深いし、途中でお金が尽きてしまって家族にイタリアまで送金を頼むくだりが何度も出てきたり、自分が送った手紙の返事が家族から返ってこないことに腹を立てて拗ねてしまうあたりとか、こちらも人間味があってとても可愛い。

アルヴァが事務所を開設するユヴァスキュラになぜアイノが行くことになったのか、そんな事情も詳しく書かれている。だいたいの本では、「アイノはユヴァスキュラ時代にアルヴァの事務所で働いていたスタッフで、のちにアルヴァと結婚した」というくらいにしか書かれていない。そこで何があったのかはどこにも書かれていない。

なかでも秀逸だったエピソードは、アイノがアラヤルヴィに訪れた際、村の入口で出会った初老の紳士に「ユヴァスキュラにいるアルヴァ・アアルトという男を知っているか?」と尋ねられ「ああ、そういう名前のろくでもない奴がいるわ!」と答えるくだり。(なんとその初老の紳士はアアルトの父親だったらしい)

アイノはどうも大学在学中から後輩であったアルヴァのことを「ろくでもない奴」と思っていたようだ。在学中のアルヴァとの接点についてもエピソードが書かれている。けして最初から好きだったわけではなかったというのも面白い。


友人関係では、とくに無二の親友だったラスロ・モホリナジとの交流が濃密に描かれている。またF.L.ライトへの親愛の情や、実際にライトからいたく気に入られて、何度もライトの事務所まで足を運ぶ姿も描かれている。アルヴァは敬愛するライトから誘いが入ると、それを自慢げにアイノへの手紙にもしたためたりもしている。

アルヴァはとにかく行く先々で相手が誰であろうとすぐに気に入られてしまう。老若男女を問わず、どこでも人を魅了してしまうというのがアルヴァの持つ傑出した才能のひとつだったようだ。

1939年にひらかれたニューヨーク万博ではアアルト夫妻の人気と実力はピークに達する。この万博でアアルト夫妻はフィンランド館の設計を担当することになるわけだけれど、アルヴァが2案、アイノが1案出した計3案が国内のコンペで1~3位を独占するなんてこともやってのけている。

アイノが亡くなる直前のやりとりでは、自分たちの設計事務所のこれからの方針についても触れられている。そこでは、忙しすぎる現状を嘆き、これからは仕事の量を絞り、事務所の規模も縮小して自宅で二人でゆっくりと仕事をしていきたいとも綴られている。ライトのタリアセンのように、アイノと共に若い建築家を育成する学校をつくるという構想もあったようだ。

ところがそんな矢先に、アイノはがんで急逝してしまう。享年54歳、アルヴァは51歳の時だった。


本書の中で紹介されているアルヴァとアイノの往復書簡では、どの手紙でもお互いを思いやり、いくつになっても新婚のカップルのような手紙のやりとりをしていたというのがとにかく印象的だった。

アルヴァは常にアイノを立てて「アイノ&アルヴァ・アアルト」という具合に、自分の名前よりも先に常にアイノの名前を先に出していたという。今でこそ男女平等の思想が行き渡ったフィンランドであっても、当時はけしてそうではなかったそうだ(と、アラネンさんがオンラインセミナーでおっしゃっていた)。

そんな中で、お互いの関係は常にフラットであり続けようとしたアイノとアルヴァの存在は、その建築と同じくらい強い社会性やメッセージ性を今もなお持っているようにも思う。

建築は人間がつくり出すものだ。「人間アアルト」を知ることで、アアルトがつくり出した建築の見え方もきっと変わるに違いない。アアルト好きの方なら是非本書を手に取って頂きたいと思う。