19. 04 / 06

微差と違和感

author
sekimoto

category
> 思うこと
> 生活


我々の仕事はつくづく微差や違和感を拾い上げる仕事だと思う。

たとえば何の変哲もないただの土地を見て、我々はアイデアを膨らませる。何の変哲もないように見えて、そこにある微差や違和感を拾い上げ、それを強調したり隠したりしながらプランはできあがる。

仕事におけるリスク回避やミスを未然に防ぐ行為も、この微差や違和感を拾い上げる行為にほかならない。野生動物が、そこにいつもと違う何かを感知すると警戒して近寄らなくなるように。「これはちょっとまずい気がする」という微差や違和感を大切にしておかないと、いつ脚を掬われるかわからない。

微差や違和感に敏感になると、人には見えないものが見えるようになる。そう書くと超能力者のようだけれど、どんな仕事にもそういう領域があるように思う。たとえばイチローにはイチローにしか見えていない世界があるように。端から見たら、ただピッチャーの放った球をバットに当てているだけとしか見えない行為だとしても。

逆に見えている人からすると、今そこに実在しているのに、どうしてそれが見えていないのか不思議でたまらなくなることがある。そして時に苛立つ。仕方なく「ほら、ここに」と手に取って見せるとはじめて人は気付いて、「ほんとだ!いつからここにありました?」という表情を見せる。いつからって、最初からずっとここにありましたよとしか言いようがない。

それが建築、それがデザインという仕事なのだと思う。

日常生活でもよくあると思う。部屋を汚くしても平気な人がいるとする。それが嫌でたまらない人からすると、どうしてそんな汚い部屋にいて平気なのかと思うけれど、本人には見えていないのだから仕方ない。あるいは政治家の失言もそうだ。目の前にあるものが、すべての人に同じように見えていると思ったら大間違いなのだ。

我々のような設計事務所にご相談に見える方は、こういう微差や違和感に対する感度の高い方が多い。社会的には少数ではあるけれど、その方達に言わせれば「どう考えてもそうした方が良いのに、そうしないという選択肢を選ぶということが考えられない」ということになる。

微差や違和感に対する感度が高いと疲れることもある。人が気にならないことが、すごく気になってしまうからだ。それは人から見たらやはり神経質だということになるのだろうが、私の場合それが100%仕事に活かせているので、やはり幸せなのだと思う。