今日は、昨年より告知しておりましたOZONEでのトークイベントがありました。
企画して下さいましたOZONEスタッフの皆さま、一緒に登壇下さった「紫陽花の家」建て主のKさん、そしてご来場下さった皆様、誠にありがとうございました。

紫陽花の家
https://www.riotadesign.com/works/15_ajisai/#wttl

イベントでは、私が紫陽花の家の設計プロセスや概要を語った後、コーディネーター小川さんのリードのもと、Kさんの家づくりで感じたことやご苦労など、多くの興味深いお話を伺うことができました。また、4年経った今でも大変気に入って下さっているということも、設計者としても大変幸せに感じたことでもありました。ご参加下さった方には建築家と建てる家づくりがどういうものか、よくご理解頂けたのではないかと思います。


今日お話をお伺いした中でとても印象に残ったのは、街並みや地域に馴染んだ住まいのあり方とは?というお話でした。

設計当時のご要望には、確かに「街並みに馴染んだ佇まい」であることなどが謳われていたように思います。言い換えれば「街並みとの調和」ということになるのかもしれませんが、月並みな言葉でありつつもそれがどういうことか、設計者であってもうまく答えることができる方は少ないと思います。そして私ですら、それはおぼつかないものです。当時はそんな手探りの中での設計でした。

街並みと調和する住まいって、はたしてどんな住まいでしょう?

例えば歴史ある景観の街並みであれば、それはむしろたやすいことです。瓦の街並であれば、屋根には瓦を使おうと心ある設計者であれば思うでしょう。けれども歴史の文脈が断たれた住宅地の中で、周辺のサイディングの外壁と合わせることが街並みの調和につながるのかと言えば、私には大きな違和感があります。

それについて、Kさんはこんなお話をして下さいました。

「紫陽花の家」の設計では、そう大きくはない敷地の中にも出来る限り多くの木を植えるように計画をしていました。夏の間は良いのですが、それが秋の落葉の季節が始まると一斉に葉を落とします。

近所のご迷惑になってはいけないと、Kさんは毎日のように落ち葉をかき集めたり掃除をしていたそうですが、そうすると通りを歩く人や近所の方からよく声をかけられるのだそうです。

「大変ですね」とか「もう秋ですね」とか、そんなささやかな言葉だったりするのだろうと想像するのですが、それはマンションに住んでいたときにはなかったことで、葉を集めるために仕方なく表に出るということが、街の人たちとつながることになるのだということに気づいたそうです。

そしてそんな通行人からは、家のことをよく褒められるのだそうです。そのたびに、街の人から自分の家が好意的に受け入れられていることを感じ、それが家が街に馴染んだと実感する瞬間なのだとおっしゃっていました。人には個性があるけれど、お互いを尊重しあい仲良くなれるということと似ています。とても示唆に富んだお話だと思いました。


思えば、ここ最近の我々の設計で意識しているのは、住宅をいかに街とつながりを持たせるかということでもあります。住まいを街にひらく、という言い方をすることもありますが、「ひらく」と言うと文字通り、通りに対してガラス張りにするのかと思われる方もいらっしゃるのですが、そういうことではありません。

住まいの庭先に木を植えたり、アプローチを美しく整えるのは建て主のためであることには違いないのですが、私にとってそれは半分の意味でしかなく、残り半分は家の前を通る人や隣家の方への”お裾分け”だと思っています。

一般的には土地を買い家を建てるという行為は、資産としての土地と住宅を手に入れる行為であると思われているかもしれませんが、本当は半分は自分のもの、半分は街のものなんです。なぜなら、街はみんなの共有資産だからです。だから敷地の”へり”に緑を植えるという行為は、税金を払うのと同じくらい大事なことなのです。


先の「紫陽花の家」は個性的で、あの街並みの中では同じ家は二つとありません。それどころか、日本中見渡しても同じ家はないはずです。それはKさんご家族がこの世にひと家族しかないのと同じくらい自然なことです。我々設計事務所と家をつくるということは、特別ではなく、むしろそのくらい当たり前のことでもあるんです。

けれど、そんな唯一無二のものが街並みの中に”溶け込んで”いるということ。街並みとの住まいの調和というものが、単なるデザインコードの話ではなく、人や環境というレベルでつながる話なのだということを今日はあらためて認識することができました。

Kさん、あらためて本日は貴重なお話をありがとうございました。