高輪ゲートウェイ問題(?)について、先日はちょっと茶化して書きましたが、本当に書きたかったことを書きます。

あの駅名については、公募でも一番多かった「高輪」で良かったんじゃないかと個人的には思います。「ゲートウェイ」がついたことで、みんなの高輪が「俺の高輪」になってしまった。ただ、正直高輪なんてほとんど行かないので、この駅名自体については正直どうでも良いと思っています笑

ここで掘り下げたいのは、本来「高輪」でいいのに、なんで「ゲートウェイ」をつけたのかという件について。これは我々設計者心理にもつながる問題のような気がするのです。

我々は設計意図をより明確にするために、さまざまな修辞を行います。

よりその視覚効果や意味性を高めるために、尖るべきものはより尖らせるし、開くべきところはより開こうとします。それは建築に限らず、音楽でも美術でもそうでしょう。それによってより問題意識は明確となり、それに沿った解決がより鮮明に浮き彫りとなり、人の心に刺さるのです。

けれどもその強弱のつけ方には目には見えない微妙な境界線があって、ある時点まではそれを発信する側と受け手が共になって共感しあえるポイントがあるけれど、その境界を越えた瞬間に、その人の想いだけが押し付けられたような状態に陥ります。

子に対する親の説教でもありますよね。そこで止めておけば良いのに、もう一言添えた瞬間に「うるさいなあ」になってしまうことが。

デザインもそうですが性能についても同じです。自分が伝えたい、正しいと思うことを、相手の共感が得られるぎりぎりのポイントで、正しく着地点を見つけるというのはとても難しいことです。

ま、つまるところ「ひとこと余計だったよね」の典型的な例といったところでしょうか。こういう瑣末なことも、自分の身に置き換えて落としておくと道を誤らないためのヒントになる気がします。