昨日は非常勤講師を務める日大理工学部2年生の住宅課題の全体講評会がありました。各講師受け持ちの20名ほどの学生の中から優秀案を2~3点ほど選び、全体講評会を通じて全学生の中からさらに作品集に掲載する優秀作品数点を選出します。

その中からさらに選ばれたトップ2作品については、スーパージュリーというゲスト建築家を招いての秋の全学年講評会へと選出されます。今回は私のクラスからも1作品が選ばれました。橋本さんおめでとう!他の学生もよく頑張りました。


私は日頃から住宅設計を生業としていますが、学生達に教える住宅設計というものは、我々の日頃の実務設計とはある意味大きく異なるものだと思っています。

我々の住宅との違いは、一言で言えば特定の建て主がいないということになりますが、そうなると面白いことに彼らの設計する住宅は、大きく二つの方向性へと分かれてゆきます。

ひとつは、豊かな想像力(あるいは妄想力)と”ご都合主義”を駆使して、通常ではあり得ないような突飛な設定や解決へと飛躍してゆくという方向性。そしてもうひとつは、住宅をアノニマスな、ある意味どこにでもいそうな(そしてそれはどこにもいないということと同義なのですが)家族像を想定して、大きく突出することのない住宅へと着地してゆこうとする方向性です。

一方の我々の実務設計はどちらでもなく、特定の建て主の思いや許容値から大きく逸脱しないよう、そして一方ではその”のびしろ”を最大に生かしたような個性的な住宅の着地点を探ってゆきます。機能、構造、断熱、そしてディテール。すべてに対して高いレベルの解決を求めてゆきます。


私が学生に求めるのは、どちらかというと前者のやや飛躍したような、ある意味「突飛な」解決です。意外に思われるでしょうか?

普段の設計が”良識的”なだけに、振り幅が大きくなっているのかもしれませんが笑、まだ大学の二年生、建築を学び始めたばかりの子達が、今すぐにでも建ちそうな老成した住宅はやらなくて良いと私は思っています。(もちろん、そういう学生の案も一方では高く評価はしています)

私は学生には、常に常識を疑う目を養って欲しいと思っています。「そういうものだ」と植え付けられた常識は思考停止を招きます。住宅ってなんだろう?建築ってなんだろう?という素朴な視点を見失わないことが、この時期の学生には最も大切なことだと思うのです。

今回も我がクラスからは、そんな”非常識”な住宅がいっぱい生まれました。どれもとっても楽しい住宅です。なぜか女子学生の方が、そんな常識を脱ぎ捨てることに躊躇がないような気がするのは気のせいでしょうか。

住宅を考えることで、これからの世の中のことや、住まいと街との関わり方について考えを深める良い機会となったら、教えた甲斐があったなと思います。