学生を指導していていつも思う.もっと普通にやればいいのに.

誤解のないように言うと,普通じゃないのをできる子はどんどんやればいいと思う.でも普通じゃダメだなんて誰が決めたんだろう.

彼らは「普通だ」と言われることを何よりも怖れている.その瞬間に自分の存在価値を否定されたような気持ちになるのだろう.その気持ちはとてもよくわかる.

でも普通にやるということと,考えを放棄するということは違う.まったく違う.
住宅でも美術館でもなんでもそうだけど,どんな建物にも利用者がいて,建てられる目的というものがある.少なくとも建築は自分のお金ではなく,クライアントのお金を使って建てられるものだ.だから設計にあたっては,その敷地と向き合い,その目的や利用者の幸せを一番に考えなくてはならない.

じゃあ”普通に”どこにであるような退屈なハコにすれば良いのかといえばもちろん違う.何度も言うように,その目的や利用者の幸せを一番に考えたら,絶対に単純なただのハコにはならないはずだ.丁寧に丁寧に,愛情をこめて設計をしていったら,教科書通りの作り方であっても結果的に”普通”にはならない.なぜならプロセスが違うし,なにより自分は他人とは違うのだから.

なのにどうして現実離れしたプランをいつまでも捨てきれないのか.それは自己満足を得たいからだ.先生から褒められたかったり,周りからすごいと思われたいからだ.気持ちはわかるけれど,それってエゴだと思う.エゴからはじまった建築は自分を苦しめる.どうしてそれが成立するのかを他者の視点で語れないからだ.それは愛情のない建築だと思う.

学生に言いたい.もしプランがまとまらなくて延々と悩んでいるのだったら,エゴを捨てて普通にやりなさい,と.敷地の中にはなにもないよ.敷地の外に目を向けてみなさい.自分ではなく,利用者やその前を通る人たちのことを考えてみなさい.そうしたら普通に素晴らしい建築になるよ.