12. 03 / 07

カタチを与える

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sekimoto

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> 思うこと


昨日一件のプレゼンがあった.その方は我々以外にも,ハウスメーカーなどからも提案を受けていたのだけれど,最終的には我々のプランを気に入ってくださり,無事設計のご依頼を頂くことができた.そのお施主さんから昨晩頂いたメールの内容がとても嬉しく,感じるものがあったのでその一部を抜粋してご紹介させて頂く.

『事務所で図面を見せていただいたときに,こういう風に暮らしたかったんだと気づきました.漠然としたイメージだったものを導き出してもらったというか,解は私たちの中にあって,それにうまくカタチを与えてもらったという気がしています.
コンセプトを聞いたときに目からウロコが落ちた気がしました.なぜハウスメーカーと話しをしていて全く楽しくないのか,すとんと腑に落ちました』

お施主さんによると,ハウスメーカーの建築士さんには繰り返し「どういう間取りにしますか?」と聞かれたそうだ.お施主さんにしてみたら「それを考えてくれるんじゃないの?」ということになるだろう.

例えばここの仕上げはどうしますか?と聞かれて答えたら,その通りになってしまうのだろうか.どんなにヘンテコな内装になったとしても,それは「お施主さんのお望み通り」なのだろうか.それは断じて違うと思う.

多少高い(と思われている)ハードルを乗り越えて我々建築家にご依頼くださるお施主さんのゴールは,「美しく機能的な家に住む」だ.我々はそこに向かって仕事をしている.

だからお施主さんがその道を踏み外しそうになったら,迷わず我々は指摘をしなくてはならない.例えお施主さんの意向であろうとも,それが誤ったゴールに進みそうになっていると感じた時には絶対に首をタテには振ってはいけない.それは俗に言う「建築家は言うことを聞いてくれない」ということとは本質的に異なる話なのだ.

僕は常に「答えはお施主さんの中にある」と思っている.でもそれをどう表現すれば良いのか,どうすればそれができるのかわからないから我々に設計を依頼している.だから我々に求められるのは,実はカタチを作るという意味でのデザイン力ではなく,それをどう引き出すかという意味においてのコミュニケーション能力なのだ.これ以外の何物でもないとも思う.

それゆえに,このお施主さんの「解は私たちの中にあって,それにうまくカタチを与えてもらった」という表現が,我が意を得たりということで何より嬉しかった.建築はコミュニケーションであり,デザインもやはりコミュニケーションなのだ.

詰まるところ,いつも結論は一つなのだな.