22. 05 / 23

撮影の流儀

author
sekimoto

category
> 仕事



新緑が映える5月は我々にとっては絶好の撮影の季節到来!です。6月の梅雨入りまでに、可能な限り前年に竣工した住宅の写真撮影を重ねてゆきます。

リオタデザインの撮影の流儀は、竣工して数ヶ月経ってからとしています。竣工直後のがらんどうの住宅は、例えれば料理の載っていないお皿のようなものですので。

もちろん中には、料理は盛り付けられずとも、皿単体の美しさから床の間や美術館のガラスケースの中に置かれるようなものもあるでしょうが、リオタデザインのお皿は日常使いのお皿です。そこに盛られた思い思いの料理(生活)とともに記録に残したいと思っています。


今日は昨年竣工の「大屋根の家」の撮影がありました。

「大屋根の家」は”家”という文字が入っているものの、実際には住宅ではなく寺院の増築棟です。こちらは竣工からすでに1年が経ってしまったのですが、諸事情から延び延びになっていた造園工事が先日ようやく完了し、ようやく一年越しの撮影となりました。

撮影はいつもの新澤一平さん。
新澤さんとはもう10年ほどのお付き合いになります。当時は新澤さんも独立したてで、「川風の家」という住宅の撮影をして頂いたのがはじめてでした。

世の中にはいろんな写真家さんがいらっしゃいます。著名な建築家の作品を多く撮っている大御所のような方もいれば、竣工撮影というより雑誌などの取材で編集者さんやライターさんの指示のもと、的確にシャッターを切る方もいらっしゃいます。

とある方の写真が美しかったからといって、自分の写真も同じようになるとも限りません。これは建て主さんと建築家との関係ともよく似ているような気もします。つまりは相性だということですね。


「同じ方向を見ているからといって、同じものを見ているとは限らない」

少し哲学的ですが、私は日常でもそう感じることが多いです。たとえば目の前に撮影してもらいたい建物があったとします。建物の正面に立って、当然こういう画角でこういう絵を撮るのだろうと思っていても、往々にして写真家さんは思い思いの感覚で、「え、そこから!?」という角度で撮り始めることもあります。

その後仕上がった写真を見て愕然とすることも。もちろん、先入観がなければ「これはこれで良し」なのでしょうが、設計者目線から見たら「そうじゃない」と思うこともあります。設計者に要望をすべて伝えて出てきた間取りが、すべて盛り込まれているのに思っていたのと違う、というのとよく似ているかもしれませんね。

新澤さんとの撮影ではそれがないのです。もしくは限りなく少ないと感じます。私が見ている空間の姿を、高い精度で写真に再現して下さる。私のように感覚にシビアな人間にとって、これはある種の奇跡だとすら思えます。

これが私が新澤さんにずっと撮影を依頼し続けている理由です。今となっては、リオタデザインの今のビジュアルイメージを作りあげたのは新澤さんだとも言えるかもしれません。


一方では新澤さんとの撮影において、私がその場に立ち会うことはとても大きな意味を持っています。たった一枚の写真のカットを決めるために、どこを撮るのか、なぜそこから撮るのか、そこを撮る意味は何か、タテイチなのかヨコイチなのか、などなど。現場で対話と吟味を重ねて最小限のカットに納めてゆきます。

中には何十枚も撮って、好きなカットを選んで下さいという方もいらっしゃるようですが、私はそういう撮り方は好きではありません。プランニングにおいても十案作ったので好きなプランを選んで下さいとはしないように。何十案作ろうとも、建て主さんに見せるのは吟味を重ねた一案だけです。

すでにサイトに載せている写真も、前述のやりとりから、これしかないというカットでシャッターを切ってもらっています。すべて意味のあるカットです。竣工撮影はまさに設計者との二人三脚の作業であり、ガチンコ勝負の場といえそうです。

「大屋根の家」の写真の仕上がりもどうかお楽しみに!
今週末以降も撮影は続きます。こちらも天気が持ちますように。