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sekimoto

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休み中に映画「杉原千畝」のDVDを観た。杉原千畝は第二次世界大戦中に日本政府の意に反し、多くのユダヤ難民に独断でビザを発給し命を救ったとされる人物であるが、映画に感銘を受けながらもふと思い出したことがあった。もう10年以上経っているし時効だろうと思うので少し書く。

今から15年も前のこと、フィンランドのヘルシンキ工科大学(現アールト大学)に留学中だった私は、カリキュラムを終え、ビザの有効期限満了を控えたある日、大学の担当者のところにいた。

当時私は大学に籍を置きつつも、留学のもう一つの目的は大学の授業とは別のところにあった。フィンランドの設計事務所で実務を経験すること。ところが、努力もむなしく留学も満了間近になってもそちらの目的はまだ果たせていなかった。

このまま帰国すると後悔すると思った私は、大学の担当者に直談判した。「大学のカリキュラムが終わり、私のビザももうすぐ切れる。大学の在籍を延長する許可はないし理由もない。けれども私はやることがありフィンランドにまだ残りたい。どうすれば良いか?」

どうもこうもないと思う。自分でも何言ってんだろうと思った。大学がアジアから来た名もない学生の不法滞在の片棒を担ぐことなんてありえないことだ。

ところがその担当者は少し考えてからこう言った。「3日後に来てちょうだい」

その3日後に行ったら、学長のサインが入った大学側のレターが用意されていた。そこには私がカリキュラム終了後には研究員として引続き大学に残り、学費も免除される旨の内容が書かれていた。事実上の空手形である。

「これを(ビザを管轄する)警察署に持っていきなさい。あなたは見るところ真面目な学生のようだし、悪いことしちゃだめよ」

警察署の無愛想な窓口の係官は、滞在延長の書類とその大学のレターとを交互に眺めている。映画では千畝の発給したビザが目の前で破られるシーンがあったが、当時の私も同じ心境であった。

ところが実際には目の前で無事ビザ延長のスタンプは押され、あっけなく滞在延長は許可されたのだった。

その後、おかげで当初の目的を果たすことが出来た私は、半年後に遅れて帰国し事務所を設立した。さすがに命を救われたとまでは言わないが、あそこで帰国を余儀なくされていたら少しはその後のストーリーも変わっていたかもしれない。

それはともかくとして、あそこで規則に縛られず、すべて自分の責任と判断で手形を発行してくれた当時の担当者には心から感謝しているし、そのことを思い出すたびにフィンランドという国の素晴らしさを思う。そして、私もそういう判断ができる人間でありたいと思うのだ。