渋谷区のビルの谷間にひっそりと佇む古いお米屋さんがあった.
引く手あまたの建設会社や設計事務所からの建替えの声を,頑なに拒み続けてお米屋さんを続けてこられたAさんのお店兼住居を,集合住宅に建て替えるという大任を任されて早1年半.とうとう今日からその解体工事が始まった.
歳は70に近いそのご夫婦は人情味に溢れ,足を運ぶたびにその気遣いと優しさに心を打たれた.仕事を離れて,このご家族のためならと私に思わせたのは,そのお人柄に加えて,その家が私にとっても実家のような温かさや,居心地の良さがあったからかもしれない.お店から上がった場所にある掘りごたつが,いつもの打合せの定位置だった.
これまでいくつの古家を解体し,更地にしてきただろう.壊される古家に感傷を覚えたことはない.けれどもこの日の私は胸が締めつけられるようだった.
都内には私の祖母の家がある.今は祖母はなく,叔父や叔母が住む家ではあるのだけれど,私は幼い頃から盆暮れに泊まりに行ったその家が大好きだった.木造平屋で縁側があり,和室には珍しい鉱物の置物があって異国の風景画が掛かっていた.
食卓は掘りごたつ.そう,掘りごたつがあったのだ.私は優しかった祖母をその施主に重ね,掘りごたつにあの家を思い出していたのかもしれない.
祖母の家はだいぶ前にハウスメーカーによって建て替えられた.祖母の習慣もあり,新しい家にも掘りごたつは設えられた.だからそこに家族の顔が揃えば,以前と変わらぬ光景があったはずなのに,私の中では何かが決定的に損なわれた気がする.
私はあの家が持っていた”匂い”が好きだったのだ.
ちょっとおどろおどろしくて,混沌としたあの家の闇が.
果たして我々が1年半もの歳月をかけて積み上げてきた対話と図面の束は,この家が持っていたもの以上の空間を,時間を,ここに作れるのだろうか.普段なるべく考えないようにしているその問いが,今日は頭から離れなかった.
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